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伊藤(昌)
委員 時間がありませんが、めったにこういう機会はないから全部
お話しします。
次に、体罰。体罰は一般的に望ましいものではありません。しかし、いかなる場合でもいけないというものではありません。なぜならば、今は学校が悪過ぎる。私が先生だったら体罰はしない。教育というものは言ってわからせるのでなくて、行なって、やってみせてわからせる。ところが、今の先生たちにそれを言ったって無理です。行なって、やってみせてわからせる。怠ける考え方で学校を管理されてしまっているような学校現場で、教育というものは言ってわからせるものでなくて、先生
自身が模範となるべき行為をとって、行なって、やってみせてわからせるなんて言ったって、なかなかそれは無理だ。
家庭教育だって乱れておるし。
そこで、まず感情の体罰はいけない。教える先生が感情を出してそして体罰するなんということは最もいけない。しかし、戒めの体罰というものはいつの世でも必要であります。特に、今の時代は怒りの体罰というものがあるのです。これは教育経験の深いプロの教育家がおっしゃったことを私はなるほどなと思って聞いた
内容であります。戒めの体罰は教育上の効果を考えて行う。怒りの体罰、これは実例を申し上げます。幾らでもあるんだ。
ホームルーム、学活—学活というのは反省会、その時間に、いつも授業の邪魔をしてくる男の生徒が教室に入ってきたので、女の先生が注意すると、先生に向かってスリッパを投げてきて、かつ教師の顔を生徒の前で平手でたたいた。生徒の前で、よその不良少年が入ってきて、女の先生のほっぺたをたたいた。女の先生は悔しがった。本当ならそのとき、教師たる者は怒りをもってその暴力生徒を殴りつけなきゃいかぬ。これは愛のむちじゃない、怒りのむちだ。その体罰は決して愛のむちであってはならない、怒りのむちでなければなりません。
相手は無頼といえ
ども恥じるような行為をしてきたのだから、そんなのは学生じゃない。いじめの原因は教師の体罰にありなどと間違ったことをこの
報告書に書いてあるけれ
ども、とんでもないことであります。こういうことがあるんだ。一口に体罰はいけないなんというような今の学校教育法もおかしい。
今日の社会では教育制度こそ完備に近いが、反面、「得がたい時期」に心身を鍛えるとか、修業に努めるとかの機関に類するものは皆無にひとしい。
そうした面ではまさに野放しに近いのである。しかもこの野放しの状態は確実に甘えなるものに結びついていくのだ。野放しだから甘えに結びついていく。
悪いことをしても誰にも叱られず、どこへ行っても食いはぐれの
心配なし。……ということであれば、安逸を貧る。
これは当たり前。
昔の大人達は人間が「易き」につきやすいことをよく知っていた。だから「他人の飯を食わせる」とか、「可愛い子には旅をさせる」とかで、人間づくりをしてきた。そこにはまさしく大人としての知恵と本物の愛情があったのである。だからこういう教訓が出るのであります。
現下の校内暴力に思いを戻すとき、「体罰」そのものを少なくとも頭から否定してしまうわけにはいくまいと私は考えるのである。
こうした風潮の元凶の
一つは、学校教育法第十一条にある。「生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」体罰条項とも言えるこの第十一条には形影相伴うように、
法務省見解という奇妙な代物がついてまわる。この
法務省見解こそ、戦後三十余年をへて現在まで延々と教師たちを金縛りにし、無責任体制へ否応なく押し流している根源なのである。
それは
昭和二十三年、文部省から
法務省に対して「学校教育法第十一条に示す子供に対しての懲戒の中でどのような行為が体罰になるのか」という質問に対して
法務省の回答は、
「体罰とは懲戒の
内容が身体的性質のものをいい、」「身体に対する直接の侵害を
内容とするもの、さらには被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒はこれに該当する。〈たとえば、端坐、直立の姿勢、居残り、疲労、空腹など〉」
これは懲戒だというのだ。
しかし、実際にある特定の行為を、それが体罰に含まれるかどうかを判断することはむずかしい。たとえば同じ時間立たせるにしても教室内と炎天下、又は寒空の下の校庭とでは違うし、何よりも個々の子
どもの体力の違い、健康の条件に留意して判断しなくてはならないからである。従って肉体的苦痛という場合には、個々の子
どもの持つ発達条件や健康条件など、さまざまな条件をひっくるめて考えなければならない。
それでは体罰はいっさいいけないのかということで文部省が
法務省に質問をしたところが、
「授業中学習を怠り、また喧嘩その他、ほかの児童生徒の妨げになるような行為をした生徒を、或る時間内教室外に退去させ、または椅子から起立させておくことは許されるのか」という
内容である。
これに対しての
法務省の見解は「児童生徒を教室外に退去せしめる行為については、遅刻した生徒に対する懲戒としてある時間内、この者を教室内に入らせないと同様。懲戒の手段としてかかる
方法をとることは許されないと解すべきである。ただし生徒が喧嘩その他の行為によりほかの児童生徒の学習を妨げるような場合、ほかの
方法によってこれを制止しえない時には、懲戒の意味においてではなく、」
これはおかしいね。
「懲戒の意味においてではなく、教室の秩序を維持し、ほかの一般の児童生徒の学習上の妨害を排除する意味において、生徒を教室外に退去せしめることは許される」というものであった。
子
どもへの体罰として教室外に退去させることは、教室の秩序を維持出来ない場合に許され、
「退去させでもよろしい」が、それは「懲戒」の意味ではないのだ。
法務大臣、室外退去は懲戒であり体罰ですよ。室外退去というものは懲戒でもなきゃ体罰でもないと。
この回答文を作成したお役人が幾晩かかってこれを作りあげたか、私の知るところではないが、皮肉ではなく、解ったような解らないような、そういうたぐいの文章の
一つであることだけは確かである。
しかもこれを、最終的にそっくり戴く学校現場としては頭をひねらざるを得ない。
第一、「他の
方法で制止しえない」という他の
方法とは何をさしているのであろうか。
静かにさとすことか、それとも大声で叱りつけることか、取っ組み合いをしている場合、小学生ならいざしらず中学生の場合に、声で止めるだけでなく両者の間に飛び込んで突き離すことだって考えられるわけだが、たまたま強く突き離したことによって子
どもが机の角に当って、仮に負傷でもしたら、それは体罰になるのかならないのか、さらには教室の「維持」ができる、できないの区切りの判別はどこでどうつけるのかなどなど、「
方法」の問題だけでなく、すでにそこには、体罰そのものに直接絡んでく
る問題があるのだ。
つまり教室外に連れ出す前にそういう事柄が出てくるのである。
ところがその辺には全く触れておらず、「他の
方法で制止しえない場合」などという至極曖昧な表現に終っている。
もっとも、喧嘩している生徒の間へ割って入るだけの勇気ある教師がいるかどうか、むしろそちらの方が気になる昨今ではあるが、それにしても「教室外」へ退去させるのが「懲戒の意味であってはならない」……とは一体どういうことであろう。
「お前を罰しているわけではないよ、喧嘩だって悪くはないんだ、だけど教室の維持が保てないからな」……だから暫く廊下に立っているや……ということになると思うのだが、それで教育と言えますか。
当時の
法務省のお役人も三十余年後に、まさか今日みるが如き校内暴力という逆様現象が頻発し瀰漫するとは神ならぬ身の考え及ばなかったのであろうが、それにしても悠長にして且つ、判断のしにくいこの「見解」は、まさにお役人的でみ
ごとである。
たとえば教師に対して、きわめて不遜な態度、反抗的な態度を示した、しかもその
内容は、教育という
立場からみて他の生徒への影響も大きい。
生徒の大勢おるところで、ある不良の生徒が先生に対してひどい反抗的な態度をとった。
教育という
立場からみて他の生徒への影響も大きい。教える者と教わる者の
立場の維持が不可能、というそうした場合の懲戒については何もないのである。先生はどうしていいかわからぬです。生徒にばかにされるだけだ。
要するに教師側の
立場にたって考えられているものは全くないのである。これはきわめて重大なことである。いいですか、
法務省それから法務大臣。
いわゆる教育学的発想ではなく、あくまでも法的発想なのである。法的発想で物を考えて回答するからこんなものができてしまう。子供をよくするということが
目的なんですから、教育的発想で
法務省も考えていただかなければならないと思います。
昭和二十三年の
法務省の見解なるものが、逆様現象の続発の時代に合致しようがしまいが、学教法十一条の解釈の只
一つの拠所としていまだに厳存しているのである。
父母の中には、それを知ってか知らないでか学校側が少しでも厳しい態度を示したり、ちょっと体罰を加えたりすると、直ちに教育
委員会に電話したり駈け込んだり、或いは告訴さえするという親が増えているのは事実であろう。
こうした
親たちに共通することは、忖度する事を一切無視し、従って逆様現象の良し悪しなど全然無
関係、ひたすら吾が子への愛を先行させることである。
ゆえに、ただ体罰はいけないと言うだけではなくて、懲戒と体罰を教育的発想で改めて早急に大臣、検討していただかなければならないと思うのです。こういう難しい問題ですから、今すぐお答えというのは無理でありますけれ
ども、ぜひこれを慎重に考えていただきまして、可及的速かにこういう問題について教育的発想、見地から、本当に子供のためになる教育、正しい先生が本当の教育のできるような、そういうものをひとつ早く検討してつくり上げていただきたいのであります。学校の先生も人間であります。
戒めの軽いゲンコツやビンタの
一つぐらいで、その都度教委などへ駈け込みされたのではバカらしくなるのは当然というもの、意気沮喪し終には触らぬ神に崇りなしで事なかれ主義となる。
しかし、そうした覇気のない、頼り甲斐のない教師は、一般の子供たちからさえ信頼を失っていくのはこれもまた当然で、いわば悪循環を作り出しているのではあるまいか。
子供が、教師に対して暴力を振ってもお
役所からは何
一つお吃りはない。逆に教師が子供に対して一回でも体罰を加えると直ちに暴力教師として問題にされる。
文部省も教委も先にあげた
法務省見解だけを後生大事にし、ひたすら「体罰は不可」の念仏一途で教師側を責めるのみ。従来のこうした
事例が——一般の子供たちの目にどう映り、その心にどのような影響を与えているか——についての配慮はまるでみられない。
考慮していると思えるのは教師に暴力を振った子供に対するものばかり、一体どうなっているのかと問いたくさえなるではないか。
教育は対等の
立場では成立しないはず、従って教師が教師としての誇りを捨てたら既にそこには教育の存在はない。
教師は
神様ではないのである。どこの
世界に、教える
立場の教師が教わる側の子供に殴られて黙っているという法があろうか。
これらの事は、教頭四年、校長十二年、計十六年の年月を、文字通り汗と泥んこになりながら学校経営をしてきた私の経験からもはっきり言えるのである。また、「通りやんせ」と「ストップ」のけじめをはっきりさせながら、ユーモアを忘れず、垂範を忘れずの指導を、日常の中で徹底していくところには、暴力の芽は育ちにぐいと私は確信している。
私だって、昔の先生を思い出すに、ユーモアがあって、そして私が間違ったことをしたらぴしっとしかってくださって、そしてまた夏は夏で海へ連れていってくださったりアルプスヘ連れていってくださったり、そういう先生は一生忘れることができない。学校を卒業して何年たっても先生、先生と慕う。それが弟子であり、弟子に慕われる、これが先生の喜びである。体罰を受けたって私はそういう思いを今も持っております。体罰によって受けた教訓を忘れがたく思っている
人たちも、私のように少なくはないと思います。
校内暴力がこれ程に激化し、その非行は「殺人以外の悪なら何でもある」〈日教組五十五年・
東京大会における分科会
報告〉という凄まじい事態にまで進展しているのに、体罰条項に誰も目を向けようとしないのはなぜなのか。体罰是非論だけでなく、「法的」な問題、つまり三十数年前のままでよいのかどうかについても、この際この時期に徹底した検討が必要ではないかと、私はそれを言いたいのである。文部省はもっぱら「禁止一点ばり」の通達に依存し
今度の都教委だってそうだ。それから臨教審だってそうだ。一体臨教審は何をやっているんだ。日教組にはメスを入れない。私が昨年の予算
委員会で、今のでたらめな学習指導要領は永井文部大臣が日教組型の学習指導要領につくりかえちゃった、指導要領がでたらめだから今のように教科書がでたらめになっちゃう、指導要領というものは大臣の権限だけでできるのだから本当の指導要領をつくってくださいと言ったってつくらない。だから臨教審にそれを早くやってくださいと言ったってちっともやろうとしない。教科書も直してくださいと言ったって直そうとしない。資質のある先生をつくる教員養成制度を検討してくださいと言ったってこれもやりやしない。だれに遠慮をして日教組は教育荒廃にメスを入れようとしないのだ。そんな姿勢で教育の改革なんかできるわけがないじゃありませんか。この時期に、
文部省はもっぱら「禁止一点張り」の通達に依存し「厳然とのぞめ」式の指示をし、教委は教委で腰が定まらず、一方、日教組の
委員長は一教師よ毅然たれ——とカッコよく獅子吼してそれで終り。そこに共通して窺えるのは現場の実態から遠く離れた空々しさだけである。御
自分の子供にも自主性尊重で、子供が親をばかにする、こんなやり方で一体よろしいのでしょうか。幼児のころから子供に親がばかにされて自主性尊重。自主性尊重なんか本当に親がやっているかどうか。そうじゃない。まともな
家庭ならば厳しくすべきところは厳しくしているはずだ。なぜ学校だけが厳しくしてはいかぬのだ。
評論家ならしらず、仮にも教育行政の
立場に在る人間というのは、難波しかけた船の乗組員に向かって「波の静まるまで我慢して漂流していろ」と言うにひとしい無責任で冷酷な発言は厳に慎まねばなるまいと思う。今少し現場を直視し、真面目教師達の
立場に立っての行政を望みたいのである。
そこで、もう時間がありませんからお尋ねいたしますが、校則の一部はさっきおっしゃっておりましたね。室外退去というものは懲戒であって、これもやはり体罰である。これはだれが考えたってそうだと思う。これは
局長、答えてみてください。それから懲戒と体罰を教育的発想で改めて検討してもらえるものかどうか、そして検討していただけたら文書でこちらへいただきたい。
それからいじめの元凶、これはあの俗悪なテレビ。ああいうものを子供が見たら、非常に間違った欲望というものが際限なく出てくるのは当たり前です。
もう
一つ、ここに「悪の芽は早く摘むべし」という、これは朗読しようと思いましたが、時間がないからできませんけれ
ども、これをごらんになればそれはひどいものです。小学校の女の子たちがいじめに参加して、そして参加することがストレス解消だと言う。そういうことを言っておりますよ。
俗悪テレビに対しては、文部省もいじめのことを検討されたときには、今のマスコミの間違いについては後書きかなにかで、番外でちょこっと言っているだけで本論に入ってない。何で政府がマスコミに遠慮するのですか。最も間違っている、今の俗悪番組というものは。それは正すように放送局に物を申していただかぬと困るのです。それと
家庭のしつけ。それと今申し上げたように学校の中がいかにも悪過ぎる。そして正しい先生がいらっしゃっても正しい教育のできないような間違った学校現場になってしまっている。この三つがいじめの元凶です。私はそう思いますが、最後に、時間がありませんから大臣、今の事柄についてお答えをいただければありがたいと思います。