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薮仲委員 私は、今回の場合は
現地をつぶさに知らないのは大変じくじたるものがあるわけでございますが、マスコミの報道は目を皿のようにして読んでみました。そこの中で幾つか感じたことがございます。見出しを含め、記事の中にこういうことが書いてあったことを含めて、これは大きな
教訓になると思いますので読み上げます。
まず、見出しの中では「防げなかったか
豪雨禍」、こういうのがございました。それから吉野町でございますが、
住民の方の声を新聞記事がとっております。「避難指示はなかった」、しかし実際は全域に避難指示はあったのです。なぜこういう認識になったかといいますと、「避難指示はなかった」「今回は大丈夫だと思った」、こう書いてあるのです。これは先ほど全域に避難勧告が出たのは午後四時十五分です。吉野町が発災を起こしたのは二十時二十三分です。避難勧告から四時間たってここでとうとい
人命が失われたのです。これはやはり消防庁さん、そして
国土庁さん、もう雨が小降りになってしまった、避難勧告も出した、ところが四時間後に
がけが崩れて亡くなったという冷厳な事実は心にとどめておいていただきたい、これは
指摘しておきます。
それから、「
危険地域に指定しても防災の
予算が追いつかない」、これは行政の立場にある方の発言です。それから、
住民の方の声として、いろいろ制約を受けるため
危険地域の指定を拒む、これはここにいらっしゃる御専門の
方々はわかることだと思います。しかし、これは非常に大事な点でもあります。
また、新聞には、私今お話ししましたけれ
ども、大雨・洪水警報は午後一時五十分、避難勧告はこの新聞では午後四時十五分と書いてございました。避難命令は適切であったか、これはやはり今の
指摘をよく心にとどめておいてください。
また、平之町の、これはお名前を伏せます。Kさんという方、御近所の方がKさんの家に行って、お宅の裏山が一番危ないですよ、こう言ったときに、そのKさんは、どこへ避難しようか、こういう発言があって、この方は巻き込まれて亡くなっています。私は静岡県です。地震があったらどこへ逃げるか、第一次避難場所、広域避難場所、自主防災組織ということで地震に覚悟を決めて向かっていこうとしています。私は、この中に、
シラス土壌の中に住まなければならない
方々が、やはり自主防災なり心構えというものが日常の中になければならないのじゃないか。行政の
対応と同時に、
住民の意識——ここに最後にこう出ているのです、「危機感薄れ
被害に拍車」。やはり先ほど御
質問の中にありましたように、
竜ケ水というのですかあの
被害から十年大きな
被害がなかった、その危機感が薄れて、やはり
災害は忘れたころにという
教訓を今思い起こして——私は今の新聞の見出しの中で幾つか申し上げました、防災
局長も消防庁のあるいは御関係の
方々も心によぎるものがあると思うのです。この見出しの中で幾つか我々が行政の場に
対応しなければならないことをここで
指摘しておきますので、時間がございませんし、数多くの
質問をしたいものですからこれだけにしておきますけれ
ども、ただいまの
指摘は心にとどめておいていただきたい、これは
要望をいたしておきます。
今、長官初め皆様のお手元に配ったのは、私が気象庁にお願いしまして気象庁の
鹿児島気象台が作成した資料でございます。これをちょっとごらんいただきながらお話をさせていただきたいのですが、これは正式に言いますと「
鹿児島の気象百年誌」という
鹿児島気象台が出版したものでございますが、大変御苦心の作だと思って敬意を表します。
この中で私は幾つか大事な点を申し上げたいのでございますが、お手元の資料で一枚目、
昭和十六年七月十一日の
梅雨前線のことが出ております。それから大正一年十月二日、
昭和三十一年七月三日から四日のことが出ています。これは何かといいますと、先ほど来
質問の中に出ましたように、今回の洪水は気象庁で、いわゆる
鹿児島気象台の四番目の降雨の記録だ、こうありました。この上の三つは
鹿児島気象台が過去にそれ以上の大雨を記録した三回が載っているわけです。年代が
昭和十六年から始まっておりますのは、十六年の雨が瞬間雨量、時間雨量では八十九・四ミリ、一番高かった。大正一年がその次に来ているのは七十七・六ミリ、時間雨量でございます。それから
昭和三十一年の七月四日、七十五・三、そして今回の七十五・〇というのが二枚目の資料なんです。
ここで、私は、気象庁並びに
国土庁に絶えず防災マップということを言っています。防災マップというのは、地図ではなくてコンピューターの中に資料をインプットしなさいということですから、頭をすっきりしておいてもらいたいのですが、ここの中で、雨がこういう時間の中で、一番目は総雨量は百六十九・五、二番目は百四十五・四、三番目が百三十三・五、四番目が今回で百九十二・五です。こういうような雨の降り方をしていて、確かに総雨量と時間雨量の相関関係がこう出ているわけですが、ここで、どこでどういう雨の形態のときに
災害が起きたかというと、これは皆さんも大方そうではないかなと思われるように、一番上はある瞬間に、一時間だけです、猛烈に雨が降った。三番目もそうです、七月四日にある一時間だけ物すごく降っています。あと前後はぱっとやんでいます。このときに
がけ崩れの発災は、一枚目の表を見ていただければわかるとおり余りございませんでした。ところが大正一年十月二日の長い時間にわたってじわじわ降った雨、これは一枚目の表を見てください、死者十九名、家屋の全壊、
半壊足して約一千戸に及んでいます。そして今回、長時間じわじわ降ったこの線形を見ますと、大きな
がけ崩れが起きているわけです。私は、雨の降り方にも過去以来のデータを解析する必要があると何回もこの
委員会で
指摘してきました。資料というものは大事だ、何かを我々に問いかけているはずだ、そこから我々は鋭い目を持ってこれからの
対策を考えろ、考えてほしいということを何回か言いました。この雨の降り方は、非常に粗っぽいとり方でございますから必ずしも正確ではないと思いますけれ
ども、本気になってこの過去の雨を調べていただきたい。
三枚目にありますのは、その「百年誌」の中の一番最近の七十四、七十五ページというところだけ引っ張らせていただいたのですが、そこで見てください。七十四ページの上から四番目、
昭和三十七年、亡くなった方が二十三名、それから
昭和四十一年、下の方になりますけれ
ども、亡くなった方が十五名、四十四年五十二名、それから
昭和四十六年四十七名、五十一年三十二名、五十二年のさっきの竜ヶ水の九名と出ております。
これは気象庁にちょっと簡単に総雨量だけお伺いしたいのですが、今
指摘した中で、表についていますから表をごらんになれば——総雨量はつけましたね、たしか。気象庁、念のためにそのときの総雨量だけ簡単に言っていただけますか。