○下村泰君 結局、ただこのK
先生が就任する前の
先生は先輩なんですよ。その先輩の
先生が悩んで寝込んでしまって
学校を休んだ、その後へこの若い
先生が来たわけですね。ですから今の
局長のお話だとちょっと間尺が合わなくなるんですけれども、こういうところですからこういう状況もあったということなんですね。
一番気になるのは、今ここにいらっしゃる委員の皆さんも、じゃ一体この
先生がどうなったかということはやっぱり気はなるところだと思います。そうしますと、これ概略を申し上げますと、このクラスの
子供たちがこの
先生にいたずらをするわけですな。そして山というのがあります。
子供たちの間に山と言われている言葉がある。それはその
学校の裏にある山なんですが、その山はがけがありまして、そこからよく子供さんが落ちて負傷するわけですね。ですから山というだけでみんなそちらへ行くことを嫌がる、あるいは鬼門にしておるわけです。そこへカズオが行ったといううそをついて、途中の草原に大きな穴ぼこを掘るわけです。いわゆる落とし穴ですよ。
先生は、カズオが山へ行ったというから、あら大変だと、がけから落ちれば自分の夢の中が正夢になるんですから。
先生が行きますとその穴ぽこへ落ちるわけですね。そうしますと、その穴の上からクラスの生徒たちが、
先生がおっこちた、
先生がおっこちたとはやし立てるわけです。そうすると、そこへ上から一人するするおりてくる子供がいる。これがカズオなんですな。さんざん悪さをしたカズオが実は一番
先生のことを心配していたということなんです。
そのくだりをちょっと読んでみましょう。
K
先生は、はっとした。その子どもはカズオだった。と同時にK
先生は、不思議な気持ちになった。
自分はカズオを憎んでいたが、カズオはこんなにも自分を思っていてくれたのだ。
カズオは悪い子どもではなかったのだ。
K
先生は、カズオの心のなかが手にとるように読めてきたのであった。不思議な体験であった。
「カズオよ、ありがとう」
先生は思わず、カズオを抱き寄せて、その頭をなでてあげた。カズオは逃げなかった。なにしろ狭い穴の中である。
上の方では「カズオ! カズオ!
先生に叱られるぞ。はやく逃げろ!」と、どなっている子どもが何人もいた。
カズオをみると、いつも叱っているK
先生を、子どもたちは知っていて、カズオに逃げろ、といっているのだ。
—私は悪い
教師であった、とK
先生は
反省した。
この落とし穴事件をさかいに、カズオのわるさは消えていった。教室では、
先生の手伝いをよくするようになった。生徒たちに紙を配ったり黒板をふいたり、花ビンに花をいけたり…。
カズオはこれまでの七年間、だれからも愛されたことがなかったのである。
K
先生の顔にツバをかけたのも、逃げ出してK
先生に追いかけてもらったのも、また叱られても叱られても、わるさをくりかえしたのも、みなカズオの「愛情」の表現だったのだ。
これはやはり知恵おくれのお子さんのいわゆる特有のこういうような症状なんですね。こういう
経験です。これは本当にとうとい
経験だと思いますよ。ですから、この
先生にとっては、このカズオというお子さんのおかげで
先生というのはどういうものかということを肌でおわかりになったと思うんですね。
ですから、
教育は人なり、大臣もよくおっしゃいますが、衆参の
審議を通してこの言葉が大変よく出てまいります。全くそのとおりだと思います。しかし、そして人と
教師との、
児童生徒との触れ合いの中で創造されるもの、つくり上げられてくるもの、これは画一的なものじゃないんですね。だから画一的なことを
研修をしてもこれは無理だということがこの例でよくわかります。そのときそのときの状態に応じて、その状況に応じてアドバイスは必要だと思います。これが
研修だと思うんですよ、私は。ですから、そのテーマ、形態、
期間はおのおのその
教員、
現場のおのおののケースによって違ってきます。だから、
自主性に任せておくとやらないという
意見があるが、これは私はちょっと間違いじゃないかと思いますね。こういうもの、すべての時間的精神的余裕というものを全部保障してあげたら、そう御当局の考えているほど新任
先生もいい加減じゃないと思います。
それについていろいろ事例がございますけれども、ある養護
学校で
講師を呼んで
研修会を開こうとした、勉強しようとした。そうしたら、Aという人に頼もうとしたら、そのAという人は養護
学校を否定する人だからだめだと
校長が拒否した。だけれども、その
学校の
先生たちはAさんの考えに賛同するから呼ぼうとしたんじゃなくして、否定をしているAさんというのは一体どういう人なのか、その人に否定をしている
意見を、つまり自分たちの考えと違っている
意見を聞こうとして呼ぼうとした。それをだめだと言うのは、これはやっぱりおかしいと思いますね。そんなことをしていたらいつまでたったってプラスとマイナスはかみ合わないと、こういうことになります。
こういうこともあるんですが、これ福岡県のある投書なんですけれども、「
教師のやる気をそぐ福岡県の
教育現場」というんです。これは女子の
先生です。
今年三月末、突然の辞令で、普通科全日制高校から、一八〇度状況の異なる定時制高校へと転勤した。前任校にはまだ四年間しか勤めておらず、しかも、昨年度一年生担任で、今年度は引き続き二年生担任になることが決まっており、張り切っていた矢先のことだった。
四月一日、かなり不服ながらも、新しい職場を訪れると、早速、今まで一度も担当したことのない科目の授業をしてくれということと、三年生の担任をしてくれということを頼まれた。科目の件は引き受けたものの、担任の件は、とても自信がなく断ったところ、「あなたがやらないとすれば、新採の
先生が担任をやらなければならないのですよ。あなたは、新採の
先生にやれとでも言われるのですか」と、かなり強い語調で言われ、結局、
学校のしくみも
学校の地図もよくわからない状態で、担任をもつことになった。
この
先生大変苦しんだ。
つい先ごろ、九大の心理学の教授をなさっている方が「では、カウンセリングを本格的に勉強してみないか」と声をかけてくださった。私は飛びついた。
しかし、またもや上司から「ダメ」との連絡。「勤務時間中だからダメ」(定時制の勤務時間は一時から一〇時までであるが、生徒が来るのは六時で、それまでは実質的に時間は、あいている。講義は、週二度、それも午後三時までで、差しつかえはない)。「自分の趣味や好みで勉強するのは許されない」(どうしてカウンセリングが
教師にとって個人の趣味や好みになるのだろう)。
「
研修をしろ」「
研修をしろ」と言っておきながら、
教育センターで行う行政主導の官制
研修以外は、すべて受けさせない、県の
教育委員会と
現場の管理職。日ごろ「生徒のために」と言いながら、県の
教育委員会の言うことだけにつきしたがっている上昇志向の
校長、教頭たち。
今、私は全くやりきれない心持ちでいる。
こういうふうなあれも出ているんですね。
そうしますと、一体今まで議審されてきている、やれ
研修だ何だかんだということは一体どこに意義があるのかな、どこにこういうあれがあるのかなという、だんだん私は疑問を持ってくるんですけれども、これに対して
局長何か御
意見ありますか。