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参考人(倉沢進君) 第一点でございますが、コミュニティ銭湯の東京都の
事業でやりました第一号というのは、北区に大黒湯というのがございます。
東京都の
制度と申しますのは、簡単に申しますと、おふろ屋さんが土地を持っております。その上におふろ屋さんが自分のおふろと自分の住宅を建てるのが普通でございますが、そこに一部
コミュニティセンター的な機能の
施設を建てまして、そしてその公共部分はおふろ屋さんの所有でございますが、東京都が五千万円の
補助金を出しております。それかも、地元の北区がこれを二十
年間借りる契約をしております。
したがって、おふろ屋さんは、自分のおふろへ来る人が、同じ建物へ入る人がふえるということで、お客がふえることを期待しております。それから、おふろ屋さんの
施設ということで、割と冷たくない人間味のある
施設としてみんなが
利用できるのではないか。それから、公共側からしますと、東京都は五千万円別に出しておりますけれども、北区としては一銭のお金も使わないでそういう
施設がいわば維持費だけでできる、こういう一石三鳥だということを申しているわけでございます。
現在、東京都の
制度で動いておりますのは、北区の大黒湯と練馬区と板橋区にもう一軒ずつございます。毎年二件ずつの
予算がついておるんでございますけれども、消化し切れませんのは、周辺の浴場の反対問題と、それからこんなことを先生方に申し上げてはなんかもしれませんが、区の企画あたりに聞きますと、こういうことは大変苦労しなきゃいけない、それにもかかわらずやって得をするのは、東京都が手柄を
立てたことになってしまって、区の手柄にならないから余りやりたくないと、こんなようなことが難点です。
先生御指摘の国立の例を私存じませんですが、多分それと関連して市が独自に似たようなことをやっている例がございます。武蔵野市の場合でご
ざいますと、おふろを建てかえるのではなくて、今のおふろ屋さんで曜日を決めまして、あそこに
体育短大がございます、その短大の老人から見ればお孫さんみたいな先生がやってきて、体操の指導をいたします。不老体操と、おふろと年をとらないということをひっかけたわけでありますが、そういう体操をした後でおふろに入ってもらうというような、これは純粋なソフト的な
施策としてやっている例もございますので、多分国立市として独自に何か
工夫してらっしゃる例ではないかと思います。
それで、
利用は、大黒湯という例に関して申し上げますと、おふろに入るお客さんが三割ないし四割ふえまして、入る年齢が十歳若返りまして、そしておふろやさんとしてはかなり喜んでおります。
利用状況もかなり私の見たところではよろしいのでございますが、ただ
地域の住民の
利用というよりは、ピンポンができるからあそこに行こうというので、北区一帯のあるいは北区を越えた小学生が集まってくるとか、最初のことですので、もう少し時間を置いて見ないと
地域の
施設としてどのくらい生きているかということはわからない面もございます。むしろ、そういう
施設が余りにも少ないので遠くから大勢の人がやってくるというのが
現状のように思っております。
それからもう
一つ、効能書のようで恐縮でございますが、谷中に
コミュニティセンターという立派な
施設がございまして、そこにもおふろがございます。大変きれいなおふろで障害者も入れるような
施設がございますが、実はこれは週に六時間しか使われておりません。これは何のためにそのおふろが使われないかと申しますと、近隣の浴場組合から苦情がございまして、それで余りお客をとってもらっちゃ困るということを言われるものですから、その六時間しか運営できない。
しかも、入浴者に聞いてみますと、コミュニティ銭湯の方が普通のおふろなんで気楽に行ける。
コミュニティセンターのおふろの場合には、玄関でお役所の人にあいさつをしてから入らなくちゃいけなくて、ちょっと行きづらいんだということを、お年寄りでございますので、そういうふうなことも申しております。
そんなようなことを考えますと、公共
施設におふろをつくるのではなくて、おふる屋さんに公共
施設が居候をするという考え方を考えでいいのではないか。先ほど民活というふうに申し上げたのは、私はそういうふうな意味で申し上げたわけでございます。
それから第二点。社教主事の問題と、それからもう
一つは、市民の形成と申しますか、本当に自分で物事を
地域社会のために考えて行動できるような人間をつくっていくということは大変難しいことであるという御指摘と二点ございました。殊に、後の方はまさに御指摘のとおりであると思っております。多分筋道は二つあって、
一つは
学習活動、それからもう
一つは実際の
活動の経験ということであろうと私は思っております。
それで、
学習の方でございますけれども、これまでの
社会教育における
学習というのは比較的一時的なものが多うございます。例えば、ある
講座は一
年間に四回とか五回とかという
講座をやって勉強したということになっておしまいというようなものがほとんどでございます。これでは何か珍しいテーマについて何か珍しい知識を得るということには役に立つわけですが、本当の市民の形成ということはそれではだめではないかというふうに考えまして、今度何かこの
委員会で御視察になるそうでございますが、世田谷区で少し珍しい例がございます。
これは、私ども
関係いたしまして、世田谷市民
大学というものをこれで六年目になりますがやっております。費用は全部区でやっていただいておりますが、区長さんの御理解も私ど
もと似ておりまして、
社会教育部局に任せたんではこれはうまくいかないぞという認識でございまして、企画部局所管でスタートいたしました。そして現在では文化課所管になっております。
どういうやり方であるかと申しますと、私ども十人ほどで運営
委員会というのをつくりまして、時間割りとかだれに
お願いするとか、そういうことを、そういう意味では区役所はお金はお出しになりますけれども、実際の運営は私どもに一任された形で運営しております。それから
年間三十週、最初スタートいたしましたときは、週に三日間、二つ講義を聞きまして一回ゼミナールに出る、大変厳しい、普通の
平均大学生よりもちょっと厳しいかもしれないプログラムでスタートいたしました。その後やってみますと、住民として
活動している人間が週三日間一日じゅう
学校に行っているというのはつらいという話もございまして少し緩くなっておりますけれども、
内容的には市民の形成ということを考えるような広い意味での社会科学の、私なんかもまじっておりますが、ほぼ超一流といってよろしい顔ぶれでやっております。
特徴は、ゼミナールをやっていることでございまして、私も数年
地域社会ゼミというのを担当いたしましたが、出てこられた方々が自分たちでその後卒業してから
調査をいたしまして報告書をつくりました。ここにちょっと持ってきておりますが、「私たちのみたまちづくり 望まれるさわやかな三角
関係」、三つ丸が書いてございますが、住民と行政と専門のプランナーがある種の三角
関係でお互いに独立性を持ちながら、しかしお互いに協力し合って、どうやって町づくりを進めていくかというようなことについての勉強をいたしまして、こういうささやかでありますが報告もつくっております。こういうこの
程度の
学習活動を積み上げていかないといけないんではないのかということを私どもは感じておるということでございます。
それからもう一点は、やはり耳で学問をするということは、これは私どもが現実がわからないのと同じでございまして、なかなか実際の
活動に結びついていかない。実際の
活動家はどういうことをしているかといえば、例えば区画整理なら区画整理
事業というものが行われる、そして自分の土地が減歩で取られる、それは反対である、反対運動をする。市役所へ出かけていって、あれはけしからぬからやめてくれということを文句言いに行く。市役所の
職員に、あんた方減歩は嫌だから区画整理反対だと言うけれども、下水はなくていいのか、道路は曲がったままで消防自動車も入れなくてこれでよろしいのか、こういうふうに言われる、言い負かされる。それで、言い負かされて帰ってきてどうも悔しい、それにしても土地を取られるのは嫌だ、それじゃ我々も勉強しようじゃないかというので、今度は自分たちで苦労しまして都市計画の専門家を探してきて勉強して、そして今度はまた市役所に言いに行く。
ある例でございますけれども、区画整理をすれば銀座のようなすばらしい町にあなたたちの
地域はなりますよという
説明に対して、私たちは銀座のような町に住みたくないんだ、住宅地というのはもっと道が曲がりくねっていたりした方がかえっていいんじゃないか、そうすればダンプやトラックが余り通らなくてかえっていいんじゃないか、外国にはこういう例もあるじゃないか、こういうような勉強をいたしまして市役所の
職員と渡り合うような力を住民が持つようになる。市役所の方でも、言うことはもっともなところもある、それじゃ自分たちの計画も変えようじゃないか。こういうような、実際の事柄を通して
学習し
活動していくということが、多分初めて市民というものをつくり出すと申しますか、人間の物の考え方、行動の仕方を変えていくというきっかけになるように思っております。
そういう意味では、第二点と申しますか、先生御指摘の
社会教育主事のあり方ということに関して私申し上げたい点がございますので、お答えを少し超えるのかもしれませんが申し上げたいわけです。
こういうようなことを考えますと、住民がコミュニティについて関心を持ち
活動をし立派な人になっていくという過程に貢献しているのは、実は
社会教育の
指導者だけではないわけでございまし
て、あなた方は下水がなくていいのかと言って渡り合っている区画整理の
職員も、またその人の
人間形成に非常に貢献をしているはずでございます。残念なことに、区画整理なら区画整理の担当
職員は、結果として市民の
向上に貢献しているわけでありますけれども、計画的にそれをやるという発想が全くないわけですね。自分たちは市民に町づくりについて考えてもらうんだという発想なしに、何となく反対運動なんか起こされずに早くさっさと
事業をやった方がいい担当
職員であるというふうな認識になってしまいますので、できるだけ事なかれでやってしまうということになります。
そういう意味で、私が願っておりましてこういう機会ですから先生方にお考えいただきたいと思っておりますのは、コミュニティ主事あるいは住民
活動主事何でもよろしいんでございますが、そういうコミュニティという視点で住民のことを考えるような専門職の
養成ということをお考えいただけないかというふうに私は考えております。
実際にいるではないかということがあると思います。御指摘の社教主事もそうでございますし、
公民館主事もおりますし、それからケースワーカーとか福祉
関係のさまざまな
職員もおります。いろんな分野の
専門職員がおるわけでございますけれども、この
専門職員がいわばそういう総合的な視野に欠けておる。
社教主事の場合でございますと、どうしても社教主事の出身は
学校の先生出身の方が多いわけでございます。私どももそうでございますけれども、どうしても人に説教したくなる癖が非常に強過ぎるわけで、最近の住民からはどっちかというと敬遠されているわけですね。これからの
学習活動というのは、多分私はテニスが上手だからあなたに教えてあげましょう、そのかわり何か編み物についてあなた教えてくださいといったような、どっちが先生でどっちが生徒なのかしょっちゅう入れかわるような
学習活動というのが非常に大事であると私は思いますが、どうも現在の専門職としての社教主事は、全部が全部そうではもちろんございませんが、教えてやる主義が強くて、いわゆる優等生タイプの住民しかついてこない、こういうようなことになっております。多分カルチャーセンターのようなものが盛んになる半分の理由はそこにあろうかと思っております。
それはそれで
役割があると思いますけれども、現在の
社会教育活動はそういう意味ではどうしてもかたい優等生タイプにしかならない。もう少し広い視野が欲しいということを感じますし、それから福祉
関係の
職員は福祉
関係の
職員で、専ら生活保護であったり何であったりということの手当てにだけ動いておりまして、いわばその人たちの
向上心を育てるとか、そういうような関心が比較的弱いというふうに思います。
そういう意味で、現在でございますと、以前は市役所へ行けば五時にはみんな帰ってしまって、五時以後に住民と接触しているのは社教主事ぐらいでございました。最近ではさまざまな分野の
職員が住民と接触していろんな仕事をしておりますが、その人たちが総合的にある社会的な技術と申しますか、住民の関心を育てたり、すぐれたリーダーシップを引き出したりするというのにはどうしたらいいのかとか、
地域社会というものはどうあるべきなのかといったような視点が残念ながら各
専門職員に欠けているように思います。
それから、私が申し上げましたコミュニティ主事か住民
活動主事、何でもよろしいというふうに申し上げたのは、いわば
小学校の先生が
小学校の先生として何でもやれるけれども、同時に自分は専門はといえば算数であるとかいろいろあるわけでありますが、それと同じように、広い意味で住民と接触して住民の考え方を変えたりそれを引き出したりしていく、そういう資質を持った
専門職員というのはたくさんいて、その中に自分はたまたまケースワーカーとして福祉の分野を担当しているとか、自分はたまたま
社会教育分野のことを主にやっている、こういうような
職員の
制度ができてきたならばすばらしいのではないかというふうに考えております。
以上でございます。