○高桑栄松君 はい、わかりました。
これは、粕谷
委員を代弁いたしますと、立じゃないか。みずから立っていくんじゃないかと。私も自律というのは、ひょっと
考えてみたら、自律神経というのがありますよね。これに神経がつくんです。これは意思によって影響を受けないのが自律神経なんですね。意思は
関係ないんです。だから、ははあ今の個性というのは意思と
関係ないから勝手に走るという自律かなと思ったりしたんですが、それはまた字引を引いてみますと、「自立」というのにもちゃんと格好のいい解釈がついていました。だから確めておこうと思ったんです。私よくわからないんです、これ。「立」なのか「律」なのかわかりません。これはいずれ粕谷
委員から御
質問が将来あるかもしれませんが、一応。
その次、「個性重視の原則を確立」というものが困るものですからね、「個の確立を志向すること」だ、こんなふうにすると文脈がまことによくわかるということでございます。
その次、九ページ下から三行目、「各個人」、個人というのはもう各なんですね。だから「各」というのは要らない。その方がきれいじゃないか。「また、個人は家庭、
学校、地域、国家などの各レベルにおいて複雑な相互依存」、これはそのとおりだと思います。それでつまり「生命の尊厳、人格の尊重の
考え方の根本に、あるものは、」、こうなるんじゃないかな。私的な、プアな文学的知識の上で言っておりますけれ
どもね。
十ページ、一番上を見てください。「各個人」の「各」は除く。次は、「個性的」というのはいいんですね。修飾語ですから、個性じゃないんだ、「個性的」なんだ。だからこれはいいだろうと思ってそのままになっています。一行日もそのままです。
さあ四行目が問題ですよね。全部読みますと、「個性とは、個人の個性のみならず、家庭、
学校、地域、企業、国家、文化、時代の個性をも意味している。」。こんな個性ってあるのかな。集団に与えられるんだろうか。つまり、集団を構成している人はバラエティーに富んでいますよ。その人が、もし平均値が集団をあらわすんだとすれば、集団を構成している人たちがかわったときには平均値は変わるんですから、個性なんてあり得ないんです。大体一人がわっても変わるでしょう。
内閣総理
大臣がかわったら
内閣の
性格は変わるんじゃありませんか。個性なんかありっこないんだ。集団に個性があるというのは臨教審の大きな僕は間違いだと思います。これはこのとおり残ったら、後で歴史に恥をかく。それに列席をした我々の恥でもあると僕は思っていますよ。これはもう絶対直してもらわなきゃ困るんじゃないのかな。私を納得させてもらえばいいです。したがって、四行目、この一行は全部捨てるということです。「個性とは、個人に具わった特性である。」と、ばっちり「個人」に取りかえちゃう。
五行目です。原文読みますよ。「それぞれの個性は相互に無
関係に孤立しているのではない。」。うそです。孤立しているんです。だって
関係ないものだもの、個性というものは。
関係ありませんよ。個は
関係がある。個というものは相互に
関係ありますよ、個人は。個性という遺伝は相互に依存
関係なんかありません。したがって、「それぞれの個性は相互に無
関係に独立しているものである」、当たりまえですよ。そのとおりだ。「であるが、」なんです。「真に自らの個性を知り、それを育て、」じゃだめなんだ。「長所を育て、」、「それを生かし、」は「短所を押さえることが個の確立てあり、」、こういう定義をしておいた方がいいんじゃないか。「自己
責任を貫く」、私はこれ
考えてみたんだけれ
ども、やっぱり文学的素養がプアなものだから、
責任を貫くという言葉は果たすのかと思って、果たす方に僕とったんです。「
責任を果す」という言葉を使います。「自己
責任を果すためには」、「最もよく」というのも修飾語でありますから、「他者の個性」じゃないんだな、これ。「他者の人格を尊重しなければならない。」。「尊重し、生かす」なんというのはね、尊重したら生かしますよね。だから、「尊重しなければならない。」で切る。
次、「また、自由とは、放縦や無秩序、無
責任、無規律と全く異なる」というと、私
考えてみたんです。自由には放縦、無秩序がありますよね。あるから、これを抑えようというのがみずから律するの自律なんでしょう。だから、全く異なってはいないんだ。部分的に異なっているんだと僕は思うんです。したがいまして、「自由とは、放縦や無秩序、無
責任、無規律と異なるものである」、「全く」というのは修飾語で強過ぎると僕は思います。「自由は」でなくて、「自由には、重い自己
責任を」これは「伴うもの」じゃないでしょうね、求めらるんだろうと思うんです。自由を与えられるからには
責任が求められるんですよ。伴っているのならほっといてもいいんです。教育なんか要りません。一緒に歩いていってくれるのなら要らないはずだから。「自由には、重い自己
責任が求められているのであり」と。それで、これから選択の自由が増大するんだから、自由を享受すると同時に、自由の重み、
責任の増大に耐える能力を身につけなさいでいいと思います。「それゆえ、」ここで「個人の尊厳」は「生命」にかわるということです。「生命の尊厳、人格の尊重、自由・自律」、これまた「立」か「律」かが出てまいりましたが、私よくわからぬ、これは。ずっと行きます。これも、私みたいな理科系の人間が書くならいいけれ
ども、「自分を生かすことは他を生かすこと、自分を知ることは他を知ること、自分を尊重することは他を尊重すること、その逆も真である」、いやまあ大変丁寧というかくどいというか、「すべて表裏一体の
関係にある。」というのはね。私はやっぱり臨教審の答申というものは、もう少し文学的表現があってもいいと思うんだな。ちょっとやっぱり僕は、「個性」というところの丸を見ただけでがっかりするぐらいこれ多いんですよね。
まあ次へ行きますよ。「このように自他の個性を知り」、これ前に出てきたのがまたもう一遍繰り返されるんだな、たしか。違うかな、そうですね。「このように自他の個性を知り、他の人格を尊重し、自他の個を生かすこと」なんですね、個性というのは。何遍もくどいようですが、長所、短所ございますが、「個」ならいいと思っている。「自他の個を生かすことは」、これが私よくわからなかった。「個人、社会、国家間のすべてに通ずる不易の理想である。」、不易の理想なんでしょうかね。私の文章をごらんいただきます。「生かすことは、社会を構成する個人に求められる規範である。」、ルールですよと、それが本当でないのかなと思うんですね。「理想」なんでしょうかね、「不易の理想」、そこがちょっと私とは意見が違うんです。そして、「個の確立は」――後で「原則」出ますね、さっきの表現なんですよね、「個性重視の原則は、」これこれの原則であるという「原則」が続くんです。ですから私は文学的表現に、少し接近いたしまして、個の確立の原則と書かないで、「個の確立は、今次教育改革の主要な原則」であると、これでわかるわけです。
一番最後に参りますと、「豊かで、多様な個性」というのはないということです。あり得ないんだ。個性が豊かで多様であったら大変なことです。人格ならありますね。教養を積んで人格を陶冶して豊かな多様な人格が形成されていった、それを教育基本法は
最大の憲法にしているわけでしょう、人格の完成とか陶冶とか。ですから、豊かで多様といったら人格だろうと僕は周って、「人格」というのを字引を引いておいておいたんです。「人がら。人品。」と書いてあります。それで、「多様な人格は、個の確立の土台の上にはじめて築き上げられる」、この方が非常に論理的だと私思っているんです。
以上、たった二枚でございますから、
あと数十ページあるんで、とてもじゃないがきょう七十五分ではどうにも勝負になりませんので僕は勘弁していただきますが、これは一応私は文学者じゃないとくどいように申し上げましたが、文学的ではないにしても、医学的にやっぱりきっちりしてもらわぬと困るし、言葉というものはやっぱり自分勝手につくられちゃ困るんですよね。
それで、ルイセンコのやつをもう一度取り上げてみますとね、うまいこと書いているんだ、伝記に。人気が容易に衰えなかったのは、ルイセンコの言葉や方法や
考えが彼らにとってわかりやすかったからだというんです。彼らとは何です。専門家じゃないんですよ。専門家は追放したんですから。素人にわかりやすく言ったんです。したがって、臨教審のこれは素人にわかりやすいかもしれない。豊かで多様な個性的な文化、これは家庭にも個性がある。何か本当らしく聞こえちゃうんですよね。私も十日ぐらい前までは何となく本当らしいけれ
ども、うまくないなと思っていただけなんです。詰めてみたら、やっぱり医学的
考えでいうとおかしいんだ、これ。医学だけじゃない、広辞苑、字引を引いてもおかしい。ですから、これはやっぱりルイセンコの批判を受けているように、
考え方が素人にアピールしたからそれでいいというものじゃありません。臨教審は大変偉い人がたくさんいます。しかし、遺伝をどれだけの人が知っていたか。知らない人がやっているんなら問題にならないですよね。そして、臨教審または今次
内閣の権威の上に立ってこれをそのままやって、四十年後に批判を受けるんじゃないだろうかと、私はもう大変気になるんです。
ですから、私一例を挙げましたので、私のが一〇〇%いいなんて僕はそんなにうぬぼれておりません。でも、これはやっぱり
考えていただきたいということで、これは
文部大臣、何かコメントございますかね。