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大谷参考人 大谷でございます。
きょうのテーマであります
生命と
倫理に関する問題におきましては、現在、人工授精や体外受精、さらに選別出産あるいは遺伝子スクリーニングといった
生命の誕生にかかわる問題、それから安楽死とかあるいは
尊厳死、さらに末期
医療といった、いわゆる
生命の終期にかかわる問題等がございます。いずれも重要な課題でありますけれども、全般にわたりますとしり切れトンボになりますので、ただいまの
石井先生と同じように、私もきょうは主として
脳死と
臓器移植に限定してお話をしたいと思います。それ以外の点につきましては、なお質疑のところで、もし必要であればお話をしたいと思います。
そこで、私は、やや重複するところがあると思いますけれども、法律学の見地からまず
脳死問題についてお話をしたいと思います。
法律上の
脳死問題といいますのは、要するに
脳死をもって
人間の
個体の死としてよいか、つまり法律上の人の終期というふうに取り扱ってよいかという問題でございます。ここでは、これを肯定する見解につきまして便宜上
脳死説というふうに呼ぼうと思います。
さて、
脳死というのは、ただいま御説明がありましたように、我々の理解でも要するに
脳機能の全体がもう後戻りをしない、つまり不可逆的に
停止するというふうに定義されていると思います。それは、
人工呼吸器等の
生命維持装置を用いた場合に特にあらわれる症状であること、そして
脳死患者は深い昏睡
状態、それから瞳孔が開いている、それから
自発呼吸がとまっている、さらに急激な
血圧の降下がある、さらに脳波は平たんであるというふうな症状を呈しておって、その後数時間あるいは数日間で
心臓がとまる、こういう点では医学上共通の理解に達しておるといってよいと思います。
従来、法律上の死として考えられてまいりましたのは言うまでもなく
心臓死でございますが、その
判定は
呼吸と脈拍の後戻りしない、つまり
不可逆的停止と、それからただいま触れました瞳孔の散大、こういう三つの兆候を確認する方法で死を
判定してきた、また法律上もこれを認めてきたというふうに言ってよかろうと思いますが、この
判定方法に従いますと、
脳死はもとより法律上の死ではないのでありまして、
生命の回復力を失っているばかりでなく
自発呼吸の
不可逆的停止、それから瞳孔の散大というように、
心臓死における三つの特徴のうち二つまでも備えているという、こういう
脳死につきましても、これを今はとりあえず
生命があるというふうに取り扱っているわけでありますけれども、しかし、こういう
状態を果たして生きている
状態と言えるのか、ここに
脳死を法律上の死とすべきではないかとする
脳死問題のいわば実質があるわけでございます。
しかし、
脳死問題が
論議されるようになりました直接の背景は、もとより
臓器移植にあったことは言うまでもございません。
移植学の
進歩は目覚ましいものがあるわけでありまして、
心臓移植もただいまのお話のように治療として十分可能になったのでありまして、そのためにはいわば新鮮な
臓器といいましょうか、そういうのが必要でありますし、
心臓移植におきましては
脳死患者がいわば不可欠というふうに言ってもよかろうかと思うのでありますが、要するに
脳死説が強調された唯一の、あるいは直接の契機というのは
移植問題にあると言ってよかろうと思うのでございます。
なお、ただいまお話がありましたが、
脳死問題の背景として
脳死患者に対する無益な
医療をやめて家族の
医療費負担の軽減を図る、また病院の効率的な運用を目指す必要性を指摘する向きもあります。つまり、広い意味での
医療経済からの要請、これが
脳死説を生み出したというのでございます。確かに
脳死説のメリットとしてこのような
医療経済的
側面があることは否定できませんが、翻って考えてみますと、もはや
生命の回復力を完全に失った
脳死患者に
生命維持の治療を加えても全く無意味なのでありますから、したがってそのような
状態で
医師にはもはや治療義務はないと言ってよいのであろうと思います。したがって、あえて
脳死ということで死亡宣告しなくてもお医者さんは家族と合意の上で治療をやめてよいはずでありますし、これは法律の理論的な観点から見て十分肯定できるのではなかろうかと思うのでありますし、また現在
医療の現場ではそのような取り扱いをしているはずでございます。無論、だれもがというわけじゃございませんけれども、そういう
調査も現在あるわけでございます。要するに、現在において
脳死が問題となりますのは、全くこの
臓器移植との関係においてであるというように、
脳死のいわば射程距離をはっきりさせた方がよかろうというのが私のまず前提でございます。
ところで、最近の新聞報道などを見ますと、ここ二、三年の間に
脳死と
判定されました
患者から二つの腎臓を摘出いたしまして
移植した例は数十に達するというふうに言われておりまして、現に御自分で手術した例を公表されている著名な大学の先生もいらっしゃるわけでございます。
さて、
移植する場合に、まず
患者が
脳死状態に陥ったことを
患者の家族に説明して、それから家族の同意を得て摘出手術を行うのでありますが、ここで注目されますのは、その段階で死亡を宣告していわば
死体から腎臓を摘出する形をとっていることでございます。これは、現行の角膜
腎移植法におきましては
死体からの摘出しか認めていないわけでありますから、いわばやむを得ない措置なのでございますが、もし
脳死状態が生きているという先ほどの前提をとりますと、これは明らかに殺人になるのではなかろうかというふうに思われますし、現にそうだというふうに主張する人もおられるわけであります。
果たしてこのような死の
判定の仕方は、今のような前提をとりますと現行法上認められてしかるべきなのであろうかどうか。言いかえますと、今我々は
脳死説の採否の是非ということを
議論しているわけでありますけれども、むしろ問題は現在行われている
脳死判定に基づく治療の中止あるいは
臓器の摘出というのが果たして現行法上許され、また今後も現状のまま放置してよいかということが、まさに当面の問題であろうというふうに思うのでございます。
さて、そういう問題を解決するために、少し基本的な死の問題を考えてみたいと思うのでございます。
この人の死の問題はしばしば宗教や
倫理の
側面からお話しになられる方が多いのでございますけれども、しかし、私は、まず死の
判定は現行法上どういうふうな取り扱いを受けているかという見地、いわば法律の見地から一遍確かめてみる必要があるのではなかろうかと思っております。現在、法律上は、死の
判定は、法律に別に定義がございませんから、したがって原則として
医師がこれを行うというふうにしている、これが法の建前だと言ってよいのでございます。我が国の現在の
医師法あるいはその他の民法等の法律によりますと、
医師に対しては死亡診断書をつくるべき義務を課しているとともに、
医師はみずから自分で診断して、そうして死亡時刻を確定し、それを何時何分というように正確に診断書に記載する、そういう義務を課されているのでございます。これを裏から見ますと、法律上の死の
判定はいわば
医師が独占的に行うべき医学上の診断であるということ、このことだけを法律は定めているというふうに見られるのでございます。
このように、死の
判定はあくまで医学上の診断、
判定というよりむしろ診断なのでありますから、
医師の直観やあるいは価値観に基づいて行われてはならないことは無論でありまして、専ら医学上の知識と経験に基づく
基準、すなわち医学常識に従って行われなければならないということでございます。
ところで、医学上の死の診断方法が確立しましたのは十九世紀だと言われておりますが、当時はヨーロッパで御案内のとおり早過ぎた埋葬ということが社会問題となりましたことからこの死の診断方法の確立が盛んに叫ばれたのでございます。そうしてたどり着いたのがいわゆる三兆候説でございました。要するに、死亡の確認方法として医学上承認されたからこそ、この三兆候説が法律上の死の
判定方法になってきた次第でございます。
そうだとしますと、
脳死説を採用すべきかどうかは主として医学上の問題ということになるのでありまして、結局は
脳死説が医学上一般に承認されているかどうか、すなわち医学上の常識になっているかどうかということに帰着するのだろうと思います。死の
判定も診断であるということ、したがって、
脳死問題は法律的な価値判断以前のいわば医学上の問題であることをまずここで確認しておかなければならないと思います。
それでは、
脳死説は医学上の常識となっているかということが次の問題でございます。私は、門外漢として単に推測できるにすぎませんけれども、現状では依然として
脳死説が完全に支配的になったとまでは言えないのではなかろうかと思っております。最近の筑波大学の
移植告発事件におきましては、
脳死判定による
腎臓等の摘出についてほかならぬ
医師が告発人になっているのでありまして、これは医学界における対立の深刻さの一端を物語っていると思います。そうすると、現在
脳死説は全く法律上検討の余地がないと言うべきで、
脳死説が常識化するまでは伝統的な
心臓死の概念と三兆候説による死の
判定方法を維持すべきであるということになるでありましょう。これによりますと、先ほど申しましたように腎臓を二つ取ってしまうというふうな
臓器の摘出は、少なくとも形式的には現行法上は殺人罪の構成要件に当たると言わざるを得ないのではなかろうか。したがって、もとより
心臓を摘出することも許されないという結論になるはずでございます。
問題は、それでよいかということでございます。医学界における対立を慎重に検討してみますと、第一に、
脳死の概念自体についてはほぼ共通の理解に達しているというふうに私は思っております。第二に、
脳死状態が従来
生命現象として理解されてきたものと異なるという点でも大体一致しているようでございます。言うまでもなく、
脳死患者はいわば人工的に生かされているわけで、しかも、先ほど触れましたように瞳孔も開いてしまっている、しかも
呼吸も自発的にできないということでございますから、したがってむしろどちらかというと死に近いという点でも、これは恐らくお医者さん同士の共通の理解になっているように思うのでございます。
このようにいたしまして、
脳死状態という症状があるということ、それからそれが
生命現象として従来の
生命とは違うという点で共通の理解が得られているのでございますが、
脳死説に反対する人たちが一様に指摘いたしますのは、
脳死を
判定する確実な方法が確立されていないという点でございます。そして、もしそうであれば、私は
脳死説など論外だろうと思います。
脳死の
判定法が得られていないのに
脳死説を問題にするということは到底許されないわけでありますから、したがって、もしそうであれば
脳死説は論外であるということはまず確認しておきたいと思うのであります。
しかし、この点もよく疑問をただしてみますと、どうも
脳死状態の診断は確実にできる、ただ、その診断方法が今のところまちまちである。我が国でも日本脳波学会のつくりました
基準と昨年発表されました阪大の
基準とは違う、あるいはまた外国で発表されておる
基準とも違う。どうも国によってあるいは機関によって
判定の
基準が違っているというところに皆一様に疑惑を抱いているというふうな感じがするのでありまして、この点、現在厚生省でやっております研究班の
脳死判定基準の作成等も含めまして、今後
判定基準の一元化あるいは明確化ということが急務だろうと思います。ただしかし、
脳死状態が確実に診断できるということだけは共通の理解が得られていることも、これまた確認しておくべきだろうと思っております。
このように見てまいりますと、純粋に医学的見地から
脳死説に反対するお医者さんは案外少ないというふうに私は思っております。
では、どうして
脳死説がこれだけいろいろな反対を生むのかということでありますが、私の理解では、そのお医者さんの
医療観あるいは
生命観というふうな、どちらかというとその人の価値観というものがこの
脳死に対する反対の
理由になっていると思っております。とりわけ
心臓移植について反対する方は
脳死説をも認めようとしないというふうな、これは私の直観でありますけれども、そういう方も明らかにいらっしゃるように思うのでございます。私の理解では、このように
脳死説の医学常識化を阻んでいるのは、いわば医学上の疑問ではなくてこの
医療観の問題だということでございます。そうだとしますと、今後医学の
進歩につれて
脳死説が素直に承認されていくことを期待するのもいささか困難ではなかろうかと思うのでございます。
今日の医学界の対立が今述べたようなものであるといたしますと、現在行われている
脳死による死の
判定というのも、いわば医学上の
脳死という概念では共通の常識といいましょうか、そういうのが得られているのだから、したがって、それに従って
個体の死を
判定しても必ずしも違法ではないという答え方もあり得るのではなかろうかと思っております。つまり、あくまで死の診断というのは医学上の常識によるべきだけれども、そして現在
脳死説というのは医学の常識にはなっていおいけれども、しかしその前提である医学上の概念については共通の理解が得られている以上は、その
脳死の
判定をもって
個体の死の
判定に結びつけても必ずしも違法ではないというふうに思うのでございます。あるいはそういう立論も可能ではなかろうかという程度にとどめておきたいと思います。
この考え方をとれば、つまり現状のままでもよいということになるのでありまして、先ほど言いましたような現実の腎臓
移植の摘出につきましても、これを適法と認めてよいということになろうかと思っております。そういたしますと、腎臓を二つとるのも
心臓をとるのもこれは同じことでありますから、したがってそういう前提をとれば
心臓移植も可能であろうということになろうかと思っております。
しかし、そういたしますと、現在では
脳死を認める立場と認めない立場、それぞれのお医者さんはそれぞれ独自の死の
判定をしているわけですから、いわば二つの死亡宣告ということが可能になってくるわけでございます。法律上は現在死亡にかかわるのは無数にあるわけでございまして、特に権利義務の発生あるいは消滅の原因となります民法上の相続等を含めてさまざまな場面で死亡ということが問題になるわけであります。それが現在のように二つの死亡概念ということで決められるといたしますと、法律上の混乱を恐らく余儀なくされるであろうということが
一つ。
また、この医学界における対立が専ら先ほど言いました
医師の
倫理観の対立てあるといたしましても、一般の国民の目から見れば、従来は
心臓死が人の死と考えられてきたのでありますし、新たにそれに
脳死が加わってくるということになってまいりますと、少なくとも完全に医学界の合意が得られる必要があるでありましょうし、またその合意がなければ社会的合意も得られないでありましょう。したがいまして、今日のような二つの死亡宣告というのを認めるといたしますと、これは何らかの手当てが必要になるのではなかろうか。つまり、このままほっておいてはぐあいが悪いのではなかろうか。
さらに第三に、
脳死問題は先ほど言いましたように常に
心臓移植と結びつくのでございます。したがって、どうしても早過ぎた死の
判定ということが疑惑の対象にならざるを得ない。
それやこれや考えてまいりますと、これはどうしてもはっきりとした法的な手当てが必要なのではなかろうかという感じがするわけでございます。もとより、そこにいく前に、例えば厚生省に少し頑張っていただきまして、我が国のお医者さんの共通の理解が得られるような努力をしていただく、そうしてごく少数の人たちが
脳死に反対するというような
状況をつくっていただきますと、これはこれで先ほど言いましたような要請は満たされるのであろうかと思うのでございます。イギリスや西ドイツはそのような方法、つまり医学界の承認ということをもって
脳死説を採用している次第でございます。
しかし、また一方で
心臓移植や
脳死問題は日本人の死生観と深くかかわっておる。したがって、それが
心臓移植について慎重な態度をとらせているのだというふうに言う人もおります。さきに述べました医学界の対立もそれを物語るものだと思いますが、私の理解ですと、
倫理観での対立が先ほど言いましたような医学界での承認、つまりイギリスや西ドイツのような解決を阻んでいるのだといたしますと、私は、そのような医学界の対立だけに放置しておいてはいけないので、むしろその解決を国民全体の意思にゆだねるべきではないかと思うのでございます。国民の一部の
倫理観あるいは一部のお医者さんの
倫理観、そういうものでそれを国民全体の考え方とするのは、いわば
倫理の押しつけになるのではなかろうかというような感じがするのでございます。
私はこのような観点に立ちまして、アメリカのカリフォルニア州で行われておりますような
脳死の立法化ということを提言してきたのでありまして、
脳死をもって人の死とする法案を提出いたしまして、議会を通じて国民的な
論議を巻き起こして、
脳死の
判定等にかかわるさまざまな問題点あるいは医学界における対立は一体どこにあるのかというような点を国民の前に明らかにして、そうして議会を通じて国民の社会的な合意というのを得るのが今我々にとって必要なことではなかろうかと考えるわけでございます。
いろいろな方の御
意見の中で、この社会的合意というのが必要だというふうに
脳死説採否の正否を論じている人がいるのでございますけれども、この社会的合意というのを一体どうやって確かめるのであろうか。だれかが、あるいは新聞が合意すれば社会的合意が得られたというふうになりかねない。それよりも、むしろ今日の我が国の社会では、議会こそこの社会的な合意を確かめる場であるというふうに考えるべきではなかろうかと思うのでございます。そして、もし議会の同意が得られないのであれば、
脳死説の採用ということは、世界の流れに逆行いたしましても我が国では撤退せざるを得ないというふうに思うのでございます。
ただ、その場合におきましても、先ほど言いましたように
脳死説の射程距離はあくまでも
心臓移植にあるということ、あるいは
臓器移植にあるということでありますから、したがって、
移植の見地からこの
脳死説を認めるのであれば、その立法化は
移植と結びつけて立法化するのが適当であるというふうに考えるのでございます。
あと
幾つか用意してまいりましたが、時間の関係で後の質疑の方に譲りたいと思います。どうも御清聴ありがとうございました。(拍手)