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岡田(正)
委員 ありがとうございました。まあそう言わざるを得ないと思いますが、事ほどさように問題は複雑怪奇でございます。どうぞひとつ国民の納得できるような立派な案が一日も早く成立をして、国民の皆さんに褒めてもらえるような結果を生み出したいものと私も
考えておりますので、せっかくの御
努力をお願いをいたします。どうぞ官
房長官、結構ですから。ありがとうございました。
ちょっと資料を配ってください。これから北朝鮮にいらっしゃいます
日本人妻の里帰りの問題につきまして質問をさしていただきたいと思うのであります。
ただいまお手元に三部資料をお配りしたのでありますが、そのうちのこのたくさん枚数がある「世にも不思議な物語り」というやつは、実は不肖
岡田正勝がつくった歌でございます。これは大変人道的な問題であり、しかも二十七年間もほったらかしになっておるような問題でありますので、この問題を
理解してもらうのに、これを一見していただけば数字も歴史もすべてがわかるようにと念願をして書いたものでございます。二十七年三カ月前の
昭和三十四年十二月十四日に新潟港を船出をいたしまして北鮮に行かれたきり、今日までただの一人毛里帰りをしていないという六千六百七十九人の
日本人並びに
日本人妻、この問題について、これから
政府にお尋ねをしたいのであります。
この問題は、
昭和三十四年八月十三日のカルカッタ協定に始まっておりまして、この協定というのは、在日北鮮人の人たちが当時北鮮に帰りたい、祖国に帰りたいという願望を持っておりましたが、当時も今も国交がありませんので、そのことを人道問題としてとらえた当時の藤山愛
一郎外務大臣がこれを閣議でお取り上げになりまして、閣議
決定によって、人道問題だからひとつ送り帰してあげようではないかということになりました。それによって弾みがついて、
両国の赤十字の間で帰還協定の締結に至り、帰還業務が始まったのでありまして、三十四年十二月十四日から五十九年七月二十五日までの間、第百八十七次船までで九万三千三百四十人の人が北鮮に行かれました。そのうち
日本国籍の人は六千六百七十九名であり、そのうち当時の
日本人妻は千八百三十一名でございました。だがしかし、二十七年三カ月、ただの一人も今日まで里帰りをしません。
それでは、国交がないから全然行き来ができないのであろうか。そうであるならば納得がいきますが、その歌の中にも、資料に書いてありますが、北鮮から
日本に来られてまた北鮮に帰っていくという人たちが、これが年間約二百名づつ、今日まで三千八百十二名の人が行き来をしております。そして、
日本にいらっしゃる在日の北鮮人の方々が祖国に訪問をしたいというので、祖国に行って帰ってこられる人、これが年間約三千人を超えております。それで、その合計は二万九千九百九十名に至っております。
日本人であって、北鮮に用事があって行って
日本にまた帰ってくる、こういう人だけでも一年間に八百八十九名という状態であります。でありますのに、それだけ自由に往来をしておるのにかかわらず、
日本人妻は一人も帰ってこない。一人毛里帰りがない。これは一体どういう現象なんでしょうか。だからこそ私が今お手元に配ってある「世にも不思議な物語り」と言いたくなるのであります。こういうことが現実にこの世界で起こっておるのであります。
さらに、今お渡しをいたしました資料の中に三枚つづりのこういう手紙があります。これは最近の手紙であります。これを全部読んだら時間がありませんから、その一枚はぐって二枚目の真ん中の丸印をしてあるところをごらんいただきたいと思いますが、本当に涙なくしては読むことができません。いかに生活に困窮しておるかということがよくわかります。
この国ではまだまだ生活が大変で、私も年をとり、主人が今では寝たり起きたりの状態です。子供たちがよく頑張ってくれるのでどうやら暮らしていますが、お姉さんには想像もできないことと思います。自分が選んだ道なので、だれにも言えない
立場ですが、年をとるほど肉親が恋しくて涙に暮れる日が一日や二日ではありません。
姉さんからのお便りを受け取り、姉さんにしか泣き事を言える人がいないのですが、皆さんの着古した物を送ってくださいませんか。高価なものは何も要りません。子供たちも孫も八人皆大きくなったのに人並みに着せられず、胸の痛いことがしばしばあります。と書いてあります。
着る物にも不自由をしている様子がこの行間を通してしみじみとうかがえるのでありますが、さて、向こうに行かれた
日本人妻のほとんどの方がそういうことで困っていらっしゃるのではないかと私は
大変心配をしておるのであります。
そこで、郵政
大臣にお尋ねをいたします。
まず、郵便物の
関係でありますが、これは手紙とか荷物ですね。これが確実に本人の手に届くという手段がないものでしょうか。この点について、実は五十三年の十月十八日に逓信
委員会で我が党の青山丘という議員が、当時の服部
大臣に質問をいたしております。そういう
関係もありまして、もう既にあれから随分の日にちがたっておりますので、大いに
検討すると約束されておりますので、どう
検討されたのか、ひとつお聞かせをいただきたいと思います。