○高桑栄松君 限度というところが、SOxに限ればもう上がることはないと思いますよ。しかし
NOxは依然としてあるわけですから、だから
NOxがあるところでは
基準値を超えているわけですよね。例えば
幹線道路の沿線などではほとんど
基準値の上限をオーバーしています。ですから、そういう意味では今でも
指定しなければならない条件ではないのかと私は思うんです。でも、そこの議論はまた次にして、複合
汚染というのを私
質問に挙げてありますのでそれを伺うことにいたします。
もう
一つ気になりましたのは、今、
集団が問題で
個人補償はということを——私も疫学をやってきた
人間なので物事の
考え方で疫学的
集団把握的な
考えは私自身もあるわけです。当然あるわけです。しかし、これはエイズのときも申し上げたんですけれ
ども、エイズの感染率が非常に低いとか感染の
可能性が非常に低くても、ゼロでない限りかかるとこの人が死ぬんですよと、ですから、被害を受けるという
個人と
集団とは違うんだという話を僕はしてあるんですよ。これは思い出して申し上げているんです。被害を
考えるときには、今の
感受性の高い
人たちというふうな、少数でも間違いなく因果関係があるという人は救わねばならぬ、統計的に非常に少ないから無視してしまえと、こうはいかないということなんです。エイズに今ははっきりしています。エイズは見殺しということになる。死んでしまうわけなんだ、かかったら。だから、百万分の一の
可能性でうつるかもしれないということはだめなわけです。うつったら百万遍に一遍でもその人はいかれるわけです。
ですから、先ほどから
お話を承っていると、
集団が対象であってもう
個人補償は見限りだというのは本当は違うんじゃないかと思うんです。
法律上お困りなのかもしらぬ。それは医学の立場で私が今文句をつけているんではなくて、やっぱり
基本的精神は弱者——弱者という意味は、力が弱いんじゃなくて、アレルギーがあってどうしてもこれに弱い人、そういう人がいたら何とか救ってやるという、この精神は要るんです。
そうすると、これをどう鑑別していくかというのが問題なわけだ。
最初に申し上げたけれ
ども、もともとこの
法律をつくるときに、非特異的症状で因果関係が特定されないことを承知の上で入れちゃったわけだ。そこがやっぱり問題なんで、
法律はそのしりぬぐいもしてもらわなければ困るんじゃないか。
自分で
最初のときに因果関係がわからないのを承知の上で入れておいて、今度は因果関係、
合理性がはっきりしないから切り捨てることにすると。私はそれが非常にだめなんで、反対なんです。
そこで、先ほど来私は
地域別
指定の
お話を
一ついたしましたけれ
ども、もう
一つは、今度は
患者の立場で
考えますと、しばしば申し上げましたが、これは
病気でありこれは健康であるというはっきりした境界というのは
病気と健康の間にはないわけです。がんでさえも前がん
状態みたいなことを、ごまかしだか本当だか知りませんが言っているわけだ。そういう前疾病
状態だってあるわけだから、
法律が決めたので、きょうまでは
患者が六千人もいたがあすからゼロですというのは医学的論理には合わないと思う。そういう疾病と健康との間というのは断絶したものじゃなくて連続したものだ、そういうスペクトラムなんだから、一挙にここから断崖でゼロに行くんじゃなくて、もし
指定解除を
考えるのであれば、少なくとも
患者の取り扱いについては中間
措置が要るのではないかというふうなことを私申し上げたわけです。
それで、これも私も
自分で詰めたわけじゃないんで、思いつきみたいなものだと思って聞いてもらいたいんですが。
環境庁は
環境基準が
改善されたということで解除をしようと思っているんだと私は思っているんです。そうすると、
改善がどの時点でされたかというそこが
一つのクリニカルポ
インド、境界線になると思うんですよね。それを
環境基準の二分の一にとるのか三分の一にとるのかそのとり方は知りませんけれ
ども、そういう大丈夫だというポイントに下がってから何年かたった。そうすると、ここまででもう居住歴三年以上いた人は
患者として救済されているんだが、今度いよいよ解除しようというときに、こっち側に住んでいた人がもっと濃度の高いときに住んでいて、そして症状が出そうで出ないような
状態で来ていたんだが、とうとう出たというのがあったとしますと——こういうのがあるのかなと今
考えているんですけれ
ども、しかしこれはあるかもしれないと思うんですよ、アレルギー性のものですから。私みたいに
東京に住んだら鼻のアレルギーが九月になって始まったというのが新しい発見でございますから。だからそういうこともあるわけで、やっぱりアレルギー症状というのは何年かたってひょっとしたら起きるかもしらぬと私
考えるんです。アレルギー学者は反対するかなと思っているけれ
ども、わからない。アレルギーというのはわからないときにアレルギーと使うようですから。
そういうことで来ていると。私は、例えば七年なら七年この方
環境基準は半分以下になった、それなら、その先に住んでいた人が同じような症状を持ってきたときには
患者として扱ってはどうだ。そしてそれから後は、こっちは延ばさないんだからだんだんだんだん年限が延びていきますよね、ここから先は。そうすると
患者というのはやっぱり、七年も出なかったのに出たという人は少ないとするとだんだんもっと減ってくるということにはなるだろうなと。こんなことも
一つの
患者対策として
考えてはみたんです。しかしこれには、SOxだけ今言っているんで、
NOxが入ってくると条件は別かなと思いますけれ
ども。
例えばそういう中間的なステップ、段階的な
患者に対する救済態度というものはこれは
行政的にも
考えてしかるべきものじゃないかな。
行政はやっぱり、一遍に切る、全面的に断崖から突き落とすような切り方というのは薄情だと思うんですよ。ですからそういう意味で、医学的というよりも
行政的な温情という意味で何か中間ステップを
考えないんですか、こう私は申し上げたいんです。いかがでしょうか。