○高桑栄松君 私は、
教育学の専門でございませんし、この質問を私が受けるまでは、つい余り考えないで、何となく自分はちゃんとやってきたような気でおったんですが、ここにぶつかりまして私もはたと考えてみました。それで、ここにも大
先生方がたくさんおられて、もう私なんかが言うべきあれではないように思いますが、私の考えを一応御参考に述べさしていただきます。
何のために勉強をするのかと子供に問われたときにということなんですが、今大臣がおっしゃった
教育基本法の憲法は大変立派な哲学ではありますけれ
ども、人格の完成を目指してと言っても子供はわかりませんね。そしてもう
一つは、実利がないんですよね。やっぱり大臣、大将にというのは実利があるわけですよ。ですからやっぱり本人にとって実利のないものというのは、
目的指向としては非常に漠然たるものではないかと私は思うんです。ですから、何のために勉強をするのかというのを言葉をもう
一つちょっと変えますと、何のためにあなたは存在しているのか、生きているのかということと同じだと思うんですね。何のために存在するんだ、お前は何のために生きているんだ、こう聞くのと同じなんですね。ですから、人間としての存在理由というのは何なんだろうかということではないのかなと、私はそこに疑問を一遍持っていきまして、したがって、そうすると自分が生きているという存在理由をどこに求めるのかと私は思いましてね。それで、それは、私たちは個として生きてはいられない、必ず
社会組織の中で私たちは生きている。そうすると、
社会の中で存在しているという価値が何にあるんだろうかということだろうと思うんです。つまり、
社会に存在をして生きている、
社会組織の中の一人として生きているという存在理由はその
社会生活の中で何かに役に立っているということではないかと、こう思います。
つまり、自分が生きていることが、自分が存在していることが
社会にとってプラスなんだ、みんなが喜んでくれている、ありがたがってくれている、これが
一つの生きている理由ではないのか。それは個人ではなくて
社会的存在としての人間の価値論というか、必要であるということではないのかなと、これが
一つあるんです。しかし、それは
社会的な存在としてでありまして、自己存在というのもございますから、私は、自己存在という
意味では、自分の趣味なりいろんなことを満足させたいということがあると思いますね。美しいものを見たいとか、芸術を鑑賞したいとか、コーラスを一緒にやりたいとか何か、いろいろあるわけで、まあそういうことがございまして、だから自己満足ということももう
一つの生きがいの中にある。
ですから私は、やっぱり何のために勉強をするのか、何のためにおまえは生きているのかということは、やっぱり生きがいのある人生を送るためでしょう。その生きがい人生論というのが私の年来の、まあ実は昔からそう思っていたんですが、子供に聞かれたら、
社会の役に立つ人になるためには何か自分に身につけなきゃいけないんだよ、
社会の厄介者じゃいけないんだよということではないのかなと思うんですね。それで、自己満足というか自己存在というのが今言った自分の趣味だとかいろんなことが生きてくるので、それを二つ合わせますとやはり生涯
教育の理念になると思うんです。出発点はこれだと思うんです。
こういうようなことを私は考えておったんですが、ついこの三月、日本学術会議月報の三月号を見てはっと思ったのは、一九六〇年にILOが雇用政策条約というものを採用したというんですね。
文部大臣は二十年ぐらい前に労働政務次官をなさっておられて、よく御存じじゃないかと思うんですが、話はプライベートになりますが、大臣が政務次官で札幌へ来られたとき――
全国の安全衛生大会がございましてそれで来られたんですよ。それで私がパネリストの一人でお話しをいたしまして、
海部さんに褒められたような気がするんですが、まあこれは冗談でございますけれ
ども、僕はお会いしているんです。
それで労働
関係はエキスパートであられる、こういうふうに私は思っておりますけれ
ども。
この雇用政策条約というのに、私が非常にいい文句だと思ったのがあるんです。「積極的雇用政策に一定の理念ないし目標を与えた」、この条約がですね、これは非常に重要なことである。その「目標」というのは労働の目標ですよね。「人に良い生計を与える」――これはそうでしょう、収入を与えるわけですね。「与えるばかりでなく、人々が何か
社会に有用なことをなしているという感情」です。「感情」という言葉ですね。「感情を個人的な能力実現の機会」-自分の持っている能力を実現する機会ですね、この「双方を共に充足させるという
意味である。」。なるほどと思いまして、私の年来の生きがい人生論がちょうどここにあるんだなと思ったんです。そしてこれは、「豊かな人間生活と
社会の活性化のための重要な課題となった。」。これがILOなんですね。つまり、働くということの
意味なんです。それがやっぱり私の生きがい人生論なんですね。たまたまこの三月、ついこの間送られてきたのを見てそう思いました。
ですからそういうことで、やはり
教育基本法の理念というのは、読んでみて立派ではあるがこれから子供が納得をしないんじゃないかということで、何か具体的な価値論を展開する必要がある。やっぱり価値があればなるほどと思ってくれるのではないかというふうに思ったわけです。
それで次でありますけれ
ども、したがって
大学はどこでもいいから入るということは
文部省もお考えじゃないわけだし、それがよくないとだれでも思っていると思うんです。だから、
目的を指向して
大学学部、そして将来は
学科を選んでいくということだと思うんですね。それで、
社会に役に立つという
意味は、
大学、あるいは高等
学校でも同じです。あるいは中学でもいいです。おまえは
社会に出て何ができものか、これが役に立つもとなんですから。何ができるかということが大事でありまして、何々
大学を出たということが大事なことではないんだ。だから、何ができるのか、この能力ですよ、アビリティーですね。そのアビリティーということがその人の評価になるわけです。ですから私はアビリティー、つまり資格でありますが、その資格というのは、つまるところ単位だろうと思うんです。
大学卒業というから
学校名が出てくる。しかし
学校名
社会がこれで形成されていった。単位に重点が置かれて、資格つまり能力、何ができるのかということが重要になってきますと、学歴は何々
大学じゃないんだな。私はエレクトロニクスの何とかができる、これだけは卒業したという単位が大事になってくると思うんです。
昔から私は、学歴は必要であるという考えです。学歴イコール資格イコール能力を示すものです。今のは
学校名
社会だと私は思っているんです。
学校名を使った
社会、これが日本の、
大学へ
大学へと草木もなびく重要な要素になっているんじゃないのかな。ですから私は、前にも申し上げたんですが、資格に重点を置いた――資格というより単位ですよ、単位に重点を置いた
大学改革が必要なのではないか。
ついでに話をさせていただきますと、単位を重視するということは学歴重視なんです。
学校歴というか、学んだ歴なんですね。学習歴なんです。ですからこれこそ重要であると思う。したがって、それが成立するからこそ単位の互換ということが成り立つんですね。
大学名が必要であったら単位を互換したらだめなんですよ。北大と東大出たら北東
大学とでもなりますから、これはまずいわけですよ。ですから、やっぱり
学校名じゃなくて単位が重要になる。したがって、単位の互換というのがありますと、あっちへ行ってもこっちへ行ってもやっていけるということで、最後にもし学士号が必要であれば、それはどこの
大学で一番単位を与えたかということが出てくるのじゃないかと思いますけれ
どもね。そういう単位の互換制度が
一つある。
ついでに申し上げますと、国際評価にたえる単位でなきゃだめなんですね。国際評価にたえるということが国際化なんですから。外国から留
学生が日本に来る。これはやっぱり第二志望か第三志望なんですよね。やっぱり第一志望はアメリカとかヨーロッパなんですよ。どうせチャンスがあるなら向こうなんだ。日本は第二なんです。それは私は、日本の学術研究
教育レベルが劣っているのではなくて、
教育の仕方がどうもまずいと思っているんです。私はアメリカの
大学院を出ましたので、どんなに
教育が厳しいか知っています。日本は、私も
大学の、
大学院の教授もしております。私を含めちゃうのでまずいのですが、いかにルーズであるかと僕は思います。私も教官でございましたから大変言いにくいのですが、自己反省を込めましてそういうことを申し上げたいと思います。
今の私の意見に対して、大臣、何かコメントございましょうか。あればいただきたいと思います。