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参考人(
石川忠雄君) それでは私の
意見を述べさせていただきます。
まず、
総合研究大学院の
設置の問題でありますが、今
田中参考人から
お話のありましたように、詳細はそれに譲ることといたしまして、私もその
設置には賛成であります。その
理由を少しく大きな
立場で申し上げてみたいと思います。
まず第一に、明治以来の
日本の
教育というのは、大まかに申せば
日本の
近代化を達成するために必要な
教育であった、こう申してよろしいかと思います。そういった
近代化のための
教育というものの
特徴の
一つは、その
近代化について先進諸
国民が何をやってきたか、何を考えてきたかということを知るということが非常に大切でありました。それを知ることによって、その
知識を
日本の
近代化に応用しよう、こういうところにあったわけであります。よく言われる
言葉でありますが、
西洋に学ぶという姿勢、その
言葉は今申し上げたようなところを示していると思います。
しかし、御
承知のように、近年
日本はその
近代化において少なくとも
物質的側面においては
成熟期に達しておるわけであります。それで次の時代をこれから迎えようとしている。こういうことを考えなければならない。
西洋に学ぶという形での
国際交流は今日までもありましたけれども、しかし今申し上げたような
立場から考えれば、ただ
西洋に学ぶのではなくて、
日本が世界の
学術、
文化の
発展に貢献していかなければならないという
側面も強く出てきているということが言えると思います。そうなりますと、当然今まで
日本にやや欠けていた
基礎研究を極めて強く
充実するということも必要でありますし、
先端技術についての
発展も考えなければならない。そういうことに加えて、
社会、
人文科学系におきましても高度の
専門能力を持った
職業人の
養成ということも非常に大切になります。その
意味では、
大学院の
充実というのはこれからの
高等教育にとって最も大切な
課題になるということをまず最初に申し上げたいと思います。
第二の
理由は、
大学院を
充実するといっても、それは質の向上をもちろん伴ったものでなければならない。単なる
量的拡大ということを言うわけではありません。今回考えられている
総合研究大学院は
共同利用機関を
基盤にして成立するものでありまして、その
大学院の内容が極めて高度のものである。特に
博士課程を問題にしているわけでありますから、私は非常に高度のものであろうというふうに考えるわけであります。その
意味で、こういった
試みは多様にあってよろしいのだというふうに考えております。
第三に、これは新しい形の
大学院であります。したがって、新しい
大学院はそれなりに思い切ったことをやることが可能であります。
今までいろいろ
大学院に
課題があった。その
課題を思い切ってここで転換することができる。そのことは既成の
大学院に対しても大きなインパクトを与えることになるだろう。そう考えますと、この
総合研究大学院というのは
設置されてしかるべきものであるというふうに私は考えておるわけであります。
それから第二番目に、
入試センターの問題でありますが、これは新
テストに関係することでありまして、これについて私の考えを申し上げたいと思います。この
入学試験の
改革ということが
教育改革の
一つの大きな柱であるということは、これは当然否定することはできないと思います。その今の
入学試験制度の持っているいろいろな悪い
影響、
弊害、そういうものについては、これはいろいろ指摘されているところでありますけれども、この
弊害を果たして
入学試験制度だけの
改革で取り除くことができるかというと、私はそれは難しいと思います。この背後には、
学歴偏重社会の問題とか、
偏差値偏重の意識の問題とかさまざまな問題がございますから、
入学試験制度の
改革だけでこれがすべて片がつく、そういう
性質のものであるとは私は思いません。したがって、その
弊害を除去するということになれば、当然
大学入学試験制度の
大学の面からの
改革も必要でありますが、同時に
社会のそういったさまざまな問題をどういうふうに解決していくか、双方からこれは接近しないと片づかない問題であるというふうに考えております。
さはさりながら、やはり
大学としては、
大学でもできる
入学試験制度の
改革の
方法をやはり探らなければならない、そう考えるわけであります。その場合に問題になりますことは、一番大切なことは、私は
大学の固
性化、
多様化を促進することであるというふうに考えております。つまり、
大学が持っている
個性あるいは
特性というものをもっとはっきりさせるということが大事であります。そうして、多様な
大学が存在するということが非常に大事だと思うのであります。その場合に、
個性をはっきりさせるということについては、実はいろいろなことが考えられます。例えば、
私立大学のことをとってみれば、
私立大学は
建学者というものがあり、そこには
建学者の
理想と心がある。それを土台にして長い間かかって築いてきたその
学校独特の
気風がある。その独特の
気風の中で
学生が勉学をし、自分の
人間形成をする、こういう形での
個性をはっきりさせるということも大切であります。
また、これだけ
大学教育が普及いたしますと、当然それにはさまざまな
特徴を持っていいわけであります。例えば、この
大学はむしろ
研究に
力点を置いた
大学である、あるいはこの
大学は
教育にもっともっと
力点を置いた
大学である、こういうような区別があるいは
特性がはっきりしても差し支えない。あるいは
カリキュラムについても、もちろん
個別科学を
中心に
研究体制、
教育体制が組まれている
学部では、当然その
個別科学をやるための
基礎になる点では
共通性がありますけれども、その上に立って、その
学校が目指すような独得の
カリキュラムを組む、そういうことによって
特性を出すということもできると思いますし、あるいは
問題解決能力を
養成するというところから、いろいろな
学問をそこに集めてくるというような形での
特性もできますし、学際的な
学部をつくることもできるし、いろいろな形の
特性、
個性化ということがもっとはっきり行われた方がよろしいのだというふうに私は考えているわけであります。
そういうことを前提にして考えますと、当然それぞれの
大学はそれぞれの
大学の目標、
特性にふさわしい
学生を入学させるということが必要になってまいります。それをやるためには、画一的な
入学試験の
方法ではなくて、
入学試験の
個性化と
多様化がやはり行われることが望ましい。全部を
偏差値だけで切ってしまうというような形の画一的なやり方ではなくて、その
学校にふさわしい選考の
基準、これは
学力はもちろん必要でありますが、それ以外の資質も十分に考えるような、そういう
入学試験が行われることが私は非常に好ましいのだと思います。
それに比べて考えてみますと、今までの
入学試験というのは私はどうも画一的にすぎたというような気がいたします。例えば、一万人、数千人の
学生をわずか一週間ないし二週間で
選抜するということになれば、当然とった
偏差値だけで
輪切りにしていくという、
輪切りといいますか、
偏差値で切っていくということはこれはどうもやむを得ない
方法かもしれない。しかし、もっと
個性的な、あるいは
多様化した
入学試験をやるということになれば、いろいろな
方法を講じてそれをやるだけの余裕も必要であるし、
省力化も必要であると、そう考えるわけであります。そういうような
個性的な、多様な
入学試験がやれるように、その手助けをするという
意味で私は新
テストというものが考えられているというふうに思います。
今まで世論一般行われている誤解は、新
テストは
共通一次と同じであって、それは全
大学に
画一化をもたらすものであるという
考え方がありますが、実はそうではなくて、新
テストというのはもともと
入学試験の
個性化、
多様化をもたらすために、そのために役立たせてもらいたいという
立場から考えられた
入学試験制度でありまして、私は目的は反対なんだというふうに申し上げておきたいというふうに思います。そういうことでありますから、その
利活用の
方法というのはどういうふうにでもできるようにしたい。その
大学それぞれの
考え方によって自由にいかようにも使えるような形のものにしたい。例えば五
教科五
科目を全部受けなければいけないんだというような形はとりたくない。一
科目でも二
科目でも、その
大学が必要とされるものはそれだけの
利用をすればよろしいというような形に持っていきたいということが考えられたことであると申し上げておきたいと思います。
そういうことでありますが、しかしもちろんその
判断はどういうふうに
利用するか、あるいは
利用するかしないかという問題はそれぞれの
大学の
判断と
自主性と見識に任されていると、こういうことであります。ただ、私が申し上げたい点は、この
試験が、新
テストが
利用されるにせよ
利用されないにせよ、あるいは全面的に
利用されるにせよ、あるいは部分的に
利用されるにせよ、いずれにしてもまだこの
テストというのは始まったばかりと申しますか、提起されたばかりであります。したがって、これが今六十五年から実施しようとしているものが
完全無欠のものであるというわけではない。この
テストというのは今申し上げたような
意味において
個性的かつ多様な
入学試験を行うことができるような、そういうものにこれから育て上げていかなければならないということであります。
とかく
世の中はせっかちでありまして、出発のときにどうなったからそれでこれは
成功であるとか、不
成功であるとかいうことを言われがちでありますが、私はこういったものはみんなで長い間かかって育てていくという
性質のものだと思います。アメリカのSATにしても今日ほどの
試験になりますまでには随分長い年月がかかっているわけであります。どうも余り性急に物事は
判断しない方がよろしいのではないかというふうに思います。もしこういうような
試みがうまくいかないということが出てまいりましたときには、私は
日本の
入学試験制度は以前の
状態に立ち戻るということであります。何のために
入学試験の
改革を考えたのかといえば、以前の
状態がよくなかったからそれを考えたわけでありまして、それが今度の場合でももしうまくいかないということになれば以前の
状態に
状態が戻るということであります。そのときに一体どうするのかということもあわせお考えいただく必要があるだろう、そう思っております。
ありがとうございました。