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参考人(杉江栄一君) 杉江でございます。
私は、大変時間も限られておりますので、ほぼ三つほどの問題について、総論的になるかもしれませんけれども申し上げたいと思います。
三つの問題といいますのは、第一は、一番
最初に
桃井さんがおっしゃられた核の怖さを
世界の人々が知らないのではないかという問題であります。第二番目に、皆さんが触れられた
軍備管理と
軍縮についての問題、
最後に
検証の問題について触れてみたいと思います。
まず、核の怖さの問題でありますが、核の怖さを
世界の人々が本当に知らないのではないかという御指摘については、私も本当にそうだと思います。そのことは逆に言えば、核の怖さを知らせることが今後
軍縮を達成していく上で大変重要な問題だということになると思います。この場合の核の怖さというのは、言うまでもなく、もし核
戦争になれば人類が滅亡するのではないかというその怖さであります。そして、その
意味での怖さを一番
最初に警告を発したのは、今から三十年前になりますけれども、一九五五年、ラッセル・アインシュタイン宣言ではなかったかと思います。
このラッセル・アインシュタイン宣言、ラッセルはイギリスの著名な哲学者であり、それからアインシュタインは
アメリカの原爆製造計画であるマンハッタン計画を指導なさった、手紙をルーズベルト大統領に出した、その人でありまして、この二人が、
日本では湯川秀樹博士も署名をいたしまして、一九五五年に声明を出しました。この声明の中で、人類は
戦争を廃止するのか、それとも絶滅かという、そういう選択を迫られているのだということを指摘いたしました。このラッセル・アインシュタイン宣言というのは、実は五〇年代の初めに水素爆弾が開発されたということを背景にして出されたものであります。つまり、水爆の開発はこういう問題を引き起こしたというふうにこの著名な科学者たちは認識をしたわけです。
ラッセル・アインシュタイン宣言のほぼ五年前、ちょうど朝鮮
戦争の始まる直前でありますけれども、ストックホルム・アピールというものが出されました。このストックホルム・アピールでは、原子爆弾を、原子
兵器を
最初に使った国の政府を人類に対する犯罪を犯したものとみなすというふうに書かれております。このストックホルム・アピールでは、必ずしも核
戦争になれば人類が滅亡するのだという認識が果たして厳しくあったかどうかという点についてはこの文面からははっきりいたしません。まだ水素爆弾が開発される、水爆実験の以前であって、
核兵器が極めて巨大な破壊力であるという認識はあったにしても、それが人類の生存そのものに結びつくかという点では必ずしも明確な認識はなかったのではないかというふうに私は考えておりますが、ラッセル・アインシュタイン宣言によってそのことがはっきりと主張されるようになりました。
ところが、重大なことは、このラッセル・アインシュタイン宣言の
段階におきましては、まだ核
戦争の影響についての研究は全くなされていなかったということであります。いわば科学者が、こうまで言うと少し言い過ぎかもしれませんけれども、その直感によって人類の
危機を感じ取り、それがラッセル・アインシュタイン宣言になったというふうにあるいは言えるのかもしれません。したがって、核
戦争の怖さについての認識というのは必ずしも
世界の民衆の間に行き渡ったわけではないわけであります。ところが、ごく最近になりまして、改めて核
戦争の怖さ、核
戦争による人類滅亡の
危機ということが問題になってまいりました。
ラッセル・アインシュタイン宣言から三十年を経た今日、核
戦争の問題についての幾つかの研究が発表されております。その際私たちが注意しておきたいと思うことは、六〇年代、七〇年代を通じまして
核兵器の影響、エフェクトオブニュークリアウエポンズという研究はある程度進んできたのですが、最近では
核兵器の影響ではなくて核
戦争の影響、つまりエフェクトオブニュークリアウオーという、そういう問題意識が大変強くなってきたということであります。つまり、
核兵器の影響という限りは、これは例えば一発の何メガトンの核爆弾がどこで破裂した場合にどれくらいの破壊力が出るのか、どれくらいの熱量が出るのか、あるいはどれくらいの放射線量が出るのかということについての研究は、これは広島、長崎以来ある程度行われてきたわけであります。ところが、そうではなくて、
核兵器が実際に
戦争で使われた場合、もっともこれは
戦争で使われた場合というのはいろいろな使い方があります。したがって、さまざまな核
戦争のシナリオを想定して、そういう
戦争で使われた場合にどのような影響が出るのかという、そこに単に核爆弾の影響ではなくて、
核兵器が
戦争に
現実に使われた場合の影響というふうに問題意識が最近では非常に変わってきているわけであります。とりわけ、それは八〇年代に入りましてからその研究が進んでいるように思います。
若干御紹介をしておきますと、スウェーデンの王立科学アカデミーの国際環境問題専門誌である「アンビオ」が一九八二年に発表いたしました研究があります。これはここにいらっしゃる高榎さんがお訳しになって、「一九八五年六月
世界核
戦争が起ったら」という邦訳名で出ております。それから一九八三年にワシントンでザワールドアフターニュークリアウオー、つまり核
戦争後の
世界という
会議が開かれました。実はお手元にお配りしてあると思いますが、タップス、TTAPS、ニュークリアウインター、グローバルコンシクエンセスオブマルティプルニュークリアエクスプロージョン、「
核爆発の
世界に及ぼす影響」という資料をつくってまいりましたけれども、この核の冬、ニュークリアウインターという
言葉がはやり出したのはこの研究が
一つのきっかけになっているわけでありますし、先ほど御紹介しました「アンビオ」の研究も全く違ったところで行われながらほぼ同じ結論を実は出しているわけであります。
この核の冬といわれるのは大変象徴的な問題でありまして、核
戦争が起こった場合に、何も起こるのは核の冬だけではありません。比較的古くから、早くからわかっておったことは、恐らく高空で
核爆発が起こればオゾン層が破壊をされる。現在私たちの健康を守っておるオゾン層が破壊されるのではないかということは、比較的早くから
議論をされております。ところが、それ以上の研究はなかなか進んでいなかったのであります。その表をごらんになってわかりますように、さまざまなケースを想定したシナリオのもとで、都市攻撃の場合あるいは対兵力戦略に基づく
軍事基地や核
ミサイル基地の攻撃の場合であるとか、それから使用される
核兵器の質や量というものもそれぞれ
違うわけでありますから、それぞれの場合を想定して、その場合に大量の火災発生、それによって生ずるダストも舞い上がって、そして成層圏に達し太陽光線を遮って地球表面上の温度を下げる、その下げる度合い、その期間等々、さまざまなシミュレーションを使ってこういうような分析がされておるわけであります。
かつて、五五年のラッセル・アインシュタイン宣言の時代にはまだ具体的な
一つのイメージを持って語られることのなかった人類滅亡の
危機というのが、もちろんこれは
一つの予測、想定ではありますけれども、かなりそういう具体的なイメージを持って今日語られるようになってきたということであります。もちろん核
戦争によってどんな影響が起こるかということはニュークリアウインターだけに限りません。さまざまな生態学的な影響、あるいは大量核攻撃によって生ずるであろう
人間の社会的活動に対するさまざまな影響、さらに放射線が引き起こすであろう遺伝的な影響などさまざまな問題が今日
議論されております。そして「アンビオ」あるいはTTAPS、申しおくれましたが、TTAPSというのは、実は一九八三年のワシントンの
会議に参加をして共通の
報告書を出した五人の研究者の頭文字をとったのがこのTTAPSであります。
そのほかに、同じこの
会議に医学の方から共通報告が出ておりますし、それから八三年には
世界保健機構、WHOから核
戦争が保健とサービスに及ぼす影響という
報告書が出ております。それからさらに一九八二年には、国連の事務総長報告、
核兵器の包括的研究の中でもやはり核
戦争が引き起こす影響についてのかなり詳しい報告がございます。それからさらに、先ほど高榎さんがお触れになったと思いますが、
アメリカの上院の
技術評価局が作成いたしました
報告書、これも岩波書店から「米ソ核
戦争が起ったら」というタイトルで邦訳が出ております。もちろんこれは
一つの推定、想定でありますけれども、そういった研究が重ねられてきているわけであります。そのことを通して核
戦争による人類滅亡の
危機ということを、今日私たちはある程度の具体的なイメージを持って語り得る。これは喜んで語るわけでは決してありませんけれども、語り得るという時代に入ってきているということであります。
一九七八年に開かれました国連の
軍縮特別総会の最終文書はその中で、人類は前例のない自滅の脅威に直面しているというふうに述べております。このことは決して誇張ではなくて、今日私たちが直面している
危機の本当の
意味であるというふうに考えてよかろうかと思います。したがって、私たちは
軍縮の問題を考える場合に、核
戦争をいかにして阻止し、そして核
軍縮をいかにして達成するかということが現在における
軍縮の恐らく最大重要な課題であるというふうに考えるわけです。そのことを前提とした上で、第二番目の
軍備管理と
軍縮の問題について触れてみたいと思います。この点につきましては、既に三人の
方々がそれぞれの
立場からお話しになりました。重複はなるべく避けたいと思います。
高榎さんの方から、
軍縮と
軍備管理というものはしばしば混同をされている、それはしかし区別すべきだというお話がありましたが、私もその点は実は同感でありまして、
軍縮という
概念と
軍備管理、アームスコントロールという
概念とは区別をすべきであるというふうに考えます。ただ、実際の政治生活の中ではしばしばこれは混同されております。例えば、先ほどどなたかお触れになりました
アメリカの
軍備管理軍縮局というところがありますが、これは
軍縮を
軍備管理の中に含めて考えているようでありますし、それを混同してそういう名称がつけられている。つまり、
軍縮局でもなければ
軍備管理局でもないという、そういう混乱が実は見られるわけであります。
そして、もしこの
軍縮と
軍備管理を区別すべきだとするならば、
軍備管理というのは結局は
軍備の過程の管理であって、主要敵国との間の
軍事バランスを保ち、そして国際的な
軍事環境の不安定化を避けようとする方策である。したがって、その
軍備管理の関心は、
危機が
戦争に発展することを防ぐということ、もし
戦争が起こった場合、紛争が発生した場合には、その人的あるいは物的な損害を減らすというところに
軍備管理のねらいがあるのだというふうにしばしば言われております。そして、三人の方が指摘されましたように、第二次
世界大戦後のこれまで締結されてきました
条約、これは実は約九つの多数国間
条約、
部分的核実験
禁止条約や
核兵器不拡散
条約を含めて約九つの多数国間
条約と、それから約十二の、これは主として米ソ間でありますけれども、二国間
条約、
協定があります。これらの
条約、
協定はしばしば形式的には
部分的
措置というもの、あるいは国連用語では副次的
措置、コラテラルメジャースというふうに呼ばれ、その内容から見ればこれは
軍備管理だというふうに言われているわけであります。
さてそこで、
軍備管理の
意味は先ほど申したように、
軍備過程の管理であっても、私は特に重視しなければならないのは、核時代における
軍備管理とは何か、あるいは核
軍備管理とは何かというふうに言ってよろしいかと思います。
その問題であります。核
軍備管理というような
言葉を使ったわけですけれども、このことを特に強調したいのは、単に
軍備の過程についての管理というだけではなくして、核
軍備管理という以上は、実はその背後にある核戦略というものを前提にして、そして核戦略の上に核戦略の安定化を図る方策が核
軍備管理であるというふうに考えると
事態がはっきりするのではないかというふうに思うわけであります。最近ハーバード大学の核グループが書きました本が
日本でも「
核兵器との共存」という名前で邦訳が出ておりますけれども、言ってみれば核
軍備管理というのは
核兵器とともに生きる、そういう方策であるというふうに考えてよろしいかと思います。
ですから、これまで締結を見た多くの
条約、
協定というのは
核兵器の存在を前提とし、そして米ソが、同時にその米ソの同盟
諸国が
核兵器を持って対峙している、そういう状況を前提とし、かつしかも、これは
アメリカの場合に公然と採用されていることでありますけれども、核抑止戦略というものを前提とする。この核抑止戦略を損なわないということが前提となって
条約、
協定がつくられてくるということになります。これが場合によっては、先ほど八木澤さんが指摘されましたように、米ソ不戦の体制をつくると同時に、米ソによる、あるいは米ソの同盟
諸国による
世界支配と申しますか、そういう体制の維持ということと結びつきながら発展をしてまいりました。
さてそこで、理論的に大変重要なことは、もし核
軍備管理というものが核抑止というものを前提とするならば、それは抑止戦略が変化する、あるいは変容するというふうに申してもよろしいかと思いますが、その抑止戦略が変容するにつれて実は核
軍備管理の中身も変化をしてくるであろうということであります。したがって、私は
軍備管理条約、諸
協定の問題を考える場合に、どうしてもその背後にある核抑止戦略の問題を抜きにして、あるいはこれは無視して考えることはできないというふうに考えております。
そこで、時間が限られておりますから極めて大まかな
議論になろうかと思いますけれども、核抑止戦略というのは、もしこれを整備するとするならば
二つの種類といいますか、
二つの側面があると思います。
一つは、報復による抑止という
考え方であります。つまり相手が
核兵器であれあるいは非核手段であれ、攻撃を加えてきた場合に核によって報復をする、その報復の威嚇によって相手側の攻撃を抑止するという
考え方であります。もう
一つは、報復というよりはむしろ核
戦争を遂行する
能力をつくり上げる、あるいは最近特に言われておりますのは戦勝戦略と呼ばれるように、
現実に
核兵器を使い、そして核
戦争を遂行する体制をつくることによって相手の攻撃を抑止しよう、攻撃による抑止ということは実は不正確なのでありますけれども、そういうことであります。もともと抑止と
いう
考え方は本来、報復による抑止というのが基本だというふうにされておりますが、実際には抑止論というのは報復による抑止という理論とそれから
戦争遂行理論、これがはっきりいいますと戦勝戦略ということになります。
例えば、もう少しそこを補足して説明いたしますと、しばしば限定核
戦争論ということが言われます。この限定核
戦争論という
考え方は何も八〇年代になってからあらわれたのではなくて、六〇年代、例えばダレスの「
核兵器と
外交政策」という書物の中で既にあらわれておりますし、五〇年代からこの限定核
戦争論という
考え方はある。最近ではそれが極めて具体的といいますか、
現実味を帯びているというところに
特徴があると思いますが、限定核
戦争論という
考え方は、つまり、相手がそれ以上屈服しなければエスカレートさせるぞという威嚇をかけることによってエスカレーションを抑えようという理屈であります。この理屈は、結局はエスカレーションを繰り返して全面核
戦争になるのではないかという批判がしばしば出されるわけですが、そういう限定核
戦争論のような
考え方は
現実には
核兵器を使用するということによって、つまり、核
戦争遂行戦略を正面に出すことによっていわば核
戦争のエスカレーションを抑止していくということになっております。いずれにいたしましても核抑止戦略というのは報復による抑止から
戦争遂行による抑止、あるいは戦勝戦略という幅を常に往復しているのではないかというふうに私は考えております。
このように考えますと、
戦争遂行戦略といったようなものが抑止の中で非常に重要な位置を占めてくるようになりますと、例えばこういうことになります。
つまり、これは何も米ソ全面核
戦争の場合であれ、あるいは限定核
戦争の場合であれ、相手が核攻撃をかけるというそういう状況が明らかになった場合、あるいはレーダー網であるとかあるいは人工衡星によるセンサーであるとかいうものから
核兵器の発射が目前に迫っているというふうに判断された場合には直ちにボタンを押す、これがいわゆるローンチ・オン・ウォーニング、つまり警報による発射というふうに言われる。あるいはローンチ・アンダー・アタック、つまり攻撃下の発射、相手が発射をすれば直ちにその弾頭が味方のところへ着くまでにこちらも発射をするという体制をつくるというようなことになります。つまり、核抑止戦略が報復による抑止から
戦争遂行戦略に移行するにつれて、実は核
戦争の
危機というものはさまざまな形で具体化され、
危機が増すというふうに考えざるを得ないのではないかということであります。
さて、そうはいいましても、私は核抑止論というのが報復による抑止から
戦争遂行戦略へというふうに変わってきたというふうに言っているのではないのでありまして、核抑止論の中には
最初から
戦争遂行という
考え方が含まれていたというふうに思います。したがって、場合によっては報復による抑止が強調される場合がありますし、場合によっては戦勝戦略が強調される場合もありますが、最近の傾向は次第に核
戦争遂行理論の方へ傾きつつあるということではないかと思います。
そこで、そのことについて、ちょっとそれるかもしれませんが、一言つけ加えておきますと、先ほど何人かの方がお触れになりました例の戦略
防衛構想、SDIであります。
このSDIについてここで詳しく申し上げることはできませんが、ことしの冬に、フォーリン・アフェアーズの冬の号に、ケナンとマクナマラとバンディとスミス、この四人が論文を書いております。マクナマラは言うまでもなくケネディ時代の国防長官でありますし、ケナンは戦後駐ソ
大使をやった人でありまして、この四人は三年ほど前にやはりフォーリン・アフェアーズに、先ほど高榎さんがたしかお触れになったと思いますが、論文を書きまして、NATOの第一核不使用
政策を採用すべきだ、つまり第一使用
政策を放棄すべきだという
意見を出したので大変有名になりました。この四人がやはりSDIを批判する論文を書いております。
このSDIを批判する論文の基調になっている
考え方は何かといいますと、もともと抑止というものは報復による抑止が基本であって、したがって、先ほども高榎さんがお触れになったと思いますが、七二年のSALTIのABM制限
条約、これが大事なのだ、これが米ソ間の相互脆弱性、つまり米ソが相互に報復攻撃を受けるということを認めた
条約であって、したがってこれを破ってはいかぬというのが彼らの実は
考え方であります。大統領のSDI計画はまさにこれを破るから危険なのだという、そういう論議を展開してSDIを批判しております。
私はこれを読みまして、非常にぞっとする気持ちになったわけであります。つまり、こういうふうに相互威嚇による抑止という抑止論を基本的に肯定している人々の間からSDIについてそういう危惧が出されているという点であります。今や抑止論は実はそこまで来てしまったのではないかということが大変私にとっては危惧を持つところであります。
そこで、このSDIをそういったような
考え方を生むように至った今日の状況というのは実は核抑止論の本質的な矛盾、欠陥というものが次第に明らかになったその結果であるというふうに私は考えるべきであろうというふうに思います。その点について時間がありませんから細かいことは省略いたします。
そして、ただここでもう一点つけ加えておきたいことは、そうした核抑止論の展開、あるいは核抑止論のしばしばこれは破綻というふうに言われますけれども、そういう核抑止論の予盾の激化というものが、七〇年代、あのデタント期の七〇年代の
技術的な軍拡、例えば弾頭の軽量化であるとか、命中精度の向上であるとか、それに伴ういわゆるMIRV、多弾頭化といったような、あるいは最近問題になっておりますC3Iといったようなそういう
技術的軍拡の動き、前進というものを背景として展開をしてきた。八〇年代に冷戦の復活とか新冷戦とか言われている非常に深刻な状態があるわけですけれども、これはもちろんアフガン問題であるとかポーランド問題とかさまざまな国際的な要因があることは言うまでもありません。しかし、これを
軍備競争という点について見るならば、実は七〇年代のあのデタント期の競争が、
技術的軍拡が直接にこれをもたらしたのではないかというふうに思います。そのことは要約して一言で言ってしまいますと、
技術的軍拡が
軍縮だけではなくて
軍備管理さえも困難にするということになります。そのことは
検証の問題に係っていますが、時間がありませんから、次に
検証の問題に触れたいと思います。
検証の問題については、実は
議論すべき問題が非常にたくさんございます。細かく言っていますと本当に切りがないのでありますが、そこで私は、いわば非常に基本的だと思われる点を
二つだけ申し上げておきたいと思います。
一つは、
検証というものは、ベリフィケーションというものは確かに
軍縮条約協定の場合重要です。
軍縮条約は効果的な
検証を必要とするものであり、もし効果的な
検証がなければだれもこの
軍縮条約を
信頼しないでしょうし、
軍備管理条約であってもそれを
信頼しないでしょうし、それが有効に作用するとは考えられません。そのことについては全く異論がないわけですが、
一つの問題は、そういう
検証は極めて困難ではある、困難ではあるけれども決して克服しがたいような問題ではないという点であります。
軍縮に関する
条約、
協定に沿って
検証はどういうことを
意味しているかというと、その
措置が当事国によって守られているというかなり高度な確信が得られればそれで十分であるということであります。逆に言いますと、しばしば
検証について
議論になりますのは、相手側の違反を取り上げて相手側を非難するための材料にする、
検証規定を相手方の違反を非難するための材料にするということが見られるわけでありますが、
検証は実は違反を防止することが目的であって、違反を告発することが目的ではありませ
ん。そのことを考えるならば、
検証というものは絶対不可能なものだというふうには言えないかと思います。もちろん、しかしそうはいっても、この
検証というものは
条約によって、あるいは
措置によって具体的であります、
方法もそれから目的も違います。したがって、
余り抽象的に
議論していては無
意味になるおそれがあります。
ですから、具体的に考えなければなりませんが、先ほどから何回か話に出ております、例えば包括的な核実験
禁止、特に地下核実験
禁止という問題について申しますと、これについては一九六三年に
部分的
核兵器実験
禁止条約が締結されながら、それから二十年以上もたった今日に至るまで、先ほど詳しく御報告がありましたように、ジュネーブの
委員会から取り上げて米英ソ三国
交渉で
交渉を続けていながら、いまだに実現されていない。最も初歩的な
軍縮の
措置でありますが、しばしば指摘されるのは
検証が困難だということです。しかしながら、これは実は一九八〇年に包括的実験
禁止に関する
国連事務総長報告というものが出ております。この
報告書の中では、
技術的問題はほぼ調べられている、現在残されているのは政治的な意思だけである、政治的決定であるというのがこの
報告書の結論でありますけれども、とにかく地震学的
方法その他の
方法を組み合わせれば相当低い、小規模な地下爆発実験でもほぼ探知できるというのが大体専門家の
意見であります。にもかかわらず……