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斎藤参考人 お答えいたします。
先生からお示しのありました五つの文書は、私どもが
日本外務省及び外交史料館及び国立図書館、それからアメリカの国立図書館、
関係の占領軍物資が保管されておる役所がアメリカに別にございまして、それらから入手した文書であります。
第一のものは、豪州で
捕虜になりました
日本の兵隊が、
日本に帰りましたときに証明書を持ってまいりました。その証明書は、三百オーストラリア・ポンドを労働賃金として
日本に持って帰った。そうすると、当時
日本政府は、下士官は千円、それ以下は没収といいますかお預かりといいますか、そういう国内法をしいておりましたから、ヤマモトにこれを渡さなかった。それでヤマモトは
連合軍司令部にこのことを
請願したわけであります。その
請願に対する回答として出したのは、
捕虜に対する労働賃金はそんなことで押さえてはならない、
日本政府は
支払う
義務があるということをマッカーサー司令部から
日本政府に出されたのが一と二の往復文書であります。これによって、
日本円にして六万三百円、当時
国家公務員のベースが五千二百円の時代でありますから、おおむね一年分に当たる
労賃を
日本政府は
支払ったわけであります。
とりわけこの文書の中で大事なのは、
支払うことを
認める、
支払うことを許すという
言葉を使っておられるわけでありまして、この点は、後から
日本政府がお気づきになってこの
支払いは
日本国の
義務と理解したからこそ、これは命令ではなく
日本政府が
支払います、それは
認める、こういうようなやりとりになっておるわけであります。
なお、この文書を翻訳された
方々は、当時
外務省におられまして、後の最高裁の裁判官にもなられました方と共同作業をやられました高野雄一東大
法学部教授、私は直接行ってこの方にお聞きじました。そうしたら、その当時そういうことで翻訳し、これは私が預かったものに間違いございません、そのサインは私のものですということを御本人から
認めていただいております。
それから、これを裏づけるものといたしまして、私どもは
外務省なり
大蔵省にもいろいろ折衝したわけでありますが、
大蔵省の書庫の中からは、若干のものは出ましたけれども基本的なものは出ない。そこでいろいろ要路の人、
外務省の御先輩の方から御指導を受けましたところ、確かにそれは
日本政府がプロパーでやったのではなくて、
日本銀行を仲介して
支払ったということをお聞きしましたので、英国
会議員のごあっせんで
日本銀行本店に行きました。そして、そこのこの方面の事務的な
責任者にお会いしまして当時の一件記録簿を見せていただいたところ、
先生お示しの
大蔵省の管理局長及び理財局長の、イギリスから
捕虜になって労働賃金をもらわないで帰ってきた者に対してはその金額を
日本政府が
支払います、当時で一ポンド二百円の交換率でお
支払いしますという文書の現物を私ども見たわけであります。それがこの三番目のものであります。
米英豪に対するところの労働賃金の
未払いは、今申しましたようなぐあいに
日本政府が全額
支払っておりますので、これで問題は解消したわけであります。もっとも南方に抑留された者は約百数十万でありますが、この労働賃金の対象になった者は、
大蔵省の当時の資料によりますと六万名弱であります。地域としては、マレーとかシンガポールとかグアムとか、ごく一部です。この地点のことをいろいろ調べてみますと、これは戦後一年半ぐらいの期間にわたって南方作業隊という団体を米英軍が組織させまして、
日本軍が港にあるいは鉄橋にいろいろな阻害行為をした、そのしゅんせつあるいは復旧工事のために残された、そういう人々がこの労働に服した、その
方々に対しては
日本政府が
補償するという建前のようであります。全体として南方は強制労働をさせられないで帰ってきたという実情になっているわけであります。
それに対しまして四番目のものは、ソ連からの引き揚げは、南方に約二年ほどおくれまして、
昭和二十三年、二十四年、二十五年が最盛期で帰ってきたわけであります。シベリアから帰ってきた者は無一文、無財産で帰ってきたということが当時の舞鶴の引揚援護局でわかりまして、そこから厚生省に対して
報告が出ております。多分それを受けてでありましょう。
日本政府は当時のマッカーサー司令部に対して、ソ連における
捕虜に対しても
日本政府は
補償する用意があるので、ついては、ソ連で何のだれがしがどの程度の労働に服したか、その証明書もしくは領収書、つまりここで言うところの書き物が必要であるから、それをマッカーサー司令部を通じてソ連
政府から受領されるようにという申し入れをしたのがこの文書であります。
これは
先ほど言いましたところの後の特命駐米大使になられた朝海浩一郎さんが翻訳されたものであって、
先生もそれは私がやったものだということを
認めておられるわけであります。これは幸いに
原文、英文で書かれたものと翻訳されたものを外交史料館から私ども入手しております。
それによりますと、
日本人がソビエトで働いてもらえなかったもの、あるいはソ連が不当に取り上げたもの、そういうものについては
日本政府がソ連にかわってこれを
支払うから、その明細が必要なんだ。そしてその残余の問題でありますが、つまり
日本政府が我々
捕虜に対して払ったその後始末のことであります。
先ほど渡部先生から
お話がありましたように、これは後からソ連と
日本の国際間で決着しよう、こういうことをここの文書の中で言っておられるわけであります。でありますから私は、
日本政府が当時この四九年
条約を米英軍の指導のもとに
実施せられた、このように理解しておるわけであります。
また、これにつきまして何か
政府部内に閣議決定であるとか米軍に対するところの内閣の
責任文書があるかどうか探しました。その中では、
昭和二十四年でありますかワシントンの極東
委員会における
会議でも、
日本におけるところの
未払い労働賃金の
支払いは
国際法にかなったものであるという諸国の合意が行われておるわけであります。
なお、これを受けまして
大蔵省では、そういう戦後の一切のいきさつ、もちろん
捕虜に対する労働賃金の
支払いというものは微々たる問題でありまするけれども、占領軍費の転換の問題であるとか占領軍の費用に関するいろいろの
国家支出のあり方とか国会の議決のあり方とか、そういうことを一切まとめられて、「
昭和財政史」という十巻にわたる大冊を
昭和五十九年五月に公刊されたわけであります。これには別巻三巻もございまして、それらの資料の中で、
捕虜に払った労働賃金の
性格につきまして、これは一九二九年七月
ジュネーブで
締結された
条約に従って
未払い労働賃金というものは
日本国が
支払う
義務がある、
日本国に
責任転嫁されたのだということの明確な表現が残っておるわけであります。
なお、この監修者であった安藤
先生は現在お亡くなりになられましたが、直接執筆された方は、現在東大の名誉教授で経済の専門家で残っております。なお、一緒に執筆された方は現在
大蔵省に残っておられるわけであります。二、三の方がこの執筆及び資料の提供に参加されたようであります。
それから、
大蔵省の内部の資料といたしまして、これに至る経過というものは私どもはまだ公表しておりませんけれども、幾つかありますが、どこを押しても、これは
日本政府が
国際法を
認めて
義務として承認して
支払ったものであって、別に
日本国会において諮って立法を講じたものではない。つまり、国内法でどうこうしたものではなくて、当時の
国際法を
日本政府なりに判断して
支払ったものと理解しておるわけであります。
そういうことにつきまして一言つけ加えさせていただきますと、ヘーグ
条約、これは
日本も加盟して拘束力があるという
先ほどの
お話でありましたが、そのとおりだと思います。このヘーグ
条約の六条、七条でありましたか、その中には、
捕虜の労働賃金は
支払うべし、こうあるわけであります。しかし、当時のヘーグ
条約は国際間の権利
義務をうたったものであって、
捕虜個人についてはその権利が及ばなかったと理解されておる
条約でありまして、その表現もいわば
国家に
責任を預けたということから、我々
捕虜については直接請求権を
認めたものでないというようなことも言われておるわけであります。
しかし、二九年
条約になりますとこれがいささか趣を変えてまいりまして、
捕虜は労働賃金を受ける権利あるべし、こう言い切っておるわけであります。こうなってきますと、少なからず
捕虜個人にその権利請求権に近いものをお
認めになっておる。
また、
昭和十六年の第二次
大戦、米英開戦に当たって国際赤十字から、
日本はこの二九年
条約をお
認めになりますかどうしますかという問い合わせがあった際に、
日本政府は、これを
認めます、準用するということも
認めますということをお答えしておるわけであります。これはいずれも
外務省の文書によって私拝見したわけであります。追っかけ国際赤十字の方から、準用というものの
内容はどういうものであるかという
質問がございました。それに対してまた
日本の
外務省は、陸軍省と打ち合わせの上、これは
条約全体に拘束されるという
意味ではなくて、捕まえた
捕虜の衣食住、つまり給養面についてはそれを適用する、このようにして、
捕虜の食いぶち、衣料その他生活
関係についてはそのとおりなのだ、こういうお答えを公文で発しておるわけであります。
なお、
昭和十七年九月十二日には、当時外務大臣でありました東条英機さんが、スイスの特命全権公使、その当時の
日本の
条約上の保護国ですか代理国でありますか、そういうことであったと思いますが、その方に文書を出しまして、「帝国
政府ハ各交戦国ニ依り
支給セラレタル
捕虜ニ対スル給養額ハ
戦争終了後
捕虜ノ兵役ニ服シタル国ニ依リ返済セラルルモノト了解ス」、非常に明快なことをおっしゃっておる。これを国際的にも
外務省から発信せられておるわけであります。一口に言えば、
日本の兵隊がアメリカ、イギリスあるいはソビエト、どこに抑留され
捕虜として呻吟しようとも、そこでかかった衣食住の費用は
戦争が終わってから
日本国がそれを持つのだ、こう了解する。これは、当然二九年
条約にそういうことの
規定があるわけでありますから、それを踏まえて当時の
外務省なり東条さんが言われたものと思います。
なお、ついでのことに、この際東条さんは、それまで、明治二十七、八年あるいは三十七、八年にかけてつくられた
日本の
捕虜法規十二及び政令、通達九十七、これを全面的に改変したわけであります。あるものは国会にかけ、あるものは省令として
提出され、
昭和十九年の末ごろになってようやく完了した。しかしながら、時既に遅く、末端にその二九年
条約の改正通達が行き渡る前に、悲しいかな
日本国は無
条約のままに
戦争を行いましたから、我が民族としては第二次
大戦のあのような恥辱を受けたわけでありますし、我々ソ連に参りましても、ソ連になすべき正当な主張の根拠を持っておらなかったわけであります。そういうことで十四時間も十五時間も牛馬のごとく使われた。
この点、
日本政府はこの辺でこういうことを改めていただいて、
国家の
義務をきちんとしていただかないことには、この問題を慰労金十万円で済まされては私どもとしてはまことに残念至極に思うわけなのです。金額を言うわけではありません。労働賃金は、
戦争を始めた国相互にあるのであります。
なお、
日露戦争の場合のポーツマス
条約の第十三条後段におきましても、当時のロシアの
捕虜が松山などに七万数千名おりまして、
日本の
捕虜は二千七百何十名がソ連のモスクワ近郊のメドブェージ村、ここにおりまして、戦後この決着は小村さんとロシアの全権との間に行われたわけでありますが、この際の交換
条約の中でも、相互の兵隊の食いぶちは両国が持ちましょうということが明文で示されておる。既に明治の昔から、
捕虜の食いぶち、
捕虜の労働賃金というものはその母国に所属するということは明らかなことでありますので、こういう点を単に今
政府提出の
法案のように、シベリア抑留者に対しては別なのだから、特別の事情があるから十万円お上げするということではなしに、特別の事情があるということまでは一歩前進だと思いますが、その特別の事情は何かといえば、
戦争犠牲者として
捕虜の問題は
条約を抜きにしてはいけない問題ではないか、このように考えておるわけであります。
以上が資料の説明であります。