○
中村哲君 ついでに小さなことを申しますけれ
ども、相手の
外交官あるいは国の代表とお会いになるときに、にこにこしていたとか、それからよく話をしたとかいうことは、これは単なる社交的なものでありまして、
外交というのはそういう中で線を通すことで、しかもその線というのが強い線というよりは、個々の実際の手を打つことによってそれが既成事実となって困難な問題も打開する、こういうふうなことで
領土問題というような長年の問題も
解決する
方向でやられないと、何か事があるごとに
領土問題、こうなると、少なくとも
ソ連との
関係では硬直するんじゃないか。これは一言申すだけです。
それでは、本論に入るんですけれ
ども、
北方領土の問題については、私の属しています
政党として、
寺田前
参議院議員が
外務委員会で細かくこれまた戦後の
法的交渉の経過をずっと追及してこられた。これは
寺田さんの
考えもあるものですから、私は同じ
考えだというわけじゃ必ずしもありませんけれ
ども、そういうふうな法的に詰めていく問題は多々あるけれ
ども、そういうことより
も、まさに今ここで
日ソの新
時代を迎えてもいいぐらいの、
向こうは
ゴルバチョフ時代になりましたですからね、こっちは
中曽根さんのそのままなんだけれ
ども、何といってもやっぱり新しい
国際環境になっていると私は思うんです。
そこで問題は、法的な
条約の解釈の問題なんというんじゃなくて、実際の問題をお聞きしたいんですが、この
北方領土については、本日も「
調査」と書いてあるように、八月の二十九日からですが、前後しまして
現地の視察をいたしました。それで私が
感じたことなんですが、あの
千島が
日本の
領土なのかどうかなんという難しい問題になって、引き揚げてきた人の写真を見ましたら
クリル人なんですね、これは博物館に
クリル人と注釈がある。
千島を
クリル島といいますが、
クリル人というのは、厳密な
意味の人種的なことからいうと何かという問題はあるんですけれ
ども、これはもう九〇%が
アイヌの人なんです。私はかつて
終戦間もなく北大で
憲法の
集中講義をしましたものですから、その機会に
アイヌ問題をと思いまして、
アイヌ部落を十日ぐらいずっと回ったことがある。
アイヌの人の風貌、風習その他、割合知っているつもりなんですが、あの
クリル人を見ると
アイヌの人なんですね。
それで気がついたのは、
北方領土の問題というけれ
ども、
ソビエトと
日本が何か難しいこと言っているけれ
ども、そこで長く生活していた人は
アイヌの人だ。
アイヌの人が大体
日本にこういうふうになってから引き揚げてきている、
向こうの
ソ連の方、
ロシアの方に所属した人もあると思うんですけれ
ども。こういうことから、
北方領土の問題をただ従来の条文の上で
ソ連の言う
千島はどうかとか、四島か二島かとかいうことよりも、論ぜられている内容は、長年にわたってあそこを生活の場とし、あそこから離れて対岸にも移住されておりますが、そういう
アイヌの人の問題だということをお忘れないようにしていただきたい、このことを申し上げておきます。
それで、現に明治八年五月の
千島・
樺太交換条約のときに
樺太アイヌ八百四十一名を宗谷に移住さしたのですが、このとき
千島アイヌもやはり移動さしていると
承知しておりますが、それは別に——ここで細かな事を知っている人がいなきゃ私がむしろそう報告したいぐらいです。このとき北
千島の
アイヌ九十七名を色丹に移動させたんですね。そういうことで、そう数は多くはございませんが、
千島は先ほどから申しておりますように、
アイヌの人の土地で、そこに当時の
ロシアの
探険家、
日本の
間宮林蔵とかその他が
調査に入って、
倉成外相自身の属しておられる長崎は
関係の深い
シーボルトは、時の徳川の
天文方の
高橋景保からあそこの
調査の資料を受け取って、それを持っていたことが、たしかそれが理由で
スパイ的に見られて、
最初追放されたわけですね。
今、
国家秘密法が案としてつくられようとしていますけれ
ども、あの
日本に大きな功績を残した
シーボルトが、あの当時はやや暗黒の
時代だからそういうことがあったでしょうけれ
ども、こういう時期に
機密がどうだとか、
スパイだとかいうようなことは非常に
政治的なものでありまして、殊に、先ほどお聞きしたように、
領土問題が
ソ連との間でなかなか
解決しないで、そして経済的な
交渉を進めるよりも、こういう問題をちゃんとやるよ、そう言っておきながら、一方で
国家秘密法をつくる、それを非常に急いでいる。
結局、私などが
終戦後まあ
憲法論なんかしてきて、あの当時はそんなに問題のあるときじゃなかったですけれ
ども、
日本というのは望むらくは中立的な役割をしたい、こう言って、その当時には
アメリカだろうが
ソ連だろうが、
日本に対して
スパイするようなものがないんじゃないか、それで、
軍機保護法ですか、というのが
戦前はありましたけれ
ども、そういうものをつくる必要がないというので今、
日本はつくってないんで、ただ、
日本が
国家機密のことをおろそかにしているというのではないんですね。だけれ
ども、こうやって
平和条約の
締結さえも難しい、それから一方で、東西の緊張が緩和されようとするのに、SDIその他で角を突き合わせていて、細かにこれは
科学技術の問題になってくる。そうすると、そこに絡んで
国家秘密ということになりますと、これはちょっと簡単に最高裁といえ
ども裁判できないし、それから、そんな簡単な問題じゃなくて、
日本が何か泥沼にみずから入るんじゃないのか。
私は、
自分のことを言うのはどうかと思うけれ
ども、
戦争中、
戦争を終わらすことそれから軍に対する牽制、これはちょっと
自分のできるだけのことをしたことがございました、
近衛内閣のもとで。そのときに接触した人の中の一番犠牲を受けましたのは
尾崎秀実氏であります。
尾崎さんは実際にどういうことをしたかということは、私はそんなことは知らないんです。
憲法問題として、
統帥権というのは
政治がコントロールできないのかというんで、私はその問題の
調査を
後藤隆之助さんを
中心として委嘱を受けました。そしてある会合に出てくれと言ったのは
尾崎さんでもあったし、それからあと一、二の人が言うから出たんです。それは
司法大臣をした
風見章さんの会であります。
今なお生きておられる
松本重治さんが最近私に、君と会ったのは覚えているかと言われた。十和田の会で会って、そのとき来なかったのは
尾崎、それから
西園寺公一だったと
松本さんが言われる。
戦争というものをどうにかしてコントロールする、殊に
近衛さんの
考えが
最初は
戦争を承認しましたけれ
ども、途中から終わらせようという空気になりましたもんですから、その
意思を受けて私も
後藤隆之助さんと……。それで、
尾崎さんは実際にどのくらいのことをしたか知らないけれ
ども、それ以来拘留されまして、それから死刑になったわけです。
今日、これまたやっぱり
戦前のことに
関係しますけれ
ども、我々多少
総合雑誌なんかに書いておりましたので知っているけれ
ども、その
人たちが
細川嘉六さんを
中心として逮捕されたことがある。これは全く無実だというんで、最近はいろんな
調査が進んでいますが、
尾崎さんの場合だって、その
尾崎さんの過失とか
尾崎さんの中の、
尾崎という人はちょっと軽いところがあったりするところがありましたからね、それで何かああいうふうになっていった。なっていけば
尾崎さんはそれに対する
自分なりの心の処理はしたと思いますが、こういうことに
戦争中触れてきましたものですから、殊は
国家秘密保護法なんということになりますと、何だか次から次にそういうふうになるようだということを心配するんで、
秘密保護法についてはどうか慎重にお願いをしたいと思う、そういうことです。