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中村哲君 あの四島に戦前というか
終戦まで居住していた、そしてあそこで耕作していた人というのは、北海道の本島から船で渡ってそして耕作していた人もいるわけでしょう。あそこに墓があるというような場合、あそこに居住していた人がそういたかどうかということがあるんですけれ
ども、この人たちの写真が
現地の北方館に出ておりましたけれ
ども、やはり原住民に近い方々のように見受けました。それで、これらの千島列島の先住者というのは一体ソ連か
日本かと言うけれ
ども、実際にはアイヌという言葉で言われているような先住の人々であります。これは、ここで前にも申しましたけれ
ども、
日本の人類学の、殊に世界的な権威でありました鳥居竜蔵さんが大正の初期に千島の
現地の調査をしておりまして、そしてあそこにはアイヌの何という人が住んでいるという名前まで上がっているんでありまして、したがってこれはそういう原住民の人たちの長らく住んでいた島であります。
もうそろそろやめますけれ
ども、一言申したいのは、
日本の普通の人は、アイヌの人というのは北方に移動したかのように思っていますけれ
ども、実際にアイヌの人というのは関東地方から、北陸から、それから東北地方から、こういうところは原住民はアイヌの人だったんじゃないかと言われるぐらい、そしてそういう研究がありますように、そのアイヌの人たちというのは、今日アイヌと言わないでウタリと言っていますが、ウタリというのは仲間という
意味で、アイヌというのは人ということです。大体部族の名前は、お前は何だと聞くと
自分はアイヌだ、おれは人だと言うときに、旅行者が名前と間違えて、それでアイヌという名前にするんで、人間という
意味なんです。関東地方から東北地方から、アイヌの人は先住民としては
かなり力を持っていたわけでありまして、あの清原とか藤原とか言っておる平泉文化もアイヌ文化じゃないかというので歴史的な調査を大がかりにしたことがあります。
それで、そういう人たちが別に北方に追いやられたんじゃなくて、アイヌの人たちというのは、どちらかといえば
日本人の中でもむしろスマートなんですね、西欧的なんです。だから、ソビエトなんかから見ると、
自分たちと同じ白人だ、こういうふうに見ているわけで、これは大体が大陸とつながっている人たちであります。したがって混血してしまうとむしろ
日本人が非常にスマートになっていくんで、この問題がアメリカなんかとは違うわけです。カラードの人たちと白人が混血するということを嫌う。それをやっていると現在のメキシコのような人種ができるんだとか、いろんなそういうことがあって人種の問題が注目されるんですけれ
ども、
日本の場合にはそういうことがない。
一例を挙げますと、吉田松陰は幕末に、津軽海峡までロシアの船が南下するというので見に行くわけです。そうすると、津軽半島のつけ根に、ここはアイヌの人の部落だと彼の日記の中に書いてある。ところがそこへ行ってみると、別に今はアイヌの人じゃない。それはなぜかというと、アイヌの人はみんな混血していくからです。つまり、東北の人たちの祖先だからでありまして、東北の人は何か劣っているかのように言った人も、これはユネスコか国連かの役員をしているような
日本の財界の人でありますけれ
ども、そういうんじゃなくて、アイヌの人というのは自然に
日本の文化の中に溶け込んでいったのであります。
私は
終戦直後、北大が最後の帝国
大学として法学部をつくりましたときの
最初の講義に参ったりしたものですが、
終戦直後の北海道におけるアイ
ヌ部落というのは隅から隅まで歩いてみました。今はかなり変わっていると思いますけれ
ども、何かいわゆる差別というような問題にならないで済むようなことがあるわけです。例えば柳田国男が「山の人生」を書いている。山野に住む人、これは実際には東北地方の山で生活する人、里に出てこないで山で生活する人、殊にマタギという猟師がおりますが、これがアイヌの人だったとばかりは言えないんですけれ
ども、こういう人たちはアイヌの前の先住民の名残であるというようなことが柳田さんの興味にあったわけであります。アイヌの人の問題なんかも、中曽根さんが、
日本人は単一民族だとか失言をされたようなことがありましたけれ
ども、もっと広い
意味でインターナショナルにこういう問題を
考える必要があると思います。
それで、一言だけ最後に申し上げておきます。
「成吉思汗ハ源義経也」というのを書いた小谷部全一郎という人がおりました、明治の、大正になりましたですかね。源義経というのはゲンギケイと読める。ゲンギケイはジンギスカン。要するにゲンギケイ、源義経だ、北海道から蒙古に渡った。蒙古と北海道が本質的なつながりを持ち、例えば江差追分なんていう、江差のあのメロディーというのは蒙古の民歌でありまして、蒙古の草原で録音したあのメロディーは全く江差追分であります。
このごろ国際
交流なんていうことを急に言い出しておりますけれ
ども、広い立場から東北地方、それから北海道地方の文化等の研究というものは
日本では早くから行われておりまして、それをいたしましたのは、先ほど申しました小谷部全一郎さんもその一人でありまして、その彼がアシスタントをしたのがバチェラーさんです。そのバチェラーさんがアイヌの研究を
日本では最も早くされた。そのバチェラーさんの
影響を受けておるのが金田一京助さんなんかであります。その小谷部さんというのは、当時は荒唐無稽なことを言うというけれ
ども、このごろのジャーナリズムでは歴史だか物語だかわからないような話をたくさんつくって、そして非常に売れて有名になってテレビのドラマになったりするんですが、小谷部全一郎というのはそういうロマンを持った人でありました。この人は実際にはアイヌの教化のために献身した人でありまして、たまたま私は北海道の
大学関係の
審査に参りましたときに――伊達紋別というところがあります。これは伊達というのは伊達藩の士族たちが維新後あそこに移動して、そして
開発したので伊達という名前がついている。あの伊達紋別には廃屋になった教会がありまして、その教会はバチェラーさん、それから小谷部全一郎さんの教会なんです。それは行ってみますと、まだ名刺だとか写真とか張ってありまして、そこの世話をしているのがアイヌに
関係の深いおばあさんであります。ああいうものを保存しないで、そして国際
交流というとアメリカだとかその他をすぐやりますけれ
ども、歴史上のああいう国際
交流の恩人のような人の顕彰というか、ああいう伊達紋別の廃れた教会なんかを何かの形で保存されるといいと思うのです。
つまり、アイヌの問題に絡むものだからじゃないかと思うので、土人保護法なんというのにもそういう先覚者たちの意見が入っている。それをどう解釈するかというようなことがあるためにアイヌの歴史というものをどう掘り起こすかという難しい問題があると思うのです。しかし、バチェラーさんのような大きな功績のある人、こういう人のことを北海道庁が何かの形で保存すべきだと思う。ただ戦後は、憲法に宗教の自由、そういうことに干渉しないようなことを言っていることもあるのか、やり方が難しいのか知りませんけれ
ども、世界的な宗教であるキリスト教の記念すべき会館になりますけれ
ども、こういうところは保存されるといいと思うのです。これは北海道庁に申し上げているわけです。
以上をもって私の担当した時間を済ませていただきたいと思います。