○青島幸男君 本法案につきまして、私はここで告白するのもなんでございますけれ
ども、いろいろ先に質問に立たれました
委員の方々の御発言を伺っておりますうちに、私の不勉強がだんだん身にしみて、後悔をされてくるような
状態でありまして、甚だ不見識でありますけれ
ども、もう一回勉強をし直してこの場に臨みたいというふうに思うくらい反省をしておるわけであります。
聞けば聞くほど問題点が多いんじゃないかという気が実はしているわけでありまして、この一貫した流れの中で、こういう問題が出てきておるというのをはたと悟ったのは、
郵政省の考え方とか対応の仕方が実に行き当たりばったりで、基本に哲学がないというような印象がまずあったんです。それはある面では仕方のないことかもしれないと思うんです。ということは、我々が予想もしかねなかったような急速なテンポで、予想外の進展をしてきましたんで、ここのところ十五年ぐらいは、まさか
放送衛星などというものが
宇宙のかなたに存在をして、これを
地上から制御して、そこへ当てた
電波がそのまま戻ってきて、それを一般の
国民が、一般の家庭において受信できるというようなことは夢にも考えておりませんでした。
ですから、次から次に出てくるそういう新しい
技術に対応するために一貫性に欠けた
部分があったかもしれないというのは、多少許せる
部分もあると思うんですけれ
ども、しかし、それにしてもちょっと指針の立て方が甘かったんじゃないかという気がします。
というのは、そもそも難視聴解消のために打ち上げた
衛星ですけれ
ども、これがかなりの可能性を持っているということで
放送大学をやろうじゃないか、これも行き当たりばったりの話だったと思うんですけれ
ども、それで最初はそれを
NHKにさせたらどうか、
NHKの教育
放送みたいなものを拡充発展させれば、それで事足りるんじゃないかということになりまして、
NHKはそれはとんでもない、できませんという話になりまして、じゃ別個のものを立てようじゃないか、かねや太鼓で
放送大学を宣伝なすって、しかしいつの間にかしり切れトンボになりまして、
地上波で関東地方のみというような格好になりました。
それも、ただ単に
衛星のふ
ぐあいだけではなくて、何となくお祭り騒ぎが終わった後というような格好で、竜頭蛇尾と申しましょうか、先ほど
局長の
お話ですと、CATVを通じてやったらいいだろうとか、あるいはビデオを通じて
全国ネットにできるんじゃないかというような
お話まで伺いましたけれ
ども、実際には
衛星が上がるからこそ
放送大学というのが、
全国一般の方々が終身修学の機会がある、これはすばらしいことだというんで行われてきたんですけれ
ども、どうも
内容と実態は全く違ったものになってきているという気がします。
衛星放送ができて、
NHKがこれで二十四時間、たとえ
試験放送とはいえ、従来の総合
放送と教育
放送のほかに新たに一波を設けたという格好で
放送をずるずるべったりに行っているというのが、私はもう承知できないという考えでおるんですけれ
ども、その上
BS3が上がれば、今度はハイビジョンもやりたいと。このハイビジョンというのは大変な可能性を持っておって、
大臣の
お話ですと、六十兆からの需要を喚起するかもしれないし、一般の方々が共有の
電波を享受して、しかも文化の発展、それから社会資本の充実、
国民生活のすばらしき向上などというふうに、何かユートピアみたいな
お話をなすっておられるように私聞くんですけれ
ども、必ずしもそうはならないんじゃないかという気が実はしているんです。
と申しますのは、新たに
衛星放送が行われる、各家庭でそれを受信するための
設備をするということは、
国民各家庭の受信者に新たな
負担を強いるわけですね。新たな
負担を強いたものが、果たしてその先にあるものは何かということを明確に描いておかないと、とんでもない事態になりはしないかという気がします。
というのは、
NHKだけで今一チャンネル、三チャンネルありまして、その上二十四時間
放送していますね。その上に
BS3が上がると、今度はハイビジョンをやるわけですね。そうすると、そのほかに民放もハイビジョンをやり出す。そうなりますと、今八チャンネルある上に、新たな
衛星放送が一波とそれからハイビジョンが二波ということになりますと、十一波にわたるわけですな。そのほかビデオがありまして、それで一般の視聴者のニーズが多様化しているからとはいつも省の方はおっしゃるんですけれ
ども、多様化したくて多様化してきたわけじゃないと思いますよ。
私
ども終戦すぐにラジオしかありませんでしてね、あと新聞ですか、タブロイド版の新聞に連載小説が出てくるのを毎朝配達を待って読むとか、あるいは調子のよくないラジオに耳をつけるようにして聞いておりましたけれ
ども、それはそれで不幸だと思っておりませんでしたよ。物はない。物が潤沢にあれば幸せだという考え方は、もう今や古いと思いますね。
終戦のときも腹が減って困りましたけれ
ども、うちだけじゃないよ、隣近所皆そうだ。もし不幸という考えが生まれるとすれば、それは不平等から生まれると思いますね。うちだけじゃないんだ、食い物は。よそもみんなそうだ。だから我慢しろと言われれば、私も子供のころそう思いましたよ。ラジオしかないことをそれほど不幸と思いませんでした。
それが白黒のテレビができて、それがカラーになってというのは、
技術の発展とそれに伴う方々の努力と、あるいは営利目的で民放局が各局努力をして、
NHKもそれに切磋琢磨といいますか乗って、
技術的なあるいは
内容の充実を図ってこられた。で、隣の家のテレビは色がついている。うちのは色がない。だからお母さん、買ってちょうだいということが新たな需要を生みましてここまできたわけです。各家庭に今や一台と言わず二
台、三台というように存在するようになりました。しかし、これが本当に十分なる必要欠くべからざる情報を送っているかと言いますと、そうではない。人間生活、ドラマを見なくても、野球聞かなくても死にやしないわけですな、これは。だけれ
ども、必要欠くべからざるものと言えば災害時における情報とか、
大臣再三おっしゃいましたけれ
ども、それはとても大事なことで、これは絶対に命にかかわることですから確保しなきゃならないと思います。
しかし、一般ユーザーが願って多様化してきたニーズではないということをまずお考えいただきたいというふうに思いますし、それから、そういうニーズを改めてつくることが確かに景気の上昇につながるかもしれないけれ
ども、それは新たな
国民の
負担の上に乗るんだということも御承知おきいただきたいし、きれいな絵が、きれいな音が送れるようになる、見られるようになるということもすばらしいことには違いありませんが、きれいな絵やきれいな音だけ聞いているわけにまいりません。人々を引きつけたり、人々を高めたりするのは、やっぱり行われている
放送の
内容だと思います。どんなに美しい絵で、美しい音で
放送しても、野球の嫌いな人にそれを見させるというのは酷な話ですし、クラッシック音楽が好きな人にずっと聞いていろと言ってもそれは酷な話です。人人がチャンネルを選ぶのは、自分の好みによって自分が高められる、自分がエンジョイでき、自分が知りたいものを知られるという、そういう動機でチャンネルを選ぶわけですね。ですから、必ずしも美しい映像が、美しい音が流れれば、それで人は幸せになるとは私は思いません。
こういうことを考え合わせますと、新たな危険を冒して星を上げて、しかも新たな
負担を
皆さん方におかけして、受像機なり受信機なりをつくっていただいて、その先に見えてくるものは本当に人々の幸せだろうかということを私は大変懸念しております。一家に一台以上のテレビが出て、それは多様化しているんだから、一人一人がパーソナルなものを選ぶ。言い方は大変きれいですけれ
どもね、パーソナルなものを選ぶということは家庭崩壊につながるわけですよ。
私の友人がこのごろ田舎に帰りたくないと言うんです。なぜかと申しますと、せっかく汽車を乗り継いで、かなたの田舎へ帰りまして、やっと家族にめぐり会って、ただいまって奥へ声をかけると、こたつを囲んでいる家族が、昔は一斉に振り向いて、ああ、お帰り、どうだった、まあここへお座りと言って、こたつを囲んで酒の一杯も酌み交わしながら、東京でこういうことが起こった、あれからおまえがいなくなって、このうちではこういうことがあったよという交流があって、初めて家族の温かさの中に溶け込めてですね、ああ、田舎へ帰ってよかったなと思うと言うんですね。ところが、このごろ、ただいまと言って帰ると、ああ、ちょっと待ってくれ、今、武田信玄見ているからと言って、座敷の中央にあるテレビにみんな向こう向いて座ってしまうと言うんですね。それが終わってから、そうか、おまえ帰ってきてたんだなと。それじゃ帰る気がしないと言うんですよ。
それと同じように、おじいちゃん、おばあちゃんは盆栽の番組を見ていらっしゃる。お父さんは野球の
放送。高校のむすこはロックを見ている。それぞれの部屋にそれぞれのテレビがあって、食事の間じゅうイヤホンかけて子供が食事をしているというような
状況を私は決して幸せだと思いません。従来の床の間にかわって、仏壇にかわってテレビがあって、それに一家じゅうがかじりついていなきゃならないとも思いません。複雑多岐にわたった社会
状況の中で、さまざまな情報が流れるということもこれは決して――さまざまな情報の中から何が真実かを得ることは我々の権利ですし、そうあるべきだと思います。しかし、だからといって、それが必ずしも人々を幸せにするとは思わないので、先ほ
どもさる
委員の方から御発言がありましたけれ
ども、何でもかんでも可能性を追求して先走ってしまっていいんだろうか。ある日それは控えて、抑制して、この先に何が見えるかということを考える立場にいなきゃならない。その責任は我々にあるはずだということを申されまして、私も同感です。
そういう
意味から申しますと、
大臣言われるように、必ずしも先はバラ色ではないんだという気がしますけれ
ども、その点に関してはどのようにお考えか、まずお聞かせください。