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小林(進)
委員 外務大臣、きょうは二月の二十六日であります。二月二十六日といえば、言わずもかな思い出していただくことがあると思うのでございますが、今から五十年前の
昭和十一年二月二十六日に二・二六事件というのが勃発をいたしまして、
総理大臣官邸以下、
日本の重臣その他銃殺に遭って、
日米、この日を
契機にいたしまして
日本はまっしぐらに
軍国主義、第二次
世界大戦に突入して、暗い月日を費やしながらついに敗戦という未曾有の困難に遭遇した、暗い
日本の
スタートの日でございました。しかし一方、その日と前後をいたしまして、
フィリピンでは二十年にわたる
独裁と汚職と腐敗の
マルコス政権が倒れて、そこはかとなく明るい平和な展望が見出されたということは、
彼我比較をいたしましてまことに
喜びにたえない次第でございます。
私は、その
日本の暗い日に突入いたしました五十年の過去を思い出しながら、実はここ一週間ばかり全く
テレビとラジオに
くぎづけになって、この
フィリピンの
状況を眺めていたのであります。祈るような
気持ちで、
マルコス倒れろ倒れろと思っていたのでございますが、私の願いもかなって倒れたわけでございまして、ようやく
新生フィリピンが生まれようといたしておるのでございますが、私はこの新しい
フィリピンの国の
スタートとともに、
日本の
政府自体もこれを節目にしてひとつ大いに反省をしてもらわなければいけない。これは今
土井委員も
お話しになりました。
今までの
日本の
経済援助等その他を含めて、
フィリピンと
アジア第一の
友好を続けていらっしゃった。またその
援助力などは、かつての
植民地支配をした
アメリカよりも
日本の方がむしろもっと
援助力が強いという、なぜ一体
フィリピンだけにこんな力を入れなければならぬのか、これは
日本国民にはわからないのであります。私が祈っていたように、あのとき
日本国民知る者と知らざる者とにかかわらず、
マルコスに対する非常な反感と嫌らしさを感じて、
アキノ夫人が勝ってくれればいい、そういう声が
日本国内に充満したんですよ。それくらい、
フィリピンに対する
日本の特別のてこ入れがわからないのであります。
時間がありませんから私はこの際申し上げたいが、七二年から
マルコスさんは
フィリピンで戒厳令をしいた。一切の民主主義を否定して、戒厳令下、軍政下で十数年も
フィリピンで
独裁政権を続けてきた、その国に対して、一体
日本がなぜ特別の
経済援助をしなければならなかったのか、これをまず
一つお伺いいたしておきたい。
しかもまだ七三年には、かの
アキノ氏、あのときはもう
世界の世論、
世界の声は、
マルコスというあの
独裁者は
アキノ氏と
大統領選挙を争えば、恐らく
アキノがかわって
大統領になるだろうというのが大方の見方であった。ところが、その
アキノ氏を捕らえて刑務所へぶち込んで、しかも死刑の判決を下して、以来ずっと刑務所に入れてしまった。そのうちに首を切るのかと思ったら、いろいろの世論も恐れたのでありましょうが、保釈ということで監獄から出して
アメリカへ送り込んだ。以来
アキノさんは、十年も
アメリカで
生活をしておったんだが、今度はその
アキノ氏が八三年に自分の祖国へ帰ってきたら、そうしたらもう飛行機をおりるかおりないかで銃殺されてついに生涯を終わったという、こんな異常な国が一体
世界のどこにあるか。
私はこういう問題について、
日本の
政府は
国民の税金を使っているのだ、どんどん、
世界じゅうでどこの国よりも
フィリピンへ
国民の税金をぶち込んでいるのでありますから、こういう現実に対し、やはり正しい批評や判断や情報をおとりになっていなければならない、これは当然であります。なぜ一体、七二年に戒厳令をしいたのか、なぜ七三年に
アキノ氏を刑務所にぶち込んで自分のライバルに死刑の宣告までしたのか、あるいは八三年にまだ飛行場へ着いたばかりの
アキノ氏を殺した、一体その犯人はだれなのか。
世界じゅうの人はみんな、今逃げたのがやらしたと思っているのでありますけれ
ども、ベールですか、参謀総長がやらしたんだと思ってるのだけれ
ども、この問題に対する
日本の
政府の考えは、判断はまだ
一つも出ていない。
日本国民に対する
政府の正確な判断も何も示していない。
そういうことで、
アジアの一員だから、隣の国だから何としても特別に
援助、
協力しなくちゃならないといって金ばかりぶち込んでいられるのは、
国民の側から見れば泥田に小判を投げ捨てているようなものじゃないかという感じがあるから、非常に
国民はこの点を理解しづらく思っているわけであります。今の
政権がかわったときに、こういうことを節目にして
政府からも反省してもらわなくちゃならぬから、以上、私の
質問にまずひとつお答えを願いたいと思うのであります。