○野沢太三君 ぜひそのようなお勉強を急いでいただきまして、赤字が雪だるまで膨らんでいく、第二の
国鉄が事業団で再現していくということでは困るわけでございますので、この点、時間との競争になろうかと思います。
なお、地価を顕在化させない
処分方法につきましては、改革法の議論の中でも随分出たわけでございますが、ことに至りますと、やはりどうしてもこの方法を具体的に実現をしないことには汐留その他大規模な都心用地を活用するということが難しいといたしますれば、大変これは重みのある仕事ではないかと思います。
運輸省だけでできないといたしますれば、建設省あるいは大蔵省そのほか
関係の向きに対しても御
協力を要請いたしまして、何としても早急に、単なる絵にかいたもちでは話にならないわけでございますので、一刻も早くこれが現実化するよう御
努力をいただきたいと思います。
土地対策の決め手は、もろもろの規制強化等もございますけれ
ども、基本的には需給の緩和であり供給の継続的かつ長期的な見通しを確保することが何よりも大事と言われるわけでございますので、どうかこの点につきまして、JR
関係、
国鉄の旧用地とJRの持っております今の用地というのは大変貴重な土地でもあり、かつまた場所が大変いいところにあるということもございますので、これらにつきまして一層の御
努力をお願いするものでございます。
話がごく具体的になるわけでございますが、先ほ
どもお話しのございました東京駅の周辺開発の問題につきまして、
関係の省庁お集まりで勉強をしていただいておるわけでございます。間もなくその答申もいただけるというふうに伺っておるわけでございますが、ひとつ東京駅の問題について、御
質問をさせていただきたいと思います。
ここに東京駅の写真がございますが、赤れんがの建物ということで大変皆さんから親しまれた駅でございます。東京に住んでいる方ならだれも知らない者はないということでございますが、これがいつできたかという故事来歴を調べてみますと、既に明治二十三年に、東京中央に大きな停車場を建設するような訓令が内務
大臣から
鉄道庁の長官に出た。明治二十三年というのは東海道線が全通した翌年でございます。そして明治三十九年に、有名な建築家である辰野金吾、葛西萬司両氏の手によって設計が始まりまして、大正三年に竣工を見たものでございます。
その後、大正十二年には
関東大震災がございましたがこれは生き残りまして、
昭和二十年五月の戦災によりましてドーム並びに三階部分が焼け落ちまして大変な被害を受けたわけでございますけれ
ども、
昭和二十二年に丸屋根を今の角屋根の形で復旧をした。以来今日まで健在で残っておるわけでございます。
構造的には鉄骨のれんがづくりということでありまして、延べ床面積としては二万四千平米、長さが三百三十四メートル、奥行きが二十ないし四十メートル、
日本の明治以来の近代建築の中でも有数な建物というふうに評価をされております。
古いだけが自慢というわけではなくて、乗降客等につきましても現在一日当たり六十七万八千人。利用客は百四十万人。列車は二千七百本も発着をしておりまして、東京駅を含む敷地というのは、二十三万二千平米という広大な敷地が一応確保されておるわけでございます。
これを今後とも保存をしてほしいという市民の皆様の声がほうはいとして今沸き起こってきておるわけでございますが、果たしてこれが残せるものか否かということについて、JR初め
関係の皆様方に今検討をしていただいております。
関東大震災には生き残ったわけでございますけれ
ども、その後の戦災その他によって相当な老朽劣化が見込まれているのではないかということで診断もしていただきました。その結果を伺いますと、構造的な耐力の評価といたしましては、現状のままでも中規模
程度の地震には十分耐えられる。これ以上の上積や、あるいは荷重の増を伴うような改良を行いますと補強が必要になるということではございますが、れんがその他の耐久力等の試験をいたしましても、十分今後とも保存可能という報告が出ておるわけでございます。
目に見えないところ、すなわち基礎の部分というのは一体どうなっているかということでございますが、当時は松のくいを使いまして、これが大体一万八百本ほど使われておると言われておりますが、これにつきましても不同沈下等の兆しはございませんで、過日も一部掘り出して調べた結果でも、健全な状態にあると、こういうことでございます。
そういった
状況にある東京駅でございますけれ
ども、何しろ東京の一番中心地、玄関であるわけでございまして、ここをこのまま使うことが果たしていいかどうか、こういう議論も過去ずっと起こっては消え、起こっては消えと、こういう
状況で来ておるわけでございます。私の記憶しておる限りでも、
昭和三十三年、東海道新幹線に着手するときに、新しい東京駅を現在の地で改築して建てたらどうかと、こういった
お話が十河総裁から出て、地上二十四階建てというような構想も出たことがございます。
昭和三十五年には、それを含めて新東京駅の改良計画の案というのも発表され、
昭和三十七年にはさらにそれを超高層ビルとして
考えた場合に実現ができるかどうか、こういう勉強もしていただいております。その結果は別なところで生きてきまして、霞ケ関ビルその他の設計の
考え方に反映されたと伺っておるわけでございます。また、
昭和五十二年になりますと、当時の高木総裁と美濃部知事とが
お話をしていただいて、丸の内本屋の高層ビル化の可能性についての御議論をしていただいております。このときには、
日本建築学会の皆様が、駅舎の保存、現状の保存についての御理解をという要望が参りまして、以来そのままにきておるわけでございます。
先ほどの
お話の東京駅周辺の再開発計画、これにつきまして、今
関係省庁が詰めていただいております構想の
内容、まだ詳細に伺ってはおりませんけれ
ども、いずれにいたしましても、JRの今後の
営業活動、さらには清算事業団自身の債務の償還、その他
考えますれば何らかの形でこの地区の持っております開発のポテンシャルを十二分に引き出す必要がある。これを活用いたしまして、
将来の東京の顔として再生する必要があることは論をまたないだろうと
考えるわけでございます。現に三菱地所も、丸の内の再開発計画ということで相当大きなプランをこの一月に発表しておるわけでございますけれ
ども、東京駅はそれにも増して重要な位置であるとかように
考えるわけでございます。
しかし、この東京駅は、建物としての価値だけではなく、同時に
鉄道のターミナル機能の拡充の可能性というものが残っていないことには本来の効用を発揮しないわけでございます。将来北陸新幹線ができる、あるいは東北新幹線が延伸された等、その場合には、今計画されておるようなホームの数、線路の数では足りないんじゃないか、かように
考えるわけでございますが、そういった点についての御検討はどのようになっておりますか、
お話しをいただければ幸いでございます。