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参考人(三輪
定宣君) 三輪でございます。現在、千葉
大学の
教育学部に勤務し、
教育行政学を専攻しております。また、この二十年来、
教員養成の実際に携わり、現在、
教員養成研修等の問題を研究する団体の
全国教員養成問題連絡会の代表世話人を務め、また
教育法の専門学会であります日本
教育法学会の理事をしております。
以下、
法案に反対の
立場から
意見を申し述べます。
初めに
基本的な問題を
指摘してまいりたいと
思います。
第一は、
法律制定に必要な研究や合意、コンセンサス、関係団体との協議が著しく欠けているということでございます。特に
教員政策は、ILO、ユネスコの
教師の地位に関する勧告も示しているように、当局と
教職員団体との協議、合意に基づいて決めるというのが世界的な常識、慣行でございます。
第二は、
初任者研修の
制度化は国の立法措置になじまないと私は
思います。
教育の世界はなるべく
教育の条理、慣習、自治で営まれることが望ましいわけでして、特に公立
学校教員は地方
公務員ですから、地方の自治、住民自治の本旨に基づきその人事や
研修が行われる必要があると
思います。
第三は、
教師の
力量発揮の条件整備を先行させるということでございます。
第四に、私の気になるのは、この
法案の底に
教師や
大学不信があるのではないかと思われます。現場や
大学の
教職員の骨身を削る日常の苦闘が信頼できたら、この
制度の構想はなかったと思うのです。
初任者研修の暗いイメージが有能な青年を遠ざけて、教職の
水準を長期に低下させることが懸念されるわけでございます。
次に、
法案の具体的な
問題点を
指摘してまいりたいと
思います。
第一に、
初任者研修は、
法律によって公然と
新任教師をこれは半人前扱いにするんだと。最高の
教師で最高の
教育を受けるべき
子供の
教育を受ける権利をこれは侵害することではないか。「
初任者研修」と表現しておりますが、一
年間条件つき採用として、
指導教員に
職務の全
過程の
指導を受けるのですから、これは紛れもなく
試補制度、あるいはその変形と言うべきですね。ただし、欧米の
試補制度は、正規の
教師は
子供の全
責任を負い、試補生は実習生ですから
子供や親には説明がつきます。もっとも、
試補制度は、これは
教員養成不備の
時代の産物ですので、最近は各国で廃止、見直しの傾向であります。
初任者研修は
試行段階でも、
子供から、僕は
先生のモルモットなのとか、なぜ
先生の上に
先生がいるのとか、ひよっこ
先生だとか、
教育実習生と思っていたとか、二人の
先生がいて迷ってしまうなどの
意見が出て、
父母の中には、ことしはあきらめたと言い、抗議の電話が
新任教員宅に殺到して自宅に帰るのが怖いといった声も出ております。これは
初任者研修が
新任教師を半人前扱いにしながら、
授業、
学級は一人前の
教師並みに担当させるという矛盾のあらわれなんですね。だれでも半人前のレッテルを張られた
先生にかけがえのない
教育を受けるのは、これは屈辱です。
子供はだれもが最高の
教師から最善の
教育を受ける権利があり、半人前、見習い
教育、実験
教育を強いられるゆえんはないわけですね。新任もベテランもすべての
子供に全く同等の重い
責任を負っています。複雑さや重要さは全く変わりありません。ですから、
新任教師を半人前扱いするということは、その
教育の質が一番劣るという品質表示なんですね。ベテラン
先生がついているから心配ないといったって、これは通用しません。
子供や親の抗議はこれは当然ではないでしょうか。
第二は、
新任教師一
年間の
条件つき採用なんですが、これは極端な
身分不安、精神不安に追い込んで、
教育や
研修に安心して伸び伸びと没頭できなくなる。同時に
子供や親もその
教師の不安が伝染します。そして、その
教育に一
年間にわたって不安、不信を押しつけられるわけですね。一
年間の
条件つき採用が
試行ではなくて正式
実施の
段階になりましたら、この心理的な圧迫は格段に大きくなり、常に
職務の全面にわたって監視、評価が行われ、不適格者だとかあるいは
職務遂行能力なしの烙印を張られる脅威あるいは緊張に
新任教師はさらされるわけですね。そんな状態で
子供が伸び伸びと育ち、人格の完成が期せられるはずはないじゃありませんか。
教育基本法が特に
教員の
身分は尊重されなければならないと定めておりますのは、それが侵されると
教育自体が不安定になって、
国民全体の奉仕者としての
職責が果たせないからでありまして、
教員の
身分というのはそれ
自体が重要な
教育条件なんですね。したがいまして、
教員の
条件つき採用は一般
公務員よりもこれは
身分尊重の原理に徹して運用されるべきで、したがいまして
教員に特例を設けて六カ月を一
年間に延長するというようなことは、これは完全に
教育基本法の精神に反しているんですね。
特に
教師は既に
採用前に
大学で
教員養成教育を受け、
教員免許状を取得し、その上選考によって学力、人格の
審査に合格しておりますから、
条件つき採用で
職務遂行能力を精査するまでもなく、ほぼ安心、信頼して
教育が任せられるんです。初めは技術面で戸惑いがあるでしょうけれども、専門知識は最新、若さという
子供を引きつける磁石のような魅力を持っているわけです。四月に教壇に立って困らないだけの
教育方法の理論や
教育実習、その事前
授業は
大学が
責任を持ってやっております。教職の
特殊性は一週間の時間割の繰り返しで
教育活動が行われるところにあるわけで、六カ月で十分
能力の実証もできると
思います。
第三に、
初任者研修と銘打っていますが、
教員研修全体をこれは自主
研修から
行政研修、命令
研修へと原理の一大転換を図る、その
教員研修の大きな変質を迫るものだと私は
思います。二十条の二の条文によりますと、
初任者研修は「
教員の
経験に応じて
実施する体系的な
研修の
一環」とされ、全
教師に対する生涯の
行政研修体系が規定されているわけですね。そして
初任者研修は、教職の入り口で
教師の自主的な
研修の自覚とか
能力の芽を摘んで、いわば
行政研修べったりの意識を植えつけ、生涯それに順応服従する
教師に仕立てる窓口と言うべきではございませんでしょうか。
教員研修の特質は、一般
公務員、民間企業社員の
行政目的、企業目的のための
行政研修、企業
研修と違いまして、
教育行政目的のためではなくて、それとは相対的に別個の
教育目的、教職の
専門職性に基づく自主的、専門的
研修が生命なんですね。
法律にも、一般
公務員の
研修は「勤務能率の発揮及び増進」が目的となっておりますが、
教員については、その特例として「その
職責を
遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない。」と明記され、
行政研修の有無にかかわらず、不断の自覚的
研修義務が
職責の
一環とされております。
教育基本法は「
教育の方針」の第一に学問の自由の尊重を掲げておりますが、この
教員研修こそはまさに学問の自由の保障のかなめなんですね。
行政事務に携わる一般
公務員の
研修は
行政研修になじむでしょう。しかし教職は
教育行政ではありません。
教員免許状を持つ
教育専門家の専門的
職務であって、そのための
研修が
行政当局に対して自律的であるのは当然ではございませんでしょうか。したがいまして、
行政当局による
研修行政の
基本は、
教師の自主的な
研修活動に必要な諸条件の整備とその奨励で、
教特法の十九条二項も、第一に
研修に要する施設の整備、第二に
研修の奨励を挙げております。
第四に、
指導教員の
初任者に対する
マンツーマン方式は、
初任者が周囲の
教職員から自由に学ぶ、みずからの自覚で学ぶという
機会を奪い、
研修効果を低下させるということですね。
日本
教育学会の一九八〇年の
調査によりますと、
教育実践の質を
向上させた契機ですね。
新任教員に対するアンケート
調査によりますと、十三項目のうち三項目を答えることになっておりますが、第一は
先輩、同僚
教師の個別的
アドバイス、これが一番ためになるというんです、六六・四%。第二が
子供たちとの交流、これが五一・七%ですね。第三位の
校内研修、三〇・一%、以下その他を大きく引き離しているわけです。それぞれの
先生からいいところを学ぶ、
子供との交流が一番ためになる、こういうんですね。
それで、
マンツーマン方式は
初任者研修の範囲を
基本的には特定の
指導教員に限定する、センターの
研修に局限をするということになりますので、したがいまして広くすぐれた
教師やその実践から啓発され理解、納得によって身につけることを本旨とする
研修の本質が損なわれるということですね。
五点目に、
初任者研修は週二日マンツーマン
指導、そして週一日の
教育研修センターでの
研修など、
新任教師と
子供との十分な接触を妨げる、そしてまた課題研究や報告書づくりでさらにそのことが助長される。そのために、研究やあるいは
授業の準備、整理というものがそれだけおくれて、結局
教育のつまづきの原因になってしまうということで、これでは
新任教師の
力量向上にむしろ妨げになるんではないでしょうか。
第六点に、新任、
初任者研修の目指すところの
教師の
資質向上というのは、私は真の
教育的
力量ではない、主として政府への忠誠心とか服従心とかあるいは学習
指導要領を忠実に教える狭い
教育技術になるのではないかと憂えております。
周知のように、四十年前のちょうどこの
国会で制定された
教育基本法は、前文で「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する
人間の育成を期する」とか、あるいは「
教育は、不当な支配に服することなく、
国民全体に対し直接に
責任を負って行われるべきものである。」というふうに明記いたしました。これは国家のため戦争のために
教師の自主性、主体性を奪い、虚偽を
教育の名において教え込み、
子供を戦場に送った戦前
教育の誤りへの痛切な反省、ざんげからいわば生まれた新生日本の
教育宣言であったと
思います。それはユネスコ憲章の恐るべき大戦争は、
人間の尊厳を否定することによって可能とされた戦争であった、
教育とは
人間の尊厳に欠くことのできないものであるというこの精神と同一の人類普遍的
教育理念であろうと私は
思います。
ところが
初任者研修は、
全国画一的
制度のもとで
新任教師の
個性やあるいは
人間的尊厳を損なう、学問の自由不在の命令的
研修で平和と真理に貫かれた
教育活動を困難にする、
教育者としての主体性を根底から揺るがすわけですね。ですから、
教育基本法制定四十年後のこの
国会で、こういう
法律を論議しているということを当時だれが予想したでしょうか。今
子供のいじめ、
登校拒否、体罰、校則などの管理
教育や、
人間を点数で差別、選別する
教育体制など、
学校教育はまさに多くの問題を抱えております。
父母、
国民もその解決を願っております。また、日の丸、君が代強制など国家主義の
教育も浸透してきております。それらは一口に言いますと、
人間の尊厳のための
教育を提起した憲法、
教育基本法の精神の形骸化のあらわれではございませんでしょうか。
教育改革の
あり方は、いま一度戦後
教育の初心を確かめ、その人類普遍的
教育理念を実現して国際化に対応していくことではないでしょうか。これに逆行し、再び
教育の国家統制あるいは独占ともいうべき
状況に道を開くこの
初任者研修法案の採決には強く批判、反対をいたしたいと
思います。
そのことを申し述べて、私の
意見陳述といたします。
ありがとうございました。