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本岡昭次君 私は、文部省もいろいろと御苦労いただいていることはわかるんですが、本当に学校という現場をわかっておられるのかなというふうに思うんですよね。
私の住んいる兵庫県ですが、そこには家島という僻地、離島があります。その学校に新任教員がいつも三人も四人もずらっと配置されるんですよね、人事配置上。あなた方が
考えているようなきれいごとで新任教員が配置されへんのですよ。非常にひずんだ形で配置されるんですね。そういうところで今度、離島や僻地のところで指導教員を得るといったってこれまた大変、小規模校ですからね。だから、人事配置上の問題を見ても極めてこれは問題が多いというふうに思うんです。特に中学校へ行った場合は教科担任ですから、教科担任の指導員をつけるというようなことを実際どうしてやるのかなと思います。
しかし、それはまた
大蔵委員会じゃなくて文教
委員会でやってもらうことにして、私はお金の使い方の問題を
論議しているのであります。もうちょっとほかのこともやりたいので一応ここで打ち切って、
大蔵大臣なり
大蔵省に申し上げておきたいんですが、やっぱり今誤解があるのは、学校の教員には研修が行われていないんではないかという誤解があるんです。そうじゃなくて今、かなり多様な研修というものを教員は課せられております。文部省もやれと言う、県の
教育委員会もやれと言う、地方の
教育委員会もやれと言う、学校もそれぞれ
考える。それから教員自身もみずから研修をやるというふうなことで。
研修というのは、教員に新採用されてから退職するまで生涯にわたる、これはやらされるんじゃなくて、みずからやらなければならぬ課題ですよ。だから研修をやろうとしない教員なんて教員の資格がないと私は思っておるんです。それほど研修というのは教師にとって命ですよ。それだけに、私は逆に研修のあり方というものを大事にしなければならぬ、こう思うんであります。
そこで、私も学校の教員の出身だから言うんでありますが、みんな初任者のときがある。そのときはどうしたかということを皆常々思うんであります。学校には皆先輩がいて、最初その学校へ赴任すれば先輩が温かく迎えてくれる。新任教員としての心得を教えてくれる、そして子供とどう接したらいいかというようなことを、授業の交換もしながら一年間、あの学校へ新任教員が行ってうまく育ったか育たなかったかというのは、ある
意味ではその学校全体の責任を問われるというふうな意識を持ってみんな懸命になって、その新任教員が一人前になるように、それは親鳥がひなをかえすような調子で皆がやるんですよ。やっているんですよ。しかし、それはだれも報酬をもらっておりません。
だけれ
ども、そういう中で先ほど言ったように
日本の
教育がよかったから、それはまあ日教組がどうのこうのという
論議もありますけれ
ども、やっぱり
教育というものが今日の
日本を支えたという一般的な評価を受けるまでに至っておるんですよ。そういうものが現場の中に、学校の中の
教育力として存在しておるんですよ。先輩が後輩を育てていくという義務感みたいなものを皆持っておるわけなんです。そういうふうにして皆育ってきた。しかも、今言いましたように文部省も現に初任者に対する研修制度を行っております。県
教育委員会も地方の
教育委員会も学校も、独自の研究プランを持ってやっている。その上にまた指導教員なんというような者をマン・ツー・マンにつけて、そして一年間かかってやろうというようなことをかぶせてくるという、一体何をやろうとしているんかな、こう私は思うんです。
それで、研修というのは一年間やったから立派になるわけじゃない。やっぱり一生涯かかって研修研修を繰り返して、やっと一人前の教員になれるかどうかという代物だと私は思っておるんですよ。一年間やったらそれですべてじゃない。そういう
立場から、先ほど言ったように八百億円ものお金をこのことに投じていくという
意味が私にはわからぬです。まあ、表現は極端かもしれませんが、大切なお金をまるでどぶにどっと毎年、何の
意味もない、無
意味に金を捨てるようなことになりはせぬかと思う。ただ指導教員、非常勤講師なんと~うようなものをつくることにそれぞれがあくせくしてしまって、この仕組み、制度の中でみんなが右往左往してしまって、実際それでは今現に初任者を、新卒者を育ててきている学校の、親鳥がひなを育てていくようなそういう仕組みそのものもこれでは破壊をしてしまいやせぬかという、私は非常に心配をするのであります。
大蔵省にとってはちょっと皮肉に聞こえるかもしれませんが、一方では義務
教育費国庫負担法の中にある旅費だとか、それから教材費は削除されました。事務職員や栄養職員も義務
教育費国庫負担法の中から外せとあなた方は今文部省に詰め寄っておられる。しかし、最近はそこはいつも、いやいやそれは最後には義務
教育費国庫負担法の中でということでやっていただいて、非常に私は喜んでいるんでありますが、とにかくそういうふうに
教育全体の費用の中でも切り詰め切り詰めというものが盛んにある。四十人学級も十二年間かかって、まるでつめの上に火をともすような形でやってきている。そういう中にあって突如として八百億円ものお金をかけて、一体本当にこんなもの効果が上がるのかわからぬようなことに限られた
財源をどっと使うというようなことは、私は国のやるべきことでないと思うんです。
本当に
財源が大切だとするなら、
教育公務員特例法にも、教職員は研修に努めなければならぬと書いてあるんですから、努めるというのは
自分からやることなんですよ。
自分のお金を使ってでも皆さん立派な教師になるためにやりなさいというのが私は筋だと思うんです。だから、全く肝心なところにお金が使われずに、こういうむだなところに使われていく今の
財政支出の方法については私は納得がいかない。研修は今言いましたように大事です。肯定します。しかし、このやり方について決定的な誤りがある。これから毎年毎年このために大切なお金を便わにゃいかぬというのならば、もっとほかに大事な
教育予算の使い道があるのではないかということを私は思うんです。
ちょっと大演説をぶち過ぎましたけれ
ども、お金を、財布を持っておられる
大蔵大臣として、
財政支出の問題については慎重にひとつ
考え直していただきたいということを言いたいためにちょっと大演説をぶったようなことでございます。
大臣のひとつ御見解をいただければ私はありがたいと思うのであります。