○出口
廣光君 最後に、秋田県の大潟村の営農問題についてお伺いをいたします。
私はこの問題は決して秋田県の局地的な問題ではないと思います。御承知のように、この村には北は
北海道から南は沖縄まで全都道府県から入植しております。ここの村で起こっております問題は、とりもなおさず今日の日本の農業の縮図と言ってもよいと思うような
状況でございます。
〔
委員長退席、理事
梶原敬義君着席〕
この村は、日本農業の近代的モデル農村を建設するということで、
昭和三十二年から八百五十二億でございますから、今の価格にいたしますと一兆円を超える巨費と十五年の歳月をかけて、農林省初め数多くの人々の血のにじむような御
努力によって誕生した村であります。当初は、十ヘクタールの水稲単作経営で出発しましたが、四十五年以降全国的な米の過剰基調ということがありまして、全国的に新規開田が抑制されましたので、大潟村でも新規の入植を中止されましたが、なお全国から入植したいという希望の方が殺到しておりましたので、四十九年以降には稲と畑作をおおむね同程度とする田畑複合経営に移行する、こういう約束で入植が再開されました。一方、既に当時入植しておった者につきましては、これも十五ヘクタール規模の田畑複合経営をやる、こういう前提で五ヘクタールの農地を追加配分して、五十年から田畑複合経営をやることになって現在に至っておるわけであります。
一方、四十五年からは、米の
生産調整が国の重要施策として進められまして、全国の農民は米の置かれている
現状というものを認識しまして、経営規模で申しますと大潟村の十分の一にも満たない規模でありますのに、食管
制度を守るということで、言うなれば痛みを分かち合って水田利用再編
対策に協力して頑張ってきておられるわけであります。こういうさなかに大潟村においてのみ近年連続して過剰作付が行われ、そして年を追ってエスカレートしてきております。今では十五ヘクタール全部を稲作とする権利を主張しまして、国の農政に真っ向から対立している
農家が出てまいりました。私は、かってこれらの方と酒を酌み交わし、ソーラン節を歌ったり土佐の高知を歌ったりした仲間でありますが、大潟村
農家の五百八十八戸の中の一部分ではありますけれ
ども、そういう考えに立っている人がおるということは、秋田県民の一人として、またかつて県政の一端を担った者として大きな失望を感じておるわけでございます。
申し上げるまでもなく、大潟村はただ単に大規模な水田
農家をつくるために生まれたものではありません。秋田県の貴重な
資源でありましたところの八郎潟の水産
資源、風光明媚な自然というものを提供しまして、しかも当時県庁の中には大潟村のためだけに
二つの課を新設したほかに、随分多額の県単独の負担も行ってきておるわけでございます。それは、全国から入植される方々に日本農業の先達としてあらゆる困難に立ち向かって新しい展望を切り開いていける良識と
努力を期待したためであったのであります。一部ではありますけれ
ども、かなりの
農家がこの期待に背いておることは残念至極であります。
そこで
お尋ねしたいわけでありますが、五十二年からこの田畑複合経営の取り組みというものはずっと、最終的にはきちんと約束が守られてきました。過剰作付をしましても
農林水産省の方からの御
指導がありまして、最終的にはみんながこの約束を守ってまいりました。非常に残念なことに五十六年に一人、どうしても最終的に是正をしないという者が出ました。明くる五十七年にもう一人最終的に是正に応じなかった者が出ました。そういうことでとにかく七、八年の間はいろいろなことありましたけれ
ども、田畑複合経営をやるという約束が守られてまいったわけでございますけれ
ども、それが
昭和五十八年に一挙に十六人、十六戸、最終的に是正勧告に応じないという者が出たわけでございます。
私は、今この
委員会で審議をしております
昭和五十八年の会計
年度におきまして、
一体大潟村について何があったんだろうかということを大変不思議に思います。何か
農林水産省の方針の御変更でもあったのかどうかというような気もいたしますし、またこの過剰作付の是正について五十八
年度農林水産省としてどういう
対策を講ぜられたのか、まずお伺いしたいと思います。