○浦井
委員 だから、弔慰金をつくるのが一番よいのだということを私は申し上げて、そういう答えが返ってくるだろうと、大臣の態度からそう予想はしておったわけであります。だが、そういうようないろいろな矛盾せざるを得ない答弁をしながら、全体として今井大臣もやはり
被爆者援護法というのは必要なんだ、こういうふうに思われておると思うわけなんです。
もう一冊、私は本を持ってきております。「私の
被爆者運動」、斉藤義雄さん、これも非常に詳しい本であります。
被爆者援護法制定運動がどういう経過をとってきたかというその一節を、私、書き抜いてまいりましたので読んでみますと、病気を持った
被爆者が戦後四十年どのような思いで生きてきたか、
被爆者援護法の制定を目指し、どんな苦しい活動を粘り強く続けてこられたか、非常にリアルに書かれておるわけです。
そういう中で、一九七三年、運動の高まりの中で
厚生省に座り込みをする。十一月なので、しかも激しい雨が降っておる。中庭にテントを張ろうとするが
厚生省は認めない。ずぶぬれになって、凍るような冷たさに耐えて頑張る。五日間座り続けて、とうとう当時の総理大臣である田中角榮が、「私も友人を
広島で失った。
考えてみましょう」、こういう表明をせざるを得なくなってくるわけなんですよ。で、時の厚生大臣にも会えて、野党も協力を約束をするというような事態になる。こうして
被爆者援護法案づくりの機運が高まってくるわけです。
今の
被爆者援護法案の歴史について言うならば、
昭和四十八年に日本被団協が原爆被害者援護法案のための要求骨子を発表した。そこから始まる。八月に私
ども共産党がまずこの要求骨子の支持を表明して、私
ども共産党は
原子爆弾被爆者等援護法案(要綱)を発表した。それで、九月に日本被団協は社会党さんとも話し合って、現在の社会党が
考えている防空従事者
関係法には遺族年金等が入っていないため不充分な施策となるので、国家補償の立場を徹底するよう、こういうことで日本被団協の要求骨子をとり入れるよう要請して、そういう大行動の中で社会党さんも要求骨子を支持し、従来の社会党案を改め国家補償に基く
被爆者援護法案要綱を発表された。民社党さんも公明党さんもそれぞれ
被爆者援護法案を発表し、野党の足並みがそろってくるわけであります。
そして私も、ここにおられる
大原さんも、これに一二月十九日に衆議院の議員会館で野党四党共同案の法案
審議作成
会議が開かれて、日本被団協からも代表が参加され、それから衆議院の法制局の
課長さんも来られて一条ごとに被団協の要求を踏まえて、各党も意見を出して、そして検討して、難問にぶつかったときは積極的に
被爆者の利益を擁護し、被団協の意見を優先させて、その結果、今の
被爆者援護法案というものができたわけです。
だから、斉藤さんも、多年の念願の援護法を各党と共同でつくり上げた喜びと感激は大きかったというふうに書いておられるわけです。そして一九七四年三月二十九日、野党四党共同提案になる
被爆者援護法案が衆議院に対して
提出された。
だから、振り返ってみますと、やはり
被爆者の要求をもとにして
被爆者援護法案というのは野党共同でつくり上げられておる。私は、決して一党一派の自由になるものではなく、その中に
被爆者の
方々の多年の苦しみ、それから粘り強い闘いが反映しているというふうに
考えるわけです。この問題は決して軽々しく取り扱ってはならぬというふうに思うわけです。そういう
被爆者援護法案を共同提案をした歴史がもう十年を超えるわけです。これだけの大きな運動、
被爆者のお一人お一人の思いを込めてここまで来たのを何で政府・与党は放置をしておるのか。
今井厚生大臣、この辺で援護法案をつくるという表明ができませんか。