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高木健太郎君
法案につきましては、先ほど
社会党の
浜本委員から大変詳しい御
質問がございましたので時間があれば
最後に一、二補足的に
質問いたしたいと存じますが、まず
最初に、
一般質問としまして脳死と
臓器移植について御
質問したいと存じます。
既に、
委員の皆様にはまた
厚生省の
皆さんにはよく御存じのことと思いますが、
最初に、脳死とはどういうものか、脳死と個体死につきまして二、三私の見解を申し述べつつ御
質問をいたしたいと存じます。
まず、脳死というのは、現代の
医療技術の進歩の結果生じてきた
一つの特異な異常な
状態でございまして、移植をするために脳死がつくり出されたというものではないということが私の
考えであります。
〔理事
曽根田郁夫君退席、
委員長着席〕
第二番目は、
臓器移植とは、決して理想的な
医療技術ではなくて、臓器疾患の治療に
努力をしたけれ
ども医療が及ばなかった、そこで移植以外に救済の道がないようにしてしまった、これは
医療の未熟の結果である、そのように
考えております。
第三は、脳死というのは、脳外科医の懸命の
努力にもかかわらず防ぎ得なかった結果として脳死という
状態が生まれたのでありまして、脳外科医にとりましては敗北感を味わっている、そのような
状態であろうと思います。
第四に、これは
一般の
方々に誤解をされていることではないかと思うので申し上げるわけですが、脳死になれば、脳死になったすべての人から臓器を有無を言わさず摘出して移植に用いるというように
考えられがちでございますが、そういうことではなくて、その人の何物にも拘束されない自由意思に従いまして臓器を提供するということでありまして、ドナーの、いわゆる臓器を提供する提供者の崇高な隣人愛の結果である、このように思います。強制されるものでは絶対にないということを
一般の
方々によく周知徹底をさせたい、こう思います。
第五番目に、移植医は臓器提供者の意思を尊重して、かつ、多くの移植医は自分自身もドナーカードを有しておりまして、決してハゲタカのように人の臓器をねらっているものではない、こういうことも申し上げておかなければならないと思います。
以上が往々にして誤解されている向きがありますので、
最初に申し上げるわけであります。
さて、脳死につきまして恐縮ながら若干説明をしておきたいと思います。
第一は、植物人間と脳死
状態でございますが、これについて医者の中にもよく
理解をしていない方があるわけでございますが、植物人間というのは自分で呼吸をしているそういう
状態でありますが、脳死
患者は自分では呼吸はしていない、これが一番大きな差異でございます。そうして、脳死
状態では人工呼吸器によって呼吸が維持されている
状態である。それゆえに、昔ならば息がとまって次いで心臓がとまり死んでいた者を人工呼吸器によって心臓を動かしている、こういう
状態であるということでございます。
第二は、心臓には自分で動くといういわゆる自動性がありまして、心臓は取り出しましてもしばらくの間は自分で動いております。もし条件を整えてやれば長時間動くことができます。これは温血動物、牛とか犬とか、恐らく人間であってもそのようであろうと想像できるわけでございます。しかし、肺というものには自動性はございません。だから、肺を取り出しても肺は自分で動くことはできません。脳からのリズミカルな指令によりまして胸郭が動く、それによって肺が他動的に動いているものであります。ゆえに脳が死ねば呼吸はとまる、こういうのが呼吸でございまして、肺死という言葉がよく弁護士会なんかで使われておりますけれ
ども、私は余りいい言葉ではないと思っております。
第三は、脳死
患者は生きているように見えます。死んでいるようには見えません。それは胸が動いておりまして、脈が振れます。顔色もよくて体が温かである、そういうことが死んでいるとは思えないというそういう
状態をつくり出していると思います。このような人から臓器を取り出すということは非常に人間にとっては抵抗のある
状態であろうと思います。しかし、人工呼吸器をとめますと胸の動きは直ちにとまりまして、数分間で心臓もとまりまして、顔色は紫色になりまして次第に冷たくなっていきまして、いわゆる息を引き取った
状態になります。
第四は、器官や細胞の種類によりまして酸素欠乏に耐える能力がそれぞれ違っております。神経細胞は最も弱くて、骨や皮膚は非常に強いです。それゆえに、心臓がとまると、環境、温度やその他の条件によって違いますけれ
ども、脳細胞が真っ先に死にまして、腎や肝臓は一時間ぐらい、皮膚などは数日間にわたってそのままの
状態で生き続けることができます。死というのはこのような
過程でありまして、イベントではない、瞬間のことではなくて
一つのプロセスであるということがよく言われますが、心臓または呼吸が不可逆的にとまりますと死の
過程に入るということで、今まで心臓の停止あるいは呼吸の停止をもって死としたのでありまして、全身が死んだということではありません。引き返しのできない、折り返しのできない死の
過程に入ってしまったその時点をもって死とした、こういうことでございます。
第五番目に、これも環境条件によっては違います。例えば非常に寒いというような場合は、呼吸がとまりましても、もしも脳の血流が保たれておりますと、数分または数十分以内であれば人工呼吸によりまして蘇生をするということはよく知られていることでありまして、氷の中あるいは水の中でおぼれたという場合に数時間の人工呼吸によってもとに返るということもたびたび聞くことでございます。しかし、それ以上の時間の経過または脳の血流が強く
障害されている場合は、脳死の
状態に陥りまして不可逆的な死の
過程に入ります。しかし、心臓その他の体の細胞は人工呼吸をしておれば数日から一週間は生きております。この期間を生きているか死んでいるかと見ることが現在最もホットな問題となっている点でございます。
第六番目は、もしもこのような人工呼吸をしながら脳は死んでしまった
状態、そういう
状態を生きていると見るならば、今後も人工呼吸は永久にとめないであらゆる
努力を続行すべきだと思います。今まで大阪大学でやられましたように五十日以上この
状態を持続し得た報告もございます。
第七番目は、もしも死んでいるとそれを
考えるならば、あらゆる操作は論理的には打ち切るべきでありましょう。この間の
臓器移植は現在の
臓器移植法と同様に取り扱われるべきであると
考えます。しかし、
状況によりあるいは心情的には割り切れぬ場合もあり、特に御
家族の方にとりましては耐えがたいことであろうと思います。そこで、日本医師会の生命倫理懇もこの点をしんしゃくして幅を持たせて脳死の時点を決めているようでございまして、人工呼吸器を外す場合をいろいろと幅を持たせているのが
現状でございます。
脳が完全に死んでいるのを死んだとすることには私は
一般的にも余り問題がないように思います。脳がもし完全に死んでいるということが確認されるならば、普通
一般の人もそれを死んだとすることに余り問題はないというふうに私は把握しております。しかし、最終的に最も問題になりますのは、脳が不可逆的に死んでいるというそういう判定は果たして正しいのか、
厚生省でお出しになったそういう判定基準を満たしたものはすべて脳が完全に死んだ、そういうふうに
考えてよいものかどうかに実は議論があるように思います。これは、
専門家の間にもまた評論家の中にも今の
厚生省基準では脳が死んだと判定するには不十分ではないかという疑問が出されておりまして、ここに
一つ問題が潜んでいると私は思います。
もう
一つは、これは刑法的あるいは民法上の問題でございますが、いわゆる死の定義が二つになる。
一つは心臓死である、もう
一つは脳死である。この二つになりますと民法上の問題としていろいろ困難が起こるのではないかというふうに言われておるのが、それが問題の二番目でございます。
そこで、まず第一にお聞きしたいことでございますが、日本医師会の生命倫理懇におきましても、
厚生省が示されました現在の竹内脳死判定基準でございますが、それは脳死判定の最低基準である、そういうふうにこれだけで十分脳が死んだと言われるのかどうか、その点をまず
最初にお聞きしたいと思います。