○関嘉彦君 きょうは岡本
会長以下、お忙しいところ御出席いただきましてありがとうございました。
民社党は戦後の
教育を大いに、
改革すべきであるという立場から、総理大臣直属の臨教審設置を推進してきた立場でございますので、むしろ皆さん
たちの仕事を援助する
意味でいろいろ
意見を述べてみたいと思っております。いずれ
基本答申を出されるだろうと思います。その答申に対してはいろんな各方面からの批判、反論が出るだろうと思いますが、そういった反論なんかにこたえ得るような論理的な一貫性のある報
告書を出していただきたい、その点から質問申し上げたいと思っております。
質問と申しますよりも、時間が非常に限られておりますので、一問一答をやっておりますと私の持ち時間二十分でございますから、時間が不足いたしますので、私が一方的にしゃべることが多いんじゃないかと思いますが、後でそれについて反対
意見があれば述べていただきたいというふうに
考えております。
まず最初は、「臨教審だより」、こういった「臨教審だより」でありますとか第一次答申の
審議経過なんかを読みますと、まず最初に二十一世紀に向けての
教育の
あり方ということが議論されているように思います。そして
教育基本法の問題は今後大いに議論していきたいというふうに述べておられますけれ
ども、私は議論の進め方が逆じゃないかというふうに
考えるわけであります。
先ほど岡本
会長からお話がありましたように、そういった理念の問題よりも今の制度をどうするか、それに対する期待が非常に大きいので、その問題を最初に取り上げたんだというふうなお話がございました。その
意見、わからないではありませんですけれ
ども、私は
余り世論に流されないで
教育の問題は腰を落ち着けて議論していただきたい。
私はなぜ、議論が逆ではないかと申しましたのは、私は
教育の
基本的な理念というのは普遍的なものであって、二十世紀であろうと二十一世紀であろうと変わらないんじゃないかと思う。その普遍的な理念を二十世紀と違う二十一世紀、いろんな技術変化、情報化社会、いろんな違った点があらわれできますけれ
ども、その違った社会にどういうふうに適用するか、応用の問題が二十一世紀の問題ではないかと思うので、まず最初にその普遍的な理念を議論しておいて、それから変動する二十一世紀に対してその理念をどのように適用していくかということを議論されるのが私は筋道ではないかと思う。それが逆になりましたために、例えば自由化論という、私は自由化というのは
一つの手段、その理念を達成するための手段あるいは方法じゃないかと思うんですけれ
ども、その自由化論が一躍表に出まして、かなり混乱した議論がある、しかもその報道がかなり一方的な報道もありまして、かなり誤解を生んで不必要な議論がなされたんではないかというふうに思います。私は自由化というのはある
意味では賛成ですけれ
ども、経済の自由化と同じような
意味の、そういう
考え方を
教育に適用されることは私は反対でございます。経済の原理と
教育の原理というのは私ははっきりと区別してもらいたい。自由化ということは結局撤回されまして、個性主義というふうな
言葉になりましたけれ
ども、その個性主義、個性の尊重ということだろうと思いますが、これも私は必ずしもよくわかった概念ではないんじゃないか、つまり個性を尊重する、個性のある人間というのは、例えば石川五右衛門でありますとかヒトラーでありますとか、あるいは
先ほど話が出ておりました文鮮明なんというのもある
意味では非常に個性のある人間でございますけれ
ども、そういう個性をそのまま尊重していくということではないんじゃないかと思う。私はやはり個性主義ということは人格の完成という
教育の目的を達成する
一つの方法であり、人格の完成といいましても抽象的な人間なんかいるはずはございませんから、普遍は個を通してあらわれてくるわけですから、いろんな人格の完成の方法があるわけで、そういった個性をたっとんで人格を完成するというんだったらわかりますけれ
ども、あるがままの人間の個性をそれをそのまま尊重するというんだったならば私は
教育じゃない、否定になるんじゃないかということを
考えております。
したがって、個性の尊重ということと、人格の完成ということとをどのように結びつけられるのか、そのことをきょう急に答弁は求めませんですけれ
ども、十分に検討していただきたいというふうに
考えます。
それから
教育の目的としての人格の完成ということは
教育基本法に書いてあります。
先ほど岡本
会長、これは非常に読みづらいということを言われました。私も本当に読んでこれは読みづらくて、二、三度繰り返して読んだんですけれ
ども、よくわからない。例えば第一条の「
教育の目的」は、「
教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と
責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」、英語の翻訳を見るとよくわかるわけです。英語の翻訳を見ると、「人格の完成」ということと、それからいろんな形容詞がありまして、最後に「健康な国民の育成を期して」ということと二つがアイ・エヌ・ジーで結びついているんですけれ
ども、これの方が私ははるかにすらっと頭に
入りました。しかし、それでもなお問題は、「人格の完成」ということと、それからそれ以降、「平和的な」云々というふうなことの、「国民の育成を期して」ということとはどういう
関係にあるのか。「人格の完成」をハラフレイズして言っているのか、あるいは「人格の完成」と並んだ目的であるのか、これは英語の方を読んでもわからない。
日本語を読んではなおさらわからない。その
意味においてやはり「人格の完成」というのはどういうことであるか、これを私はまず最初に十分に議論していただきたいと思う。
この問題につきましては、例えば、日教組は最近、
教育基本法を守るんだというふうなことを言っておりますけれ
ども、倫理綱領、その解説なんかを読みますと、「
日本の
教育基本法という法律は、「人格の完成」というきわめて抽象的な原理宣言を公けにしているが、それでは
教育の目的は明らかにならないのだ。」ということを言って、それで、その後で
教育の目的としてインプライしていることは、階級的な自覚に目覚めて、そして階級闘争によって社会を変えていく、そういうのが
教育の目的であるかのようにこの解説を読むと見えるわけであります。最近、日教組その
考え方を改めたようでございますから、その点は私大いに評価しますけれ
ども、しかしなおその日教組の
人たちが人格の完成と言っている場合に何を
考えているのか、恐らく私は臨教審の
人たちの
考えておられる人格の完成というのと違うのではないかと思う。私は人格の完成ということはやはり人間の使命、その使命を達成する、そういった一種の理想主義的な哲学からでなければ生まれてこないと思うんです。果たして日教組の
人たちがそういった理想主義の哲学をとっておられるのかどうか、少なくとも倫理綱領解説を読む限りにおいてはそれと逆の哲学の上に立っておられるんじゃないかというふうなことを
感じますので、なおさら臨教審の方々は
自分たちは人格の完成というのはどういうふうに
考えているのか、それをはっきりして、そして各論に入っていっていただきたい、そのことをまず第一にお願いしておきます。
それから二番目に、私はやはり教員の養成を非常に重視していただきたいと思う。
教育基本法第六条二項では、「教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。」。全体の奉仕者であるということは、これは公務員についてすべて言えることでありますけれ
ども、特に
教育者にとっては、
教育者としての自己の使命は何であるか、それを自覚することが私は大事ではないか、単なる労働者ではないんだ、やはり人間をつくるという非常に神聖な仕事に従事しているのが
教育者なんだ、その使命を自覚する、技術論の前にそういった使命の自覚が私は必要ではないかというふうに
考えております。
今度、臨教審の方では、教員になるために一定の
研修期間を設けるというふうな
意見も出ているやに承っております。私もやはり、司法官についても一定の
研修期間が必要であるし、
医者については、けさほど、今まで
インターンがあったのが
大学紛争以来やめちゃった、しかし
インターン制を復活したらどうかというふうな、再検討をしてはどうかというふうな御
意見もありましたけれ
ども、私もやはり
教育は
医者の仕事と同じように、
医者の仕事は人間の
生命に関する仕事でありますけれ
ども。
教育の仕事は人間の精神に関する非常に重要な仕事であります。単なる労働者の意識でもってこれに当たられたらとんでもないことであります。したがって、
研修期間に
教育技術を教えることはもちろん必要ですけれ
ども、やはり教員の使命は一体何なのか、それを自覚するような
指導、
教育が行われるような、そういう
意味の
研修をやっていただきたい、これが第二点であります。
第三点もありますけれ
ども、ちょっと第一点と第二点につきまして何か御
意見があればお伺いいたしたいと思います。