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佐藤(誼)
委員 その辺の論争をすると、またいろいろありますけれ
ども、さらに関連して次の
質問に入っていきます。
どうも今の連続、非連続という分析が後の
教育改革の原則等にもずっとつながっていくと思うから、私そのことを聞いておるのですけれ
どもね。つまり、こういう観点に立って、富国は戦前戦後連続だという。戦後は富国富民の路線に専念できることで、これも書いてあることです、日本は未曽有の
経済成長を遂げた。しかし、それは戦後三期、つまり皆さんの分析しておる
昭和四十二年から
昭和四十六年という四六
答申の前までですね、高度
経済成長の前まで。つまり、それは戦後三期に至り追いつき型
政策は達成され、成長の限界が見え、近代工業文明の転換期に入った、こういう見方ですね。そこで、
昭和四十六年ごろで連続を区切っているわけです。
しかし、この追いつき型
教育をその後もとり続けてきたために、今日の
教育に多くの問題を残した。
教育荒廃もその一つです。つまり具体的には、追いつき型
教育をずっとしてきたために、画一性、形式化、硬直化のそういうことによって
教育に問題を残し、荒廃も生んできた。したがって、これからの
教育改革は、ちょうどそれを裏返した形ですね。自由化であり、多様化であり、弾力化でなければならぬ、こういうつながりになってきているんですよね。
ですから、皆さんが今までずっと第一次からやってきた
教育改革の原則に続いて、例の自由化とか個性主義とか個性重視の原則がいろいろ変わって
議論されてきた。それでようやく個性重視の原則になったんですがね、一番重要なところは。しかし、それに関連する改革の基本的スタンスというか
立場というのは、いわゆる画一に対しては自由であり、形式に対しては多様であり、硬直に対しては弾力化という原理を引き出してきているわけです。
そして、いろいろこれから問題になります民間活力の問題であるとか、多様化であれば中等
教育の問題であるとか、いろいろな問題をそこから引っ張り出してきているわけです。そういう
考え方が出てきたのは、連続という
考え方を持ってきて、
昭和四十六年を一つの区切りにしているからだと私は思うのです。果たしてこういう分析が至当なのかどうか、私はどうもそのことについてすとんと落ちない面があるわけです。
特に私の
立場、
考え方からいえば、そういう分析は私は無理な分析ではないかと思うのです。これからの
教育改革を
考えるときにあるいは
教育史的に見ても。私は、やっぱり素直に終戦を一つの区切りにして戦前
教育、戦後
教育と分析するのが当然だと思うのです。
つまり、戦後
教育は、軍国主義、超
国家主義に基づく侵略戦争と、その敗戦の貴重な教訓から生まれた憲法、そしてその憲法を実現するためには
教育にまつんだということによって生まれてきた
教育基本法をよりどころにして出発したと思うのです。ですから、戦後
教育の出発は、やはり憲法、
教育基本法なんですね。つまり別の
言葉で言えば、戦争という
国家目的遂行のための
国民を育成する、
国民強化の戦前の
教育から、人格の完成という基本的人権に基づく
教育、そして平和的
国家、社会の形成者を育成するという、文字どおり戦後百八十度変わった
教育改革であったというふうに戦後の
教育の出発を押さえるのが私は至当だと思うのです。
それじゃ、本当に憲法、
教育基本法は戦後
教育の中に定着していったかどうかというところが私は今検証されるべきだと思う。これは、ある一時期までは熱心にそれが志向されていったけれ
ども、ある時期からそれが非常に歪曲され、その精神が失われていった。このところに今日の
教育問題があり、
教育荒廃がある。したがって、今後の
教育改革は、やはり
臨教審の法律にもあるように「
教育基本法の精神にのっとり」、つまり戦後
教育の出発点に返って、そこから改革を始めていくというのが至当だと私は思う。とするならば、当然
教育改革の基本は、
教育基本法にある人格の完成、つまり個人の尊厳、
人間能力の調和のある全面発達、これを基本にしながら、戦前の反省に基づいての平和的な
国家、社会の形成者、そしてたっとび、これが基本にならなければならぬと私は思う。ところが、
臨教審ではそこのところが、
昭和四十六年の追いつき型
教育が終わったというそこで区切っているものですから、自由化、多様化、弾力化との見合いで
教育基本法の中の個性重視というそれに結びつけているのですね。そして、
教育改革の基本は個性重視の原則、そして多様化とか自由化とか、そういう形で今のことをずっとつくり上げてきている。そういうつくり方で果たしてこれからの
教育改革が本当にできるのか。特に、
教育荒廃と言われる、言うなれば病理的な現象とも見えるいじめや校内暴力、あるいは非行の問題等が、そういう個性重視、それから自由化、弾力化あるいは多様化という形で果たして改革できるのかどうか、私はここまでつながると思う。やはり
教育の現状を変えるためには、戦後の出発点であった
教育基本法の人格の完成、つまり
人間の尊重、個人の尊厳、とりわけ今問題になっている知育偏重に対して、
教育基本法の人格の完成の中身である
人間能力の調和のとれた多面的、全面的な発達、これを重視しなければならぬのではないか。これが大きく欠落していると私は思うのです。それから特に、これからの国際化社会ということをずっと追っておりますけれ
ども、その中になぜ平和ということが出てこないのか、この辺もこれから深く反省すべき点ではないのか。
特に、私はその中でもう一点強調しておきますと、戦後の
教育の人格の完成云々ということは、戦前の
教育というのは国のための
教育であった、国の
政策遂行のための
国民をつくるための
教育であって、
国民は受ける義務であった。しかし、戦後の
教育というのはまさに人格の完成という、
教育することそれ自体が目的である、戦前の
教育は
国家目的のための手段だった、そこに大きな違いがあると私は思うのです。つまり、
教育はそれ自体が目的であって、しかも私たちが今改革しなければならないのは、
人間能力という一面だけを、知育偏重のこれだけを育てようとするものに対して、今申し上げた人格の完成の中身である
人間能力の調和のとれた全面発達ということを表面に掲げなければ、今日の
教育荒廃、あるいは過熱した受験競争なり知育偏重、偏差値輪切り、こういう
人間のいわれなき序列化、非
人間化の体系を除去できないと私は思うのです。このことまで深くこの問題はかかわっていくのではないかと私は思うわけであります。
そういうことで、やや一貫してずっと述べましたけれ
ども、大筋のことは御理解いただいたと思いますので、そのことについてまとめて感想はどうですか。