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佐藤(観)
委員 時間も余りないのですけれ
ども、この吉田清治さんが書いたものをちょっとだけ読ませていただきたいと思います。これは
昭和十八年、今の韓国の光州のあたりでございますけれ
ども、
町の入口で私の組が降りると、二台の護送車は速度を早めて土ぼこりをあげて町の中を北へ直進して行った。私の組の隊員は
山田と大野で、二人とも以前は山口県の大撤炭鉱の労務係だったので、朝鮮人の狩り出しには手慣れていた。
吉田さんは、あえて当時呼んでいた、
日本人が朝鮮半島の方々をべっ視をしたそのままの呼び方でこの文章を書いている。それはあえて彼は言っているわけでありますけれ
ども、
二人はすぐ土塀のなかへはいって行った。若い朝鮮人巡査がはじめての徴用の仕事に緊張して、私の顔を見つめて突っ立っていた。私が目くばせして指示すると、あわてて二人のあとを追った。
私は道路を歩いて町の様子を調べた。秋晴れの日ざしに国民服と将校用乗馬ズボンに長靴はからだが汗ばみ、肩からつった軍用水筒の水をラッパ飲みしながら進むと、道路の両側に古びた朝鮮家屋が建てこんで路地が入り組み、狩り出しには手間どりそうだった。通行人は年寄りや女がまばらで、徴用できそうな男の姿は見当らなかった。どの家も戸口や土塀のかげから老婆や子供がたまって私を見ていた。道路沿いの片側は数軒に一軒は商売をやっていて、軒先の台の上に乾物や雑貨を並べていた。飲食店の前は煮物の異臭がたちこめて、年寄りの主人が出てきて私におじぎをして歯の抜けたしわだらけの顔で卑屈に笑いかけた。私は雑貨屋の前にあった古い椅子にこしかけて隊員の狩り出しを待った。
山田が一人狩り出して道路へ追い立ててきた。白い朝鮮服を着た四十才くらいの男だった。手ぬぐいで鼻血をふきながら顔をひきつらせておびえていた。
山田は男の尻を靴でけって私の前へ突き出して、木剣で肩を押えて道路に坐らせた。「木工品組合の班長だと言って、
態度がおうちゃくでした」
山田はすぐ次の狩り出しに駆けだし、路地裏へ姿が消えると、男が地面に両手をついて秋に哀願をはじめた。「わたし病気です。ろくまく悪いから、徴用行ってもしごとできんです」
男の肩幅は広く胸も厚くがんじょうな体格だった。私が相手にしないと男はうつむいて黙りこんだ。
土塀の中から朝鮮人巡査が一人連れ出してきた。二十才前後の若い男が巡査に腕をつかまれて歩きながら朝鮮語でわめいていた。うしろから大野が木剣を肩にかついで笑いながら見張って来た。若い男は私の前へ来ると礼をして上手な
日本語で言った。「この次の徴用にしてください。父が病気で寝ています。私が綿花の供出をしないと、役所から罰金を取られます」
その男は色白で百姓をやっているようには見えなかった。皮靴なんかはいていて顔付きも商人のようだった。私は大野に命じて二人の男を護送車へ連れて行かせた。
私は朝鮮人巡査をつれて路地へはいって行った。間口の大きな家の前に青竹の束が積んであった。なかへはいると爺と女が竹細工をしていた。この町は木工品と竹製品が特産であった。広い土間に積み上げた竹製品の大きな山は、こんな爺や女だけで作れるはずがなかった。壁にかかっていた衣類を見ても働きざかりの男がいることは見当がついた。私は巡査に男がどこへ行ったか調べると命じた。巡査が尋問をはじめると、爺が大声で何か言いたてた。朝鮮人は年寄りにたいして弱気で、若い巡査は爺から言い負かされている様子だった。私はいらだってきて巡査をどなりつけた。
「徴用から逃がしたりすると、逮捕すると言え」
巡査が声を大きくすると爺は観念したのか、女をふりかえって何か言いつけた。女は私の顔をにらむように見つめて裏口へ走って行った。まもなく女といっしょに三十才くらいの男が帰ってきた。私は巡査にその男を連行しろと命じた。巡査が何か言うと男は巡査に向かって激しい口調でしゃべりだし、二人は大声で口論をはじめた。朝鮮人どうしの話はらちがあかないので、私は木剣を上段に構えて男を威嚇した。女が悲鳴をあげ、巡査が私をさえぎるように男の前に立ちふさがった。男は青ざめてまだ何かしゃべっていた。巡査が男のことばを通訳した。
「徴用に行くから、荷物をつくるまで待ってくださいと言っています」
「荷物はあとで家族に警察へ届けさせる」
巡査は男の肩を軽く押して戸口へ向かわせると、爺と女をふりかえって声をかけた。女は私をにらんで朝鮮語で何か言った。こういう話がずっとあるわけでありまして、山口県から朝鮮半島へ渡って一週間、五日間あるいは何度がこうやって吉田さんは、まあ知事の命令で、当時は労務報国会は知事が会長だったわけでありますから、命令で行ってきたわけであります。
私はこういったのを読みますと、この吉田さん自身に私もお会いをしましたけれ
ども、大変記憶力のいい、しかもいろいろ足で集めた方でございますから、ここに書いてあること自体
一つの創作だとは私は思っておりませんし、またわざわざソウルまで行って、韓国まで行って謝罪をする、これは私は心の問題といえ
どもなかなかできることではないと思うわけであります。
そこで、もう
一つ話を進めて具体的にお伺いをしたいのでありますけれ
ども、今、私の手元に一枚の見取り図があるわけであります。
総理、こういう見取り図があるわけであります。これは皆さんもひとつ見ておいてもらいたいと思います。この白丸、黒丸は、実は
福岡県の嘉穂郡桂川町の麻生炭鉱のかつては一角だったところであります。三年前にこの麻生炭鉱の会社の方から、もちろんその当時は麻生炭鉱ではなくなっていたわけでありますけれ
ども、約二千平米あるわけでありますが、雑種地としてこれは町に寄附をいたしました。それで、ここに公民館があるわけでありますけれ
ども、この公民館は四年前に建てられたのであります。この公民館を建て、そしてこのあたりに児童公園をつくったわけでありますが、そのとき既に白骨化した遺体というのがもうぼろぼろになって出てきていたわけであります。しかし余り注意もされずに、子供たちが頭蓋骨を学校へ持っていって話題になるとかというようなことでその当時は済んでしまったようであります。この見取り図は何かといいますと、実はこの麻生炭鉱が労働組合に対して、当時、三十五年以前はこういうふうに朝鮮人の労働者の遺体を埋めましたという見取り図なんであります。そして三十六年のお彼岸の日に改めて掘り出しまして、そして近くのお寺に埋めたということを労働組合に
説明をしているわけであります。しかし、実はそれはうそでございまして、労働組合にはそういうふうに言いましたけれ
ども、実は実際に掘ってみた。その後二年前に、桜の木をこのところに植える、これは少し山地でございますけれ
ども、約四百坪くらい、こちらが二百坪くらいあるわけでありますが、全部で六百坪くらいでありますが、五本の桜の木を植えるというので、一メートルくらいの穴を掘ったら下から頭蓋骨がどんどん出てくるわけであります。これはまさに穴を掘って死んだ朝鮮人労働者をぽんぽんと投げ捨てたそのままの頭蓋骨がぼろぼろと出てきているわけであります。今これはもうほとんど貝のように白くなって、もちろん原形をとどめるものはほとんどないわけでありますけれ
ども、これは今申しましたように、桂川町の町有地に今はなっているわけであります。
戦後四十年たって、強制労働で連れてこられた方々、何の供養もなくそのままずっと今日までこうやって日を過ごしてきたわけであります。私は何らかの形で、これは
日本人として、
日本政府として供養する、そしてできれば祖国へ帰してあげたい。ただ、どこかわかりませんから、そのことは後にいたしますけれ
ども、何らかの形で吉田さんのこういった活動あるいは在日朝鮮人、大韓民国婦人会の方々、こういった方々の運動というのを、私もいろいろ
行政的な難しさというのがあることはわかりますけれ
ども、何らかの形で、やはり現実にこういったものはまだまだたくさん残っているわけでありますから、
政府としてこういったことに対して何らかの形でお手伝いをする、これは
日本人として当然ではないか。そして本当に日韓なり朝鮮半島の方々との友好を考えるときに、長い間犯した過ちを
日本人として心からわびる
一つの残された手段というのは、この遺骨を早く発掘をし、そして祖国へお返しをすることじゃないか、こう思いますが、
総理、いかがでございますか。