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1987-02-17 第108回国会 衆議院 本会議 第6号
公式Web版
会議録情報
0
昭和
六十二年二月十七日(火曜日)
—————————————
昭和
六十二年二月十七日 午後一時 本
会議
—————————————
○本日の
会議
に付した案件
安井吉典
君の故
議員川田正則
君に対する
追悼演
説
議員請暇
の件
北海道開発審議会委員
の
選挙
午後一時二分
開議
原健三郎
1
○
議長
(
原健三郎
君) これより
会議
を開きます。
————◇—————
原健三郎
2
○
議長
(
原健三郎
君) 御報告いたすことがあります。
宣仁親王殿下
には、去る三日薨去されました。まことに
哀悼痛惜
の
至り
にたえません。 本院の
弔詞
は、
議長
において去る五日奉呈いたしました。これを朗読いたします。 〔
総員起立
〕 大
勲位宣仁親王殿下
には にわかに薨去あらせられました まことに
痛惜哀悼
の
至り
にたえません
衆議院
はここに謹んで
弔意
を表し奉ります
————◇—————
原健三郎
3
○
議長
(
原健三郎
君) 御報告いたすことがあります。
議員川田正則
君は、昨年十二月三十日逝去されました。まことに
哀悼痛惜
の
至り
にたえません。 同君に対する
弔詞
は、
議長
において去る一月十六日贈呈いたしました。これを朗読いたします。 〔
総員起立
〕
衆議院
は
議員
正五位勲三等
川田正則
君の長逝 を
哀悼
し つつしんで
弔詞
をささげます
—————————————
故
議員川田正則
君に対する
追悼演説
原健三郎
4
○
議長
(
原健三郎
君) この際、
弔意
を表するため、
安井吉典
君から発言を求められております。これを許します。
安井吉典
君。 〔
安井吉典
君登壇〕
安井吉典
5
○
安井吉典
君 ただいま
議長
から御報告のありましたとおり、本
院議員川田正則
君は、去る十二月三十日、
入院先
の虎の
門病院
において逝去されました。 私は、ここに、諸君の御同意を得て、
議員一同
を代表し、謹んで
哀悼
の
言葉
を申し述べたいと存じます。(
拍手
) お聞きすれば、
川田
君は、昨年行われた総
選挙
後の七月半ばごろから既に腰痛を訴えておられたとのことでありますが、
政治家
として連日
政務
に忙殺されていた君は、八月に入ってようやく医師の診察を受けられ、
入院
のやむなきに至ったのであります。ところが、人一倍
責任感
の旺盛であった君は、治療を受けながらも、
病院
から
委員会
、本
会議
に出席され、また、十月に行われた
地元市長選挙
でも痛々しい姿で同志の応援に駆けつけていたとのことであります。 君は、病魔と闘いつつ、
政治
に生命のともしびをことごとく燃え尽くされたのであります。無理に無理を重ね、
自分
の身体をすり減らしているのが
政治家
の常だとは申せ、一身を顧みず
政治
の道に殉じられた君を思うとき、同じ道を歩む者として哀惜の情ひとしお深いものを覚えるのであります。(
拍手
)
川田
君は、大正十二年三月、
旭川
市で
養鯉業
と
木材業
を手広く営む
文政吉
さん、
母郁
さんの四人
兄姉
の次男としてお生まれになりました。君は、
北海道
の雄大な自然の中で、厳しさのうちにも慈愛に満ちた御両親の薫陶を受け
幼年時代
を過ごされたのであります。長じて
旧制旭川中学校
に学はれた君は、同校を卒業するや
中央大学法学部
に進まれました。 君は、
学生時代
、
学業
に励まれるとともに、
ラグビー
の選手としても勇名をとどろかせ、
全国学生東西対抗ラグビー
で
東軍
の
精鋭フィフティーン
の一員として抜てきされるなど、大いに青春の
情熱
を燃やされました。君は、日ごろから「
ラグビー
というスポーツはチームワークを大切にするが、
政治
の
世界
も同じである。
自分
一人がスターになろうとしてはいけない。みんなでよく働き、
連帯感
を持つことが大切である」と述べておられました。私も
オールドラガー
の一人として全く同感でありますが、思うに後年、君が
政治家川田正則
として大成された
基盤
は、まさにこの時期に培われたと想像されるのであります。
昭和
十八年十二月、折しも第二次大戦の戦火は拡大の一途をたどり、君もまた
学業
半ばにして学徒出陣し、酷寒の
地北
千島に派遣され、幾多の辛酸をなめ、稚内で終戦を迎えられました。その後
大学
に復学された君は、大いに研さんを積まれ、
昭和
二十一年十月、
中央大学
を卒業するや再び
郷里
に戻られたのでありますが、戦争直後の
旭川
市は、申すまでもなく
市民生活
は混乱と窮乏に陥っていました。これらの状況を目の当たりにした君は、翌二十二年二月、
旭川市役所
に入られ、荒廃した
都市
の
基盤整備
と
市民
の
福祉向上
にひたすら奮闘されたのであります。 君は、
在職
二十年余、保守、革新三代の
市長
を助けて
秘書課長
、
企画室長等
を歴任し、その間君は、例えば、外地からの
引揚者収容
のため、旧
軍兵舎
の提供を
駐留軍
と折衝し、その
実現
を図り、また、効率的な
地方自治
の確立と
発展
のため、
隣接町村
との合併問題に取り組み、今日の
旭川
市の
都市基盤
をつくられました。さらに、大
旭川建設計画
を
立案
、
企画
、その
実現
のため精力的に中央への
陳情
を繰り返し、
旭川
市を現在人口三十六万の
北海道
第二の
都市
に
発展
させることに貢献された
功績
は各方面から高い評価を受けており、君が
地方自治
の伸展に果たされた業績は大いなるものがあります。(
拍手
)
昭和
四十三年二月、君は、かねてから私淑していた
松浦周太郎議員
にその手腕と力量を見込まれ、同
議員
のたっての懇請により、
企画室長
を
最後
に
旭川
市を退かれ、
議員秘書
となられたのであります。
秘書
となられてからの君は、
松浦議員
の右腕として寝食を忘れて奔走され、持ち前の粘り強さで愛と誠の
松浦政治
を八年余にわたり実践されたのであります。君が
議員
にかわっての
地元
からの
陳情
のさばき方には定評がありました。
昭和
五十年十月、
松浦議員
が引退を表明されるや、君は、その
後継者
に推挙され、
昭和
五十一年十二月、第三十四回
衆議院議員
総
選挙
において
北海道
第二区から
自由民主党公認候補
として勇躍立候補し、
選挙民
の熱烈な信望を集めて
見事最高点
をもって初陣を飾られたのであります。(
拍手
) 本院に議席を得られましてからの君は、外務、
社会労働
、
農林水産
、沖縄及び北方領土問題など、各
委員会
の
委員
または理事として
国政
の
審議
に当たられ、その豊富な経験と知識を駆使し、縦横の
活躍
をされました。とりわけ、君は
外交政策
に力を発揮され、
国際人権規約
の承認問題や
日ソ漁業交渉
、特に、サケ・
マス漁業
並びに二百海里問題、
沿岸漁業
の
振興等
に尽力されるとともに、北方領土返還問題につきましても
与野党同憂
の
議員
に
早期解決
の
重要性
を説いて回られ、君のその真摯な態度にはだれもが胸を打たれ、賛辞を惜しまなかったのであります。また、農政問題、
中小企業振興対策等
、
国政全般
にわたって幅広い御
活躍
をされていたのであります。 一方、党にあっても、君は、
社会
副
部会長
、
農林
副
部会長
、
水産部会長代理
、
北海道開発
副
委員長
及び北洋漁業問題特別副
委員長等
の要職につかれ、党の
重要施策
の
立案
、推進に大きな役割を果たしてこられたのであります。 また、
郷土
をこよなく愛された君は、住みよい
道北
の
発展
を目指して努力され、
昭和
五十七年七月には、
道北住民
の悲願であった
旭川
新
空港
の
建設
及び
ジェット機乗り入れ
の
実現
等々、君は、
郷土
に対し数多くの貢献をされました。思うに
川田
君は、温和な風貌の中にもみずから信ずるところに向かってひたすら邁進するという燃えるような
情熱
とたくましい
実行力
を秘めておられました。君は、色紙に好んで「山高くして夢があり、山高くして唄がある」と書かれ、また、「
肥人心小
」を
座右銘
としておられ、
自分
には厳しく他人には優しく、謙虚にして誠実、
清廉潔白
にして利を求めず、地位に悟淡として常に裏方に回る
不言実行
の人でありました。(
拍手
) また、君は、多忙な
政務
にあっても寸暇を惜しまず広い
選挙区内
を回り、農家に泊まって農業の厳しい現状を、あるいは漁民とともに
沿岸漁業
の実態をと、常に
地域住民
とひざを交えて語り合い、その労苦を身をもって体験し、それを
国政
に反映すべく心血を注がれていたのであります。これは、君が
恩師松浦周太郎先生
から受け継がれた「
政治
は愛」、「
政治
は
生活
」の忠実な実践であり、このような君の誠実な人柄は、君の接した
人々
の心をとらえて放しませんでした。君が多くの
人々
から大きな信頼と
期待
を寄せられていたのもけだし当然のことでありまして、国と
郷土
を思う
使命感
に徹した
庶民政治家川田
君の真骨頂はまさにそこにあったと申し上げましても過言ではないと思うのであります。(
拍手
) かくして君は、本
院議員
に当選すること三回、
在職
六年十カ月に及び、その間、
国政
に残された
功績
はまことに偉大なものがあります。 昨年七月の総
選挙
は、君にとってまさに命がけの
戦い
でありました。前回五十八年十二月の
選挙
でわずか百六十九票の差で涙をのんだ君が臥薪嘗胆の来迎えた
選挙
であったからであります。激しい
戦い
の結果、君はまたまた
最高点
で当選し、歓喜と栄光に輝きました。「当選三回、これからいよいよ
政治家
としての
本領発揮
のとき至る」と、君の胸は膨らみ、君の
後援者
の
期待
ははち切れんばかりであったと思われます。そしてそのやさき、天は無情にして君を奪い去りました。君の胸中無念やる力なく、同じく
政治
に志す者として、君の心情まことに察するに余りあるのであります。 君の密葬のとき、
霊前
に楕円の
ラグビー
ボールが供えられており、このボールは君のお棺の中に納められました。
大学時代
、
ラグビー
に打ち込まれていた君は、
郷里
に帰ってからも
旭川ラグビー協会長
として
地元
の
ラグビー
の
振興
に尽くされておりました。四、五歳から中学生までの
子供たち
の
ラグビー
・ヘビー・
スクール
の校長でも君はあられました。一昨十五日、雪のグラウンドで
川田先生追悼試合
が行われ、その後、
社会人
もベビー。
スクール
も選手一同そろって御
霊前
に君の好物であった大福もちを供え、深くぬかずきました。
美津枝夫人
のお話によりますと、君は臨終がだんだん近づき、うわ言で何かを必死に繰り返し言っておられたとのことであります。
夫人
が耳を澄ますと、その
言葉
は「本日はまことにありがとうございました。今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます」と聞き取れました。その同じ
言葉
をのどを振り絞り何度も何度も繰り返し、その後静かに息を引き取られたというのであります。
川田
君、これが君の
政治家
としての
郷土
と人生への
最後
の決別のあいさつであったのでしょうか。 十二月三十日、君の御
遺体
は
病院
から九段
議員宿舎
に移され、その夜は
大学
の
ラグビー仲間
などに見守られ、翌日の
大みそか
、
旭川
から駆けつけた
川田後援会
の方々に守られ、
東亜国内航空機
で雪深い
旭川空港
に到着いたしました。君が
旭川市役所時代
、
政府予算編成
に対する
陳情
で上京し、帰宅するのはいつも
大みそか
、
議員秘書時代
もまた
議員
となってからも、当然のこととして
予算編成
を見届けて帰宅するのはいつも
大みそか
、そして、今度君が冷たい御
遺体
となって自宅に帰り着かれたのも
大みそか
の夜のいつもの時刻でありました。
美津枝夫人
は静かにそう述懐されました。 君と私とは同じ道産子として、
郷土
のためには党派を超え、終始労をともにしてまいりました。とりわけ、私は
旧制旭川中学校
においても君の先輩であり、今この壇上において、私が後輩の君に
哀悼
の
言葉
を述べなければならないとは、天はいかなる配剤をされたのか、六十三年の生涯を閉じて逆かれた君の心中を思うとき、痛恨のきわみであります。 今や、我が国は内外にわたり大きな転換期を迎え、多難かつ多様な
世界情勢
の中にあって、すぐれた識見と
実行力
を持った
前途有為
の
政治家
を失いましたことは、
ひとり自由民主党
のみならず、本院にとりましても、国家にとりましても、まことに大きな損失と申さなければなりません。(
拍手
)
川田
君、君の
ふるさと旭川
市からはるかに望まれる
北海道
の
屋根大雪山
の山並みは、清冽な
白雪
に覆われ、高く、険しく、そして美しく、天を画して連なっています。この懐かしい雄大な自然の胸に抱かれ、み
たまとこしえ
に安らかにお眠りください。 私は、ここに、謹んで
川田正則
君の生前の御
功績
をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りいたしまして、
追悼
の
言葉
といたします。(
拍手
)
————◇—————
議員請暇
の件
原健三郎
6
○
議長
(
原健三郎
君)
議員請暇
の件につきお諮りいたします。 有島重武君から、二月二十一日から三月一日まで九日間、
神崎武法
君、
木内良明
君、
矢追秀彦
君及び
矢野絢也君
から、二月二十一日から三月二日まで十日間、
魚住汎英
君から、二月二十五日から三月四日まで八日間、古いずれも
海外旅行
のため、
請暇
の申し出があります。これを許可するに御
異議
はございませんか。 〔「
異議
なし」と呼ぶ者あり〕
原健三郎
7
○
議長
(
原健三郎
君) 御
異議
なしと認めます。よって、いずれも許可するに決しました。
————◇—————
北海道開発審議会委員
の
選挙
原健三郎
8
○
議長
(
原健三郎
君)
北海道開発審議会委員
の
選挙
を行います。
谷垣禎一
9
○
谷垣禎一
君
北海道開発審議会委員
の
選挙
は、その手続を省略して、
議長
において指名されることを望みます。
原健三郎
10
○
議長
(
原健三郎
君)
谷垣禎一
君の
動議
に御
異議
はございませんか。 〔「
異議
なし」と呼ぶ者あり〕
原健三郎
11
○
議長
(
原健三郎
君) 御
異議
なしと認めます。よって、
動議
のとおり決しました。
議長
は、
北海道開発審議会委員
に 阿部 文男君
上草
義輝君
町村
信孝君 奥野 一雄君 及び 藤原 房雄君 を指名いたします。
————◇—————
原健三郎
12
○
議長
(
原健三郎
君) 本日は、これにて散会いたします。 午後一時二十三分散会
————◇—————