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関嘉彦君
文部大臣には去る一月の決算
委員会でも
質問申し上げましたけれども、野党少人数で
委員のやりくりがつきませんので、またきょう改めて御
質問申し上げます。
私の
質問は、
文部大臣の
所信表明に関して三点ほどお伺いしたいと思っておりますが、その前に、けさほど来大学の入学試験の問題がいろいろ論議されました。そのことにちょっと触れておきたいと思います。
私は、国
会議員になりましてからたびたび
文教委員会にも
出席いたしましたけれども、大学
入試の問題については一切発言しませんでした。それは、この問題は非常に難しくて、現存の
制度を非難するのはこれは非常に易しい、しかし、単に今の
制度が悪いと言っただけでは問題は片づかないんで、それに対する代案を出すのでなければ
議論しても私は
意味がないと思ったので、今まで私は代案がないから黙っていたわけであります。
大学の入学試験の問題というのは、大学にとっては非常に頭の痛い問題。極めて多数の、私が最後におりました早稲田大学の政経学部では、千二百人の定員に対しまして一万五千人ほどの志願者があり、実際に試験を受けるのは一万二、三千名ですけれども、この膨大な答案を五、六十人の専任の教官が採点だけで三日間、朝の九時から大体夜の八時ぐらいまで、昼食夕食の時間は休みますけれども、それに専念してやるぐらい非常に分量が多い。単に採点だけじゃなしに、試験の出題にいたしましても、あるいはその公表の手続にいたしましても、入学試験はこれは取り返しがつかない、
一つの間違いもあってはならないので、非常に
教職員が神経をすり減らす仕事であります。私は、大学の
先生というのは給料は安いですけれども、もし教授会と大学
入試の事務がなければ、こんないい商売はないんじゃないかと思っております。そのくらい大学
入試の仕事というのは本当を言うと嫌な仕事であります。というのは、問題を出題していても、こんな問題で果たして学生を選別していいのかどうか、こういう採点
方法で、こういう入学試験でいいのかどうか、いつも心に悩みながらも、ほかに
方法がないから今までの
方法でやってきたわけで、私は入学試験の
制度について、一切欠点のない
制度なんというのはあり得ないと思う。くじ引きでやるというんでしたらいいんですけれども、試験をするという以上はだれかを落とさなくちゃいけないし、一切不満のないような、欠点のないような
制度というのはあり得ないわけであります。
ところが、最近余り入学試験の事務なんかを御存じないような政治家が、中曽根総理
大臣を初めとしまして、いろいろ入学試験について意見を言われておる。確かに今の
制度を非難するのは易しいことです。しかし、それにかわってどういう
制度があるのか、あるいは今の共通一次確かに欠点がありますけれども、その以前の
制度と比べてどっちがいいのか、そういうことを十分検討をせずに、欠点のない入学試験
制度をつくりますとか、受験生が自由に選べます
制度をつくりますとか、ちょっと素人目に見ますと、これはえらい立派な
制度が生まれるんじゃないかという
期待を持つと思いますけれども、私はそういうことは手品でもない限りそういうことをつくることはできないと思う。そういう無
責任な放言が最近時々聞こえてきますので、私はこの問題をあえて、
質問予定外でしたけれども、取り上げたわけでございます。
例えば、先ほど高桑
委員も言われましたけれども、輪切りであるとか、切り捨てであるとか、これは試験をして採点をする以上は輪切りになり切り捨てる、落第した者を落とす、これは当然であります。あるいは大学の序列化になるといいますけれども、これは入学試験の結果ではなしに、むしろ
社会が大学に序列をして、例えば会社が東大なら東大しか採らないとか、早稲田からしか採らないとか、あるいは公務員の試験でも、一流大学の
先生が出題したようなペーパーテストによって公務員の試験をする。その場合にどうしても東大とかなんとかに行っていた方が有利である。そういう
社会が既に大学を序列化しているわけです。その結果が入学試験にあらわれているにすぎないわけで、何か入学試験がすべて人間を序列化するとか、大学を序列化するとかいうふうな言い方をすることは、私はそれは素人の
議論。素人受けはするかもしれないけれども、それは私は間違いだと思う。
それからさらに、入学試験あるいは共通一次でもいいんですけれども、それにいい点を取った者が人間的にもすぐれているんだというふうな
社会に評価がある。これも私は非常に一面的な考え方で、むしろ
社会の方に原因があるのであって、いわゆる共通一次の試験で落ちた者でも、ほかの能力においてすぐれた者なんかがいるわけですから、そちらの方面の能力を高く評価する。例えば入学試験の場合においても単にぺーパーテストの試験だけじゃなしに、例えば海外協力なんかに貢献があった者を優先的に入れるとか、そういうふうなことをすれば、私はそれで随分改善することができるだろうと思う。
私が特に取り上げたいのは、これ、
文部大臣と総理と意見が違うようなふうに新聞に書いてあったんですけれども、受験生の方でどういう試験を受けるかということを自由に選択すると、そういうのがいいんだというふうなことを総理が言われたそうですけれども、そういうことをもし認めるとしますならば、例えば受験生の方で、おれは体育を中心にした試験を受けたいんだとか、いろんな注文を出してくるでしょう。とても対応できるものじゃないのであって、大学がいろんな種類の試験をやって、おれのところでは共通一次でやるし、おれのところでは、先ほど高桑
先生も言われたようなハードル式のものとして、それを使って第二次試験をやるとか、あるいは
自分の大学では、そういったものと
関係なしに
社会経験とかなんとかによって試験をやるとか、そういういろんな試験
制度のバラエティーがある大学を受験生が選択する自由を持つ、私は一向差し支えないと思うんですけれども、入学試験そのものを受験生が選択するなんと言ったら、これは大学は大混乱いたします。とても
教育なんかできるものではない。しかも、極めて短時間のうちに入学試験というのは採点して、先ほど言いましたように、少しも間違いないように採点して公表しなくちゃいけない。一年も二年も時間をかけてやれる試験であるならば話は別であります。あるいは戦前のように、数百人の受験生を審査する試験であればこれは話は別でありますけれども、多くの私立大学なんかでは、恐らく一学部で一方、何万、場合によってはそれを超えるような採点をしなくちゃいけない。そういうところで受験生の方に試験を選ばせるというのは、いたずらに受験生なり親なりに幻想を与える。かえって私はその混乱の方が恐ろしいと思います。これは本当は
文部大臣に言うべきことではなしに総理
大臣に持ち上げなければいけないことですけれども、なかなか総理
大臣に
質問する
機会がないので、私がそう言っていたということを総理にもお伝え願えればありがたいと思います。これは別に御意見は要りません。大体
文部省及び
文部大臣の考え方はわかっておりますから、御返事は要りません。
次に、
質問通告しておきました
文部大臣の
所信に関する
質問を申し上げます。
第一は、教科書において、外国人の人名及び地名の表記
方法であります。片仮名で表記する場合の表記
方法であります。
文部大臣は
所信表明の中で、「
教育、
学術及び
文化の国際交流、国際協力」を推進しなくちゃいけないということを述べておられます。私も賛成であります。その中に、例えば留学生をふやすことであるとか、国際共同研究であるとか、外国人に対する
日本語
教育というふうなことを挙げられておりますけれども、私は、一番大事なことが
一つ抜けているように思うんですけれども、
日本人が国際的に物を考える、インターナショナルマインデッドになることが私は国際協力あるいは国際化の一番大事な点じゃないかと思うんです。インターナショナルマインデッドになるというのはどういうことかというと、
日本と違う
文化を持った外国の伝統的な
文化を理解できる、あるいはそれを評価する、そういう心構えだと私は理解しておりますけれども、そのためには外国人の固有名詞、地名であるとか人名、これはやはりできるだけその原音に近く発言することが必要ではないか。
日本語は発言が非常に簡単で、アイウエオの五十音さえ知っておれば表現できますけれども、こういう
言葉というのはむしろ例外的に易しい
言葉じゃないかと思うんです。いろんな難しい発言なんかがあるわけです。子音なんかでも
日本語以外の発言があるわけです。
そういう違った発言があるし、あるいはそれに伴うところの、地名なんかでもそれぞれの
文化的な伝統を背負っているわけですから、
文化的な伝統があるんだということを知るためには、例えば「ベトナム」というふうなことを
日本人は言っていますけれども、あれはやはり「ヴェトナム」じゃないかと思いますし、「ベニス」にしましても「ヴェニス」だと思うのであります。あるいは人名にしましても、「ボルテール」なんて書いてありますけれども、ボルテールなんて言いましたら、昔、「ギョエテとは、おれのことかとゲーテ言い」という川柳がありましたけれども、「ボルテールとは、おれのことかとヴォルテール氏言い」という川柳ができるんじゃないかと思いますが、外国人には通用しないわけです。
そのために教科書がどういう仮名遣いをしているか。普通名詞は、例えばサービスなんて既に
日本語になっておりますからこれは問いませんけれども、固有名詞で地名、人名、それを調べてみました。全部じゃないですけれども。四、五冊
社会科の教科書を調べてみたんですけれども、地名に関しましては、「ヴァ」というところがほとんど「バ」になっている。「チェコスロバキア」あるいは「ベトナム」、「ジュネーブ」であります。それから人名に関しましては、本によってまちまちでありますけれども、「ヴァ」行だけじゃなしに、「グロティウス」も「グロチウス」というふうな書き方をしている本もあれば、あるいは「カルヴァン」、これは「ヴァ」になっております。それから「シュヴァイツァー」、これも「ヴァ」になっております。教科書によって非常にまちまちであります。
私は、これはやはり統一した方がいいんじゃないかと思いますし、統一するのであるならば、「ヴァ、ヴィ、ヴ、ヴェ、ヴォ」、あるいは「トア、ティ、トゥ、テェ、トゥ」、
日本人が全然発言できない
言葉であればこれは仕方ありません、LとRの区別なんて発言できませんから、これは仕方ありませんけれども。発言できる
言葉であるならば、できるだけそういった発言を
日本人もするようにし、そういう表記をしていくことが外国人に対しても礼儀上当然だと思うのであります。
かつて「ヴァンス」国務長官というのがアメリカにいて、あれを「バンス」と書いて、だれだったか
日本の政治家が「ミスター・バンス」と言って、何か向こうが変な顔をしていたという話を聞きましたけれども、これは国際礼儀上も私は失礼に当たるのではないかと思います。
文部省は、今までどういう方針でこの地名、人名を
指導をしてこられたか、それをまずお伺いしたいと思います。