○穐山篤君 先日から当
委員会で、私
どもは私
どもなりの主張をしてまいりました。この種の重要な国策問題について、
臨調とか
行革審というふうなものを使うべきではないということを主張しました。それから二つ目には、殊さら
安全保障会議を
設置する必要はないじゃないか、
国防会議が
活性化を図れと
指摘されているのならば、それは
国防会議の運営についてみずからが創意と工夫を発揮すべき事柄である。それから、
内閣の連絡調整の問題につきましても、十分これは
機能できる余地を持っていると、こういうことを
指摘をしたわけです。
ところが
官房長官は、重大な緊急
事態の問題を
一つ取り上げながら、この
内閣の調整
機能の
強化、そういう面でどちらかといいますと事務的な見地から物を言われておったわけですが、私は本問題の重要性にかんがみまして、少し
安全保障会議に至るまでの政治的な動きというものを
指摘をしておきたいと思います。
今、長官は、安全保障という話が朝鮮戦争のときからと言われましたけれ
ども、記録によりますと、昭和五十四年の大平
総理大臣の最初の施政方針演説の中にこの安全保障という言葉が正式に出てきたわけです。その前に、例えばエネルギーの安全保障とかあるいは食糧の安全保障というふうなものが散漫的に出たのはありましたけれ
ども、この
総理の施政方針演説の中にこう書かれている。「厳しい世界の現実に対応しての総合的な安全保障の確保」。ですから、考えてみますと、
安全保障会議設置のまず具体的なスタートはここから始まっている、非常に歴史が長いというふうに、まず客観的に知る必要があると思います。
そこで、昭和五十四年の四月でありますが、総合安全保障研究グループの第一回の会合で大平
総理大臣は次のように述べているんです。「総合安全保障は、節度ある質の高い防衛力を
整備すると共に、これを補完する日米安全保障条約の誠実かつ効果的な運用」、二つ目に「政治、経済、文化等内政全般の秩序正しい活力ある展開」、三番目に「安定的な国際
協力システムの実現」と、こういうふうに安全保障の輪郭をここで提示をしているわけです。この安全保障研究グループが、大平
総理がまあ急逝をされましたので、昭和五十五年の六月に報告書を出しているわけです。まあ私は、ここまでが自民党
内閣におきます
安全保障会議設置の第一段階だと、こういうふうに分析をしたわけです。
それから、この研究グループの報告を受けまして昭和五十五年七月に、鈴木
内閣発足当時でありますが、
関係省庁を集めて
内閣審議室が取りまとめるという方向で報告書を提出させたものが残っているんです。その主たるところを読んでみますと、「国際的要因に起因し、我が国の存立基盤に重大な影響を与え、あるいは与えるおそれのある多種多様な脅威に対し、外交、国防、経済等の諸施策を総合することによってその発生を未然に防止し、あるいは現に発生した場合、これに適切に対処することにより、我が国の
国家としての存立を維持し、また社会的な大混乱を防止することを総合安全保障」として、こういうふうに定義をまとめたわけであります。最初は安全保障というもののイメージをつくりましたけれ
ども、この段階では
政府としての
一つの定義を出しているところに私
ども注目しているわけであります。
そこで、その年の昭和五十五年の十二月に、総合安全保障閣僚
会議が正式に
設置をされたわけであります。この
設置目的を見ますと、「最近におけるわが国をめぐる国際政治、経済情勢の推移に鑑み、経済、外交等の諸施策のうち、安全保障の視点から総合性及び整合性を確保する上で、
関係行政機関において調整を要するものについて協議するため」としているわけであります。この
会議は、既に当
委員会で
指摘をされたようなものであります。これは、自民党三役も出席をすることができるということで、久保田
委員からもあるいはその他
委員からも
指摘をされたわけです。しかし、これを歴史的に見ますと、この安全保障閣僚
会議というものを
設置したのは第二段階ではないかなというふうに思うわけです。
昭和五十六年の五月に鈴木
総理大臣は訪米をしました。例の西側の一員として総合安全保障確保のため、
日本にふさわしい役割を果たす決意があるということで、問題の日米同盟ということを声明で発表したいきさつが残っているわけであります。その後、オタワで
サミットが行われましたが、鈴木
総理大臣は西側の一員ということを非常に強調しまして、それとあわせて、記録によりますと、西側の総合安全保障の重要性を
指摘をしているわけです。
先ほど申し上げました
内閣に設けられました安全保障閣僚
会議で検討されましたものを一まとめにしてみると、政治的、軍事的な脅威、それから経済的な脅威というものを二つ置きまして、これの受け方として外交手段、国防的手段、経済的手段というものも整理をしているわけです。その上に立って、危機の管理方式として危機の予防、次には危機の準備、危機の対応というふうに、非常に綿密に整理をされているわけであります。
まあ、中曽根
内閣が発足してからのことは多くを申し上げることはないと思いますけれ
ども、昭和五十九年五月、
後藤田長官が行政管理庁長官であった当時、「
危機管理のための
政府の仕組み」こういうものを検討されました。それから、昭和五十七年七月の「行政改革に関する第三次
答申」というものを念頭に置きながら、六十年六月に
内閣機能等分科会というものが「
内閣の
総合調整機能の在り方」について
答申をしているわけであります。
そこで、先ほど私は防衛白書の特徴を聞いたわけでありますけれ
ども、これは防衛白書にかかわらず、その後中曽根
内閣が
安全保障会議を
設置をするという
一つの方向を目がけていろんな分野でいろんなことを積み上げてきたわけですね。例えば、日米首脳会談、防衛力の増強というものも
一つの面でありましょう。それから、中西特命大臣による
危機管理についての検討もそうでありましょう。三番目に
危機管理問題についての
行革審の
答申もそうであったと思います。それから、防衛白書も毎年毎年エスカレートして問題の提起がされている。それから、靖国神社の公式参拝とかいろんなことが全部総合的に現実問題が進んで、いよいよ総合
安全保障会議の
設置というものになっているわけでありまして、歴史的に言いますと六年以上の歳月をかけて、慎重にあるいは周到に準備されたのが今回の
安全保障会議設置法であろうというふうに言わなければならぬと思います。
きのうきょう
国防会議の
活性化を図るために
安全保障会議を設けるというふうないいかげんな
説明では、これは世間様は
納得することはできないと思います。今まで私が申し上げましたようなものが、自由民主党なりあるいは自由民主党
内閣として、第三段階の
経過を経て、いよいよ第四段階、言いかえてみますと
設置法を提起して具体的に
危機管理に当たる、こういうふうに発展をしてきているものと思うんです。
したがって、私は、意見になりますけれ
ども、事務的な問題の取り上げ方で
安全保障会議の問題を取り上げることは適切でない。前回も
指摘をしましたが、昭和五十八年度の自民党の選挙に関します我が党の公約一覧集を全部一読をしてみますと、これまたそういうふうな形に集合されているわけです。この中には「陸海空を統合運用して、それぞれがもつ能力を最も効率的に発揮させるため、統合幕僚
会議議長の権限の
強化」を図るとか、あるいは
国防会議に出席をさせるとか、「
国防会議を改組し、総合的な安全保障政策を樹立する」ために「
国家安全保障会議を
設置します。」というふうにずっとまとまっているわけです。
私の時間が来ましたのでこれで終わりますけれ
ども、私の主張、分析について
官房長官なりあるいは加藤長官どういう御意見ですか、それを伺って終わります。