○高桑栄松君 今の点ですね、いろいろなお
考えがあろうかと思いますが、
一つ申し上げると、大学は今研究というのはやっぱり大学院にゆだねていくという形ですので、大学院でないその下の卒前教育側は、専門教育というか職業教育というか、そういうものが
一つのポイントになりますね、技術、知識を教える。
もう
一つは、その中で将来地域社会に役立つ人間としての人間形成というのがあると思うんです。したがいまして、アメリカなんかはこの人間形成に一応相当なウエートをかけてはいるようですね。そういうことでありますが、人間形成に必要な環境というのを
考えますと、これはいろいろな個性を持った学生集団の中でいろいろな人とつき合うということは相当大切なことだと思うんです。そのときに、もし入学試験というものの物差しが学力テスト一辺倒でやりますと、学力テストによって選ばれた均質集団になるわけですね。つまり多様でないわけだ、均質集団になるんです。そうすると、均質集団の中で育った学生はそういうベースの中で社会はそういうものだと思い込むだろうと思うんです。それがやっぱり
日本の社会をゆがめ、あるいはこれからの
国際化の中では
日本人は大学を出ても
国際化の中では孤立するのではないかと、私はそんなふうに思うんです。
そこで、これは提案なんですけれども、学力テストというのはさっき申し上げた偏差値輪切りの包丁でございますから、これで切ってしまうと均質になるので、それ以外のやっぱりテストが必要なのではないかということでございます。
そこで、共通一次ハードル論というのを実は前に申し上げたんですけれども、もう一度お話ししたいと思うんですが、前に松永文部
大臣のときに私申し上げまして、松永さんはもう大賛成してくれたんです。NHKのテレビ討論会でも、私の名前は出されなかったですけれども、私の提案というのをばっちり紹介してくださいまして、私も大変感激をしたんですが、これは共通一次というものを私は――アメリカのSATというのがあります。スコラスティック・アプティチュード・テストというんですけれども、SATと同じように学力をテストするハードルにする。
その学力テストのハードルという意味は、一定のレベルを超えさえすれば一応資格をもう持たせるということであります。一点の点数は加算しない。つまり輪切りは一遍だ、それ以上はいいと。これは、高等学校の教育の到達度を見る上でどれくらい以上であればいい、一点争って多い方がいいというんじゃないということであります。もう
一つは、大学に入ってから教育を受けていく基礎学力が足りないといけませんから、そういう意味でのハードルなんです。ですからそのハードルを越えると
一つ、学力テストはこれで
一つですね。あとは二次試験でいろいろなハードルをつけていったらいいということです。第二のハードルはこれ、第三のハードルはこれ、そして幾つかのハードルでそれをパスしたのが入学する。それでも多過ぎたらどうするかは別な問題でありますけれども、そういうことで共通一次というものを私は認めているんです。いいと思うんです。きのうも実は放送大学の香月
先生が見えて共通一次を二度くらい賛成演説を一生懸命打っておられました。私も賛成なんです。
そういうことなんですが、そこで大学の二次試験のときに、それぞれの今の最初のハードルも我が大学の理科系は何点、文科系は何点というハードルを決めたらいい。それを通った人間は今度別なハードル、それを多項目にして与えた方がいいと思うんです。
一例を申し上げますと、自治医科大学というのがありますね。ことしの国家試験、最高なんです。九九%国家試験に合格しました。これの入試のやり方、これは地域別の枠があるんです。そして推薦なんです。これだけなんです。これで入ったのが九九%というのは、教え方もうまいということはありますわな。だからこれは別にしまして、ともかく入試のときは地域別の枠、そして推薦なんです。それで九九%通っています。東大でも九二%だったかな、九九%いっていませんよ。最高なんですね。ですから入試というもののやり方をもう完全に変えなきゃだめなんですね。だから、学力テストで一点を争ってそれを加算するから輪切りができる、そして受験
産業の入る余地が絶対あるわけです。ですからそれがなくなってしまえば、もう受験技術を覚えなくて普通の高等学校をきっちりやっていれば何%かとれるということであります。
それで、今のような例えば
地方大学、
地方というのは例えば北海道は北海道大学、九州は九州大学あります。それが
東京へ
集中するんじゃなくて、
地方文化の
中心であるためには、場合によったら地域に枠を置く、たくさんとってやるよと、そういうところがありますからね。ちゃんと公立大学でその県の税金を使っているんだから、入学試験は平等でなくてやっぱり枠を与えていますね。ローカルから試験を受ける、つまりタックスペイヤーの子供は何%とりますよと、こういうやり方があると思うんです。そうすることによって地域文化を育てていく。
日本はやっぱり中央集権過ぎる。何でも中央集権ですものね。これは文化もそうです。それではいけないんでないでしょうかね。ですから、そういう意味で一次ハードル論というのがありまして、そのほかに幾つかの地域制とか推薦制とか、それからボランティア活動だとか、それから何かアルバイトしたときの経験だとか、クラブ活動だとか、そういうものを幾つかのハードルをつげたらいいんじゃないかというのが私の
考えでございます。
それでは、その次ひとつ進ましていただきます。
次は、臨教審の大学教員の任期制ということについて伺いたいんです。これは大学紛争のあのときに旧帝大は全部大学院大学にするというのが
一つ。もう
一つは教員の任期制をというのが大きなテーマでしたね。両方ともつぶれました。その責任の
一つは大学臨時措置法にあったと僕は思います。あのときそういう時限立法をしなければ、あの学生のヤングパワーの、スチューデントパワーの前で大学は間違いなく変貌したと思います。あれをしなかったおかげで、旧態依然として大学の教授はオーソリティーだと思い込んでいるわけです。私も当時教授でございましたけれども、やっぱり改革のためにはあのスチューデントパワーが必要だったと私は今でもそう思います。
そこで、任期制が今臨教審から出ています。
一つは、あの大学紛争でさえもできなかったものを本当にやれるんだろうかというのが
一つです。そして、今回は講師、助手に限定をしてきております。評価はだれがどこでするのか、そして教授の評価はないのかということですが、いかがでしょうか。