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1985-03-27 第102回国会 衆議院 文教委員会 第3号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和六十年三月二十七日(水曜日)     午後二時二十八分開議 出席委員   委員長 阿部 文男君    理事 石橋 一弥君 理事 大塚 雄司君    理事 白川 勝彦君 理事 船田  元君    理事 佐藤  誼君 理事 馬場  昇君    理事 池田 克也君 理事 中野 寛成君       赤城 宗徳君    榎本 和平君       北川 正恭君    田川 誠一君       中村  靖君    西山敬次郎君       町村 信孝君    木島喜兵衞君       佐藤 徳雄君    田中 克彦君       中西 績介君    有島 重武君       伏屋 修治君    藤木 洋子君       山原健二郎君    阿部 昭吾君  出席国務大臣         文 部 大 臣 松永  光君  出席政府委員         臨時教育審議会         事務局次長   齋藤 諦淳君         文部政務次官  鳩山 邦夫君         文部大臣官房長 西崎 清久君         文部大臣官房審         議官      菱村 幸彦君         文部省初等中等         教育局長    高石 邦男君         文部省高等教育         局私学部長   國分 正明君         文部省学術国際         局長      大崎  仁君         文部省社会教育         局長      齊藤 尚夫君  委員外出席者         文教委員会調査         室長      高木 高明君     ————————————— 委員の異動 二月二十六日  辞任         補欠選任   伏屋 修治君     矢野 絢也君   山原健二郎君     不破 哲三君 同日  辞任         補欠選任   矢野 絢也君     伏屋 修治君   不破 哲三君     山原健二郎君 三月二十六日  辞任         補欠選任   臼井日出男君     塩川正十郎君   北川 正恭君     松野 幸泰君   佐藤 徳雄君     嶋崎  譲君 同日  辞任         補欠選任   塩川正十郎君     臼井日出男君   松野 幸泰君     北川 正恭君   嶋崎  譲君     佐藤 徳雄君 同月二十七日  辞任         補欠選任   臼井日出男君     西山敬次郎君   江田 五月君     阿部 昭吾君 同日  辞任         補欠選任   西山敬次郎君     臼井日出男君   阿部 昭吾君     江田 五月君     ————————————— 三月十一日  児童生徒急増地域に係る公立の小学校中学校  及び高等学校施設の整備に関する特別措置法  案(木島喜兵衞君外二名提出衆法第八号)  義務教育学校施設費国庫負担法の一部を改正  する法律案木島喜兵衞君外二名提出衆法第  九号) 同月二十日  昭和四十四年度以後における私立学校教職員共  済組合からの年金の額の改定に関する法律等の  一部を改正する法律案内閣提出第七〇号) 同月六日  学校図書館法の一部改正に関する請願池端清  一君紹介)(第一八〇五号)  同(柴田睦夫紹介)(第一八二二号)  同(中林佳子紹介)(第一八二三号)  同(東中光雄紹介)(第一八二四号)  同(瀬長亀次郎紹介)(第一八三一号)  同外一件(河上民雄紹介)(第一八六三号)  同(木島喜兵衞紹介)(第一八六四号)  同(土井たか子紹介)(第一八六五号)  同(村山富市紹介)(第一八六六号)  中学校租税教育推進に関する請願阿部文男  君紹介)(第一八二〇号)  同(松野頼三君紹介)(第一八二一号)  同(佐藤観樹紹介)(第一八二九号)  同(綿貫民輔紹介)(第一八三〇号)  同(浜田卓二郎紹介)(第一八四二号)  同(渡辺栄一紹介)(第一八四三号)  同(山崎拓紹介)(第一九〇〇号)  私学助成増額等に関する請願外六件(堀之内  久男君紹介)(第一八五六号)  同(松浦利尚君紹介)(第一八六二号)  同(愛知和男紹介)(第一九〇一号)  同(兒玉末男紹介)(第一九〇二号)  同(平沼赳夫紹介)(第一九〇三号)  同(梅田勝紹介)(第一九二五号)  同(月原茂皓紹介)(第一九二六号)  同外一件(藤木洋子紹介)(第一九二七号)  同(前川旦紹介)(第一九二八号)  同外十四件(矢山有作紹介)(第一九二九号  )  同(山原健二郎紹介)(第一九三〇号)  教育研究予算増額等に関する請願有島重  武君紹介)(第一八六七号)  私学助成大幅増額実現等に関する請願(二見  伸明君紹介)(第一八八七号)  同(山原健二郎紹介)(第一九三二号)  国立大学付属病院臨床研修改善等に関する請  願(滝沢幸助紹介)(第一八八八号)  私学助成増額等に関する請願池田克也紹介  )(第一九一七号)  同外一件(川崎寛治紹介)(第一九一八号)  同(山原健二郎紹介)(第一九一九号)  四十人学級実現私学助成に関する請願外一件  (山原健二郎紹介)(第一九二〇号)  私学助成削減反対等に関する請願井上一成君  紹介)(第一九二一号)  同(中村正男紹介)(第一九二二号)  同(野口幸一紹介)(第一九二三号)  同(細谷治嘉紹介)(第一九二四号)  私学助成大幅増額等に関する請願(林百郎君  紹介)(第一九三一号) 同月十三日  私学助成削減反対等に関する請願外一件(左近  正男紹介)(第一九四四号)  同(和田貞夫紹介)(第一九四五号)  同(左近正男紹介)(第一九六一号)  同(佐藤観樹紹介)(第一九六二号)  同(藤田スミ紹介)(第一九六三号)  同外四件(後藤茂紹介)(第二〇〇三号)  同(佐藤徳雄紹介)(第二〇〇四号)  同(佐藤誼紹介)(第二〇〇五号)  同(永井孝信紹介)(第二〇〇六号)  同(堀昌雄紹介)(第二〇〇七号)  同(山中末治紹介)(第二〇〇八号)  同(上田卓三紹介)(第二〇五七号)  同(村山喜一紹介)(第二〇五八号)  私学助成増額等に関する請願外六件(小山長  規君紹介)(第一九四六号)  同外一件(藤木洋子紹介)(第一九四七号)  同(田中美智子紹介)(第一九六四号)  同外三件(中西績介紹介)(第一九六五号)  同外一件(水田稔紹介)(第一九六六号)  同外一件(阿部喜男紹介)(第二〇〇九号  )  同(藤本孝雄紹介)(第二〇一〇号)  同外一件(石橋政嗣君紹介)(第二〇五九号)  同(森中守義紹介)(第二〇六〇号)  四十人学級実現教育予算増額等に関する請  願(沢田広紹介)(第一九五八号)  同(田並胤明君紹介)(第一九五九号)  私立幼稚園助成等に関する請願藤田スミ君  紹介)(第一九六〇号)  私学助成増額等に関する請願外一件(川崎寛治  君紹介)(第一九六七号)  同外一件(川崎寛治紹介)(第二〇六六号)  私学助成増額実現等に関する請願外三件(阿  部未喜男紹介)(第二〇一一号)  同外五件(左近正男紹介)(第二〇一二号)  同(石橋政嗣君紹介)(第二〇六一号)  私学助成大幅増額等に関する請願佐藤敬治  君紹介)(第二一三号)  同外五件(天野等紹介)(第二〇六二号)  同(佐藤誼紹介)(第二〇六三号)  同外四件(村山喜一紹介)(第二〇六四号)  私学授業料助成実現等に関する請願外四件  (山中末治紹介)(第二〇一四号)  同外五件(上野建一紹介)(第二〇六五号) 同月十九日  中学校租税教育推進に関する請願中山正暉  君紹介)(第二二四六号)  同(三ッ林弥太郎紹介)(第二三〇二号)  私学助成削減反対等に関する請願外二件(左近  正男紹介)(第二二四七号)  同(田中克彦紹介)(第二二四八号)  同(土井たか子紹介)(第二二四九号)  同(藤田スミ紹介)(第二二五〇号)  同(上原康助紹介)(第二三二〇号)  同(小川国彦紹介)(第二三二一号)  同外三件(左近正男紹介)(第二三二二号)  同(高沢寅男紹介)(第二三二三号)  私学助成増額等に関する請願外一件(石橋政  嗣君紹介)(第二二五一号)  同外十八件(矢山有作紹介)(第二二五二号  )  私学助成大幅増額等に関する請願田中克彦  君紹介)(第二二五三号)  同外四件(水田稔紹介)(第二二五四号)  同外三件(嶋崎譲紹介)(第二三二四号)  同外三件(田中恒利紹介)(第二三二五号)  私学授業料助成実現等に関する請願外五件  (矢山有作紹介)(第二二五五号)  同(石橋政嗣君紹介)(第二三八九号)  私学助成増額等に関する請願川崎寛治紹介  )(第二二五六号)  私立幼稚園助成等に関する請願藤田スミ君  紹介)(第二二五七号)  教育研究予算増額等に関する請願大出俊  君紹介)(第二三一九号)  義務教育教材費補助廃止反対等に関する請願  (瀬崎博義紹介)(第二三八五号)  同(津川武一紹介)(第二三八六号)  同(中島武敏紹介)(第二三八七号)  同(蓑輪幸代紹介)(第二三八八号)  私学助成等に関する請願中林佳子紹介)(  第二三九〇号)  学校図書館法の一部改正に関する請願佐藤徳  雄君紹介)(第二三九一号) は本委員会に付託された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  連合審査会開会申入れに関する件  文教行政基本施策に関する件      ————◇—————
  2. 阿部文男

    阿部委員長 これより会議を開きます。  連合審査会開会申し入れの件についてお諮りいたします。  大蔵委員会において審査中の内閣提出、国の補助金等の整理及び合理化並びに臨時特例等に関する法律案について、連合審査会開会申し入れを行いたいと存じますが、御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 阿部文男

    阿部委員長 御異議なしと認めます。よって、さよう決しました。  なお、連合審査会開会日時につきましては、関係委員長間で協議の上、追って公報をもってお知らせいたします。      ————◇—————
  4. 阿部文男

    阿部委員長 文教行政基本施策に関する件について調査を進めます。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。白川勝彦君。
  5. 白川勝彦

    白川委員 短い時間でありますが、質問をさせていただきますので、ごちゃごちゃ述べないで結論を端的に述べていただきたいとお願いいたします。私はいっぱいしゃべりますから、ひとつよろしくお願いいたします。  今、教育改革というのは、中曽根内閣の大きな政治のテーマの一つであるだけではなくて、国民的な課題というふうになっているなと思うのでございます。それぞれの家庭でも、教育に関する問題がお父さん、お母さん子供たちにとっても最大の関心というぐらいにまでなっているなという気がするわけでございます。日本人教育熱心だというふうに言われておりますが、ここまでの一つの雰囲気になったのはやはり今現在的な課題ではないかという気がいたします。  ただ、なぜこういうふうになったかということでございますが、私は、直接の契機というのは何といっても過熱する受験戦争がやはり一つ契機だと思います。  それから、ことしは若干の後退のような傾向を見せているようでございますが、校内暴力であるとか少年非行、こういうものが我々が考えられる以上に、今まで経験しなかったほどにいろいろな問題が出てきたというのが私は第二の原因ではないかなという気がいたすわけでございます。  そういうような極めて目に見えるような問題が契機でそういう一つのムードが出てきたわけでございますが、逆に、余りそういうことだけにとらわれて教育議論をしてはならない、国家百年の大計であるとかあるいは人間の尊厳とかという意味で、問題は本質的なところから始めて、そして理性的、合理的、あるいは何というか長い時間をかけて漸減的に改革を進めていかなければならないのじゃないか、私は結論から申せばそんなふうに思うわけでございます。  なぜそんなことを思うかというと、端的に言うならば、日本教育は多くの先生方、多くの大人たちあるいは教育関係者が言うほどだめなんだろうかということを私は逆に言いたいのでございます。日本教育というものは、世界的に見たならば、日本がこれだけ繁栄できてきたのは日本教育がしっかりしていたからではないか、こういうことで逆に注目をされておりまして、例えばアメリカあたりでも日本教育から真剣に学ばなければならないということを逆に言っておるのが現実であります。  そういうことを考えますと、日本教育は、決して巷間言われているように問題だらけだというのではなくて、逆に非常にある面では、はるばるここまで来たなという水準にあるというのがまず我々の認識としてなければならないことではないだろうか。逆に言いますと、ある面では、私どもが悲願として明治以来百年間にわたって追求してきたいろいろな課題が、高度経済成長と相まって何とか達成できた、ところが達成してみるとその悲願も、何も問題がない天国ではなくて、そこにはそこに新たなる一つの問題がまた出てきた、それに対して我々はまた一つ解決策を出さなければならない、こんなような問題ではないかという気がしてならないのであります。  わかりやすく言いますと、高校に九十数%進学するようになった。こんなのは、例えば私の高校時代であった二十数年前でございますが、高校進学率がまだ五割をちょっと超えた程度であるという中からは考えられない大きな成果なわけでございます。ところが、みんながみんな高校に行くようになってくると、果たしてこれが高等学校なのかねというような新たなる問題が逆に出てきた、これが一つの例だろうと思います。  大学あたりも、短大であるとか専門学校を含めますと四〇%近くが行っておるわけでございます。果たしてそれだけの方々高等教育についてこられるかという問題が逆に出てくるのだろうと私は思うのでございます。ある面では、大学には来たけれども大学落ちこぼれというようなものも、高校ではもちろんでございますが、大学教育にも起きてきているのかな。逆の面では、起きるのが当たり前なくらい大勢高等教育を受けるようになったという問題であって、言うならばうれしい悲鳴と言っていいんじゃないかなという気がするのであります。これが一割くらいしか大学に来なかった時代ならば、大学における落ちこぼれなどというのは逆に考えることができなかったような問題ではないかという気が私はするわけでございます。  どうか教育改革議論するに当たって、我々の先人たちがそれこそ血まみれの努力をしてやっとたどり着いた、そして我々は世界にも誇るべき教育の量並びに教育の質を持っている。しかし、ある面では、それが人類史上やっと到達したぐらいであるために、ほかの国にもなかなか問題がないような新たなる問題が起きてきた。そしてこの問題をどう解決するかが、場合によってはこれから日本と同じように高度の教育水準を誇る国がいずれは当面するであろうようないろいろな問題の解決にもまた役立つのじゃないか、そのくらいの気持ちで教育改革をやるべきである。現象的な校内暴力だ、非行だ、受験戦争だということにだけ目をとらわれて、この教育改革を小さなものにしてはならない、こう私は考えておるわけでございますが、これらの点について大臣の所感、私の意見についての反論がございましたら承りたいと思います。
  6. 松永光

    松永国務大臣 先生御指摘のように、受験戦争の問題、校内暴力の問題などが教育改革国民的な課題となったきっかけであったというふうには私も思います。その意味では、それはあくまでもきっかけであって、それだけにとらわれてはいかぬ。むしろそういう現象面解決もさることながら、二十一世紀を展望した日本教育はどうあらねばならぬかという高い次元から教育改革は論議をしていかなければならぬという先生の御意見、私も全く同感でございます。  そして、さらにつけ加えて申し上げますと、明治以来百年間の日本教育、なかんずく戦後の教育をどう評価すべきかということでございますが、私も先生と同じように、相当高い評価が与えられてしかるべきではないかな、こういうふうに思っております。何せ明治以来百年足らずの間に先進諸国に追いつくことができたわけでありまして、それは明治以来我々の先輩たちの大変な努力積み重ね日本教育が普及をし、充実をし、そうして発展をしてきたからだというふうに思うのであります。その意味で、私は日本教育は高い評価が与えられてしかるべきだと考えます。  だが、これから先を展望いたしますと、このままでいいのだろうか。今先生おっしゃいましたように、高等学校進学率が九四%を超えました。まことにすばらしいことであります。しかし、同時に、高等学校から脱落する人も実は相当出てきておるわけでありまして、大ざっぱに言って一年間に百五、六十万入学しておるわけでありますが、十万人以上の人が高等学校をやめていっておるという現象も実はあるわけでして、こういったことも、高等学校教育のあり方を抜本的に検討をし、考え直さなければならない時期に来ているのではなかろうか、こういうふうに思います。  そうしてさらに、多くの人が言うことでありますが、これからますます国際化が進んでまいります。日本学校教育が果たして国際化に対応できるような人材の育成になっているだろうか、これも検討すべき課題だろうと思います。そしてさらに、今までは追いつき型の教育で大体用が足りておったわけでありますが、これからは、学問の分野でも科学や技術の分野でも、独創的な発展をさせて、大きく言えば世界人類に貢献するような日本人材が育ってこなければならぬわけでありまして、そういう分野等を考えますと、やはり現在の日本教育についてあらゆる角度から検討を加えて、改善すべき点は思い切って改善をし改革をしていくことが必要であろうと考えているわけでございます。
  7. 白川勝彦

    白川委員 今日の日本教育が抱えている問題は相当多岐にわたると思いますし、それらの解決策というのは言うはやすく行うはかたい問題が相当あるというふうに私も感じております。ただ、そんなことで臨教審発足をいたしましていろいろな御議論をしているようでございますけれども、事こういう大事なときに、臨教審もそうでございますが、また同時に臨教審がすべての教育問題を取り扱っているわけではございません。教育は一日も休むことなく、現場の先生方文部省方々教育関係者が一生懸命日々改革しなければ、臨教審結論が出たらそのときからよくしますが、それまでの生徒さんは不幸ですね、それまでは解決策はできません、こういうことではいかぬのではないかなと思うのでございます。  そこで、私申し上げたいのは、私の好きな言葉に「一利を起こすは一害を除くにしかず」という言葉が大変好きな言葉としてあります。中国の名宰相と言われる人が、政治要請は何ですかと言われたら、一つのいいことをやるなんというよりも、だれが見てもこれは明らかにいかぬと思うことを着実に除くことが最高の政治要請ではないでしょうか、こう言われたそうでございますが、教育問題も、例えば松永文部大臣自分の在任中にすべて快刀乱麻解決する、こう力まれてもなかなか解決できない問題なのではないかな。それよりも、だれもがこれだけは明らかに改革をしなければならないというようなものを、大勢関係者努力によってまず一つ一つ解決していく、その積み重ねがまた我々が理想とするような教育状態につながっていく最大の一番確実な方法ではないかと思っております。ですから、私の質問が終わる最後で結構なんですが、大臣文部大臣に就任されて、あえて一つというならば、今回の教育改革の中でこの問題だけは是が非でも解決しなければならないと思っておるものは何であるか、これをしかと承りたいと思いますので、いろいろあってどれというと難しいかなと思いますが、ひとつしばらくお考えいただきたいと思います。  それで、私は、大臣並びに関係の方に若干意見を申し上げるとともにお聞きをしたいのでございますが、臨教審というものが去年発足をいたしました。そして、いろいろな形で今議論がされておるわけでございまして、それはそれで結構だ、こう思うわけでございます。そして、できるだけ臨教審議論がオープンであって国民と一緒に考えながらいろいろな問題を進めていくということは、私は全く大賛成なんでございますが、同時に、教育というのは今や本当に個々の家庭にとりましても日々の問題なのでございます。そして、いい悪いは別として、現在あるいろいろな制度であるとか現状というものにまずどうやって対応していこうかということで、大変な努力をされているわけでございます。過熱する受験戦争と言われましても、やはり現状では入試地獄をくぐり抜けなければ、自分が本当に希望する大学に行けない、自分が期待するような大学に行けない、あるいはそういう教育は受けられないというところから始まるわけでございまして、当事者にとってみれば大変深刻なしかも現実の問題であるわけでございます。そういう多くの方がいるにもかかわらず、今臨教審議論というのが、まさに教育の真っただ中にあって子育てあるいは子供から見たならば受験戦争に備えているという人たちの、本当にナーバスな感情を十分配慮しているのだろうかと思われるような幾つかの点が見受けられないでもないわけでございます。例えば九月入試というようなことは、教育専門家の間ではかなり前から議論されていたと思うわけでございますが、一般の国民方々から見たら、「サイタ サイタ サクラガサイタ」というので、入学というのは四月だろうというふうに、これは昔から日本人の頭の中にこびりついているわけでございます。それが、ある日突然、今度は九月入学にしたいと思いますと、それこそ臨教審の答申でも出たら、来年からでも九月になるのだろうかというような印象すら現実にあるわけでございます。私は、そういう議論をすることと、そしていろいろな議論の中でいろいろな意見が出てくることと、現実に進めてくるという間には相当のタイムラグがあると思うのです。それらについては十分な国民の理解が得られるような周到な配慮というものも必要なのではないかと私は思うわけでございます。  例えば、教育自由化というような問題についても、いずれにしろ義務教育の段階に自由化を持ち込むというのは、その精神でやろうということになったとしても、それがカリキュラムの中であるいは教育課程の中で現実に施行されるためには相当程度準備期間が要るわけでございます。ところが、あたかもすぐにも自分の希望する先生のところに行けるようになるのだというような印象を、例えば小学校中学校から既にそんな印象を持っている。私も体験がありますが、小学校先生の中でも子供に評判のいい先生というのはおります。あの先生に教わったらいいなというのは私だって子供ながらに思ったものでございます。私なんか兄弟がいっぱいいたものでございますから、兄弟からあの先生はいいとかというのを自分なりに聞いて、その先生が担任になればいいななんというのは、それこそ小学校のころから思うものでございます。それが正しい正しくないは別にして、子供世界にもあの先生はいいとかあの先生は嫌だなというような評価があるのでございます。例えば子供たちが、来年からは自分の好きな先生が選べるようになるのだということをお母さんから聞いたりしたら、それこそ来年からそれを執行しないと、何だ人をその気にさせておいていかぬなということに相なろうかと思うのでございます。臨教審のメンバーの方々にもそういう点の御配慮はいただきたいなと思うわけでございますし、臨教審文部省がどういう関係にあるのか私はよく存じておりませんけれども、現実に今、日日進んでいる教育について責任を持つのはあくまでも文部大臣を中心とされた文部省御当局であるわけでございます。現場を預かっているのは文部省でございます。臨教審はそういうことの改革の方向をいろいろ議論をしている機関にすぎないのであって、よしんば一つ結論が出たとしても、それを現状の中であるいは現場で混乱がないように執行していくとしたならば、その責任者がまた文部大臣であるわけでございます。  そんなような意味で、臨教審で現在議論をしていることは結構なんですが、それらの発表の仕方、中には臨教審メンバーであるということを殊さらにある面では誇示しながら、自分の私見と思われるものを積極的に外部に必要以上に漏らし、賛同を得るというような傾向すらあるような気がするわけでございます。こういう、今の教育改革を進めている実態、臨教審というものがある、一方では文部省がある、そして一方ではそれらの動向をじっと見守っておる教育の現場というものがある、こういう非常に難しいとりあえず三者の関係の中で、文部大臣としてあるいは文部省としてでも結構なんですが、臨教審のあり方についても、現場を預かる者として御意見があったら率直に言って、そして現場に無用の混乱を与えないということについては、本来的に権限もあるし、同時にその責任もあるというふうに私は思っているわけでございますが、現在の臨教審のあり方、運営のあり方について、もし感ずるところがあるあるいは考えているところがあれば、しかと大臣に承りたい、あるいはもし関係当局いらっしゃいましたら承りたいと思うのでございます。  以上でございます。
  8. 松永光

    松永国務大臣 先生御指摘のように、臨教審の審議に関連する新聞等の報道を一般国民がごらんになって、あたかもその報道されていることが決められたかのごとき印象を持って御心配をなさっている面があるという御指摘、そういう面があるような感じがしないでもありません。しかし、臨教審としては、できる限り審議の概要については国民にお知らせしたいということから、現在は主として各部会の議論がなされたたびごとに、議論の概要を部会長さんなり部会長代理の人が記者の皆さん方に御説明しておる、こういう状況なんでありますが、実際を言いますと、部会というのは論議を深める場でありまして、決定する場ではないわけでして、臨教審の決定というものは、あくまでも部会の深められた論議を土台にして総会で議論をして、そこで意見がまとめられて初めて臨教審としての意見となるものなのでございます。ただ、その部会の責任者の報告の仕方に、これはできる限り明らかにしたいという気持ちで記者に御報告なさるのでしょう、そうすると、新聞の方ではできるだけ多く取り上げていただいているというようなことから、今先生御指摘のような誤解を生んでいる面もあるのかもしれません。そこらはしかるべき方向で、国民に誤解を与えないような報道になるようにしなければならぬかなというふうに私は考えているわけであります。しかし、一々臨教審のことについてチェックをする立場ではありませんので、誤解を及ぼすようなことがないような御配慮をしていただけるようにお願いをすることができればお願いをしてみたい、こういうふうに考えております。
  9. 白川勝彦

    白川委員 もう一つ答弁をお伺いしたいのでございますが、冒頭に申しました、これ一つと言うとかえって誤解が出てきて、これまた現場に無用な混乱が出てくるという御配慮で、今回の教育改革最大の目玉はこれであるというのは答えられないということできっと答えなかったのだと思うのでございますが、わかりました。答弁漏れということで追及はいたしません。一つだけと言われるとほかはどうなったのだと言われますのですが、逆に私が言いたいのは、余り欲張らないで、例えば三つなら三つでもきちんとこの際、みんなが苦しんでいることを教育関係者子供たちのために、二十一世紀のために解決をしておくということが大切なことなのではないか。私の意見をもう一回繰り返して、質問を終わらせていただきます。
  10. 松永光

    松永国務大臣 私は、政治家というのは何かの大きな仕事をして自分の手柄を立てたいというふうな気持ちでやってはいけないというふうに思います。みずからに課せられた使命、責任を着実に果たしていくのが大臣としての務めだろう、こういうふうに思いますが、その中でやはり国民が一番気にしている問題の一つは、私は、高等学校の段階において、実は公立高等学校など一回しか受験の機会がないものですから、そのことからいろいろな問題が起こってきております。これは臨教審の答申を待つまでもなく、文部省が既に各都道府県教青委員会高等学校入学者選抜制度について改善をするようにという通達を出したわけでありますが、これらのことなどは速やかに解決をして、そして公立高等学校についての受験の機会が複数化されるように努力をしていきたい、こう考えますし、また、四月一日に関係者の大変な努力で放送大学が授業が始まるわけでありますが、この放送大学を立派なものとして育てていくように努力をしていきたい、こういうふうに考えております。  いずれにせよ、みずからの功績を上げることはいささかも考えておりません。自分に課せられた使命、これに全身全霊を打ち込んで努力していくというその一心でございます。
  11. 白川勝彦

    白川委員 終わります。
  12. 阿部文男

  13. 木島喜兵衞

    ○木島委員 今、白川さんもおっしゃいましたけれども、私、今大臣に何を聞いても、簡単に言えば、いやこれは今臨教審にお願いしていますからなんてことになりがちでありますから、岡本会長か、さもなくば、今日自由化論が一つの大きな山であるわけでありますから、天谷第一部会長ないし香山部会長代理に出てほしいと要望いたしましたが、出ていらっしゃいません。しょせん、答申であるか勧告であるか、臨教審の勧告は法律によって尊重義務があります。     〔委員長退席、船田委員長代理着席〕 尊重されたものが法律になって出ます。その法律を可決する者は我々であります。我々の調査権というものをどう考えておるのか。国会の調査権に対するところの非協力さを私は非難せざるを得ないのであります。  今お話ございましたけれども、公開をしない。だからなかなかわからない。結論もさることながら、一つ結論に至るところのその過程、プロセスが、いかなる論理によってその結論を得たかというそのことを我々は知りたいのであります。それが出てこない。今、例えば大臣が、総会中心主義で部会はとおっしゃる。けれども、例えば今もらったこれによれば、この「臨教審だより」の表紙は「画一主義から個性主義へ」という見出しだ。これはその総会の結論じゃないでしょう。だが、これは既にこうなっておる。こういう状態でいいのか。国会議員は憲法によって公開、公表及び一般に対する頒布まで規定されております。そのことによって、その我々の主張によって、大衆は支持しあるいは支持しない、そこに民主政治が確立されておる。なぜ出てこれないのか。もう言ってもしようがないのでありますけれども、教育の最高の機関は一体何なのか。教育における最高の機関は一体何なのか。そういう自覚を彼らが持っておるのか否か。私は率直に言って怒りを持ちます。  きょう、実はそういう意味質問をやらないでおこうと思っておったのです。けれども、それじゃ余りにも大人げないからやりますが、そういう意味では、委員長代理、ぜひそういう機会をなるべく早くつくるように御努力をいただきます。  文部大臣、今回の自由化論というのは中曽根さんのブレーンだと言われる方々が中心ですよね。そして、文部省はその自由化論に大変強く反対をしておる。そのブレーンの一人は文部省解体論まで書いておる。文部省解体論というのは、今日の教育の荒廃の原因は最高の責任者が文部大臣——文部大臣が最高の責任者であるということを言っておるんでありましょう。そうでなかったら文部省解体論は成り立たない。しかし、松永さんは中曽根派でいらっしゃる。幹部でいらっしゃる。よって、現在の時点で松永さんの臨教審観、臨教審をどうごらんになっていらっしゃるか、もしおありでしたら簡単にお述べください。
  14. 松永光

    松永国務大臣 言うまでもなく、臨教審は国会で御審議をし制定をしていただきました臨時教育審議会設置法に基づいて設置された機関でございまして、内閣総理大臣の諮問に応じて現在日本教育の各般について真剣に審議をしていただいているところというふうに私は理解いたしております。
  15. 木島喜兵衞

    ○木島委員 もう中身に入りましょう。  学校教育の使命というものは、一つには子供たちには子供たちのその日々がいかに充実しているかという問題、それからあすの社会に生きる準備、明後日の新しい文化を創造するというのが第三、時間的に言うならば、その三つの使命と区分することができるかもしれません。  それでは、第一の、今日の子供たちが日々の生活に充実感を持っておるかとするならば、私はそうは思わない。逆に、今子供たちは学校から解放されたいと思っているのじゃないのか。かつて近代教育である公教育というものは、一つには産業社会とともに出発した。産業社会、その中では一定の教育を受けなければ一定の職業につけない。一定の職業につけなければ生存にかかわる。だから、生存権的基本権として公教育が始まり、同時に、そのことは過酷なる労働から子供たちを解放した。だのに、今子供たちがその学校から解放されたいと思っているのじゃないのか、そういう感じを持つのであります。殊に最近は、今白川先生おっしゃいましたように受験戦争があります。大量消費時代になって物が豊かになって、そして進学率が高まってきた。だから、義務教育だけで済まないからより上の学校に行く。より上の学校に行くことは、子供たちの自主的な判断ではなしに、親や学校、時に偏差値によって輪切りにされてそして選別されるのでありますから、子供たち教育を受ける権利は、逆に、より有名校の卒業証書をもらう義務になっておるのじゃないのか、だからそこから子供たちは解放されたいと思っているのじゃないのか。  公教育は元来強制を伴うものであります。だから、誤れば画一主義になる。かつて義務教育を強迫教育とか強制教育と訳された時代があります。それを不思議に思わなかった時代もあります。そのごとく、強制は統制を伴います。過度な統制は画一主義になる。だから、自由化論者たちが文部省解体論とそこに延長して考えているのじゃないのか。文部省の——大臣とは言いません。文部省の反省ないし反論をお聞きいたします。
  16. 松永光

    松永国務大臣 私は、学校というものを、子供たちにとって喜々として喜んで行きたいそういう学校にすることが望ましいことだと思っております。  ただ、子供はまだ未熟の状態でありますから、しかも、その子供を平和的な民主的な日本の国家社会を形成するにふさわしい人材に育成していかなければならぬという責務が政府にはございますから、そこで、時によってはその子供たちに対してある程度の強制力を行使して、一定水準の知徳体のバランスのとれた教育を施していくということも必要なことであろうかと思います。そうした一定水準教育を施すために文部省が今まで大変な努力をしてきたというふうに私は思っております。
  17. 木島喜兵衞

    ○木島委員 先ほども申し上げました臨教審が出てきておりませんが、きょうは事務局次長の齋藤さんがお見えでございますから……。  憲法二十六条は教育を受ける権利を言っておりますけれども、教育をだれがするかという権利についてはうたっておらないところに、例えば親の教育権説あり、国の教育権説あり、あるいは教師の教育権説等がありますが、自由化論者の方々が言っていらっしゃることは、親の教育権説に立つか、さもなくば親の教育権というものを強く意識していられると考えるのですが、どうでしょうか。
  18. 齋藤諦淳

    ○齋藤(諦)政府委員 臨教審では、いわゆる自由化論との関連におきまして、教育の画一主義の打破でありますとかあるいは個性主義の推進というようなことを第一部会のメモ等でも言っているわけでございます。  これらの論議におきましては、審議会としては公教育というものを前提にして公教育の中での改革のあり方を検討しているもの、私はそういうように理解しているわけでございます。したがいまして、親の教育権と公教育という対比で議論はなされていない現状でございます。
  19. 木島喜兵衞

    ○木島委員 例えば自由化論者たちが、今私は自由化論者と限定しておりますからね、だから、あなたからするとある一定の人のことをなかなか言えない立場にありますわね。だって、第一回から事務局ばちゃっとしかれたからな、だから言えぬよな。しかし、学校の選択権にしろあるいは設置基準にしろ、それには好きなところへ行けというわけですから、親の教育権を前提にしているわけでしょう。——うんとうなずいていらっしゃるから、それを前提にします。しかし、私はそれを当たり前だと思っているのです、これはまさに自然権ですから。だから、日本でも民法の八百二十条は「親権を行う者は、子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。」とある、それだけをとって言えば。ですから、これはまさに自然権ですよ。けれども、おっしゃるとおり、教育になると、子の親の教育権というものは教育法上は出てこない。しかし、それを前提にしていることは確かである。そこで、今齋藤さんがおっしゃったように、まさに親の教育権を前提にしながら公教育というものをお考えになっていらっしゃるのだろうと思います。それはそのとおりでいい。教育が私事であったころは、狩猟採取時代や農耕時代の変化少なきときにおいては親の伝承がすなわち教育であった。けれども、産業社会になるとそうはいかない。だから、そこから公教育が生まれた。親の教育では子供の生存ができないから、だから生存権的基本権として、そこにその保障を国に求めるがゆえに、公教育というものはそこに出発をした。親の教育権が親だけでは十分にできないところから、国に十分なる保障を求める、そこに国家教育権説が生まれる。自由化論者の文部省解体論というものは国家教育権否定論者ではないのだろうか。そこまで明確になさらなかったならば自由化教育的体系はできないはずであります。そういうことがなされておるのか否か。自由化論者たちがあのようなことを言っていることは、自由化論に基づく教育体系全体を示したことがあるのか、それなくして教育論だけ自由化論を言っているのか、その実態をお聞かせいただきたい。
  20. 齋藤諦淳

    ○齋藤(諦)政府委員 御指摘の問題に関連いたしまして、例えば第一部会が集中審議をいたしました。そこで、改革の具体例としてどんなものを挙げるか、こう言っておるわけでありますけれども、ここでも義務教育段階における過度の画一化を戒めとか、あるいは学校選択について配慮する等、こういうように述べておりますように、あくまでも公教育というものを前提にいたしまして、公教育のあり方にかかわって議論がなされている状況でございます。
  21. 木島喜兵衞

    ○木島委員 要するに、具体的政策なしのままに自由化という言葉だけが先走っておるということを暗におっしゃったように私は今受け取りましたが、それは私の勝手ですから、ごめんなさいね。今言いましたように、その限りにおいては、自由化論者たちの言っていることは体系的ではないと私は思います。  ついでにちょっと一つ、これは私の誤りかもしれませんが文部省の方に聞きたいのですが、もちろん文部省は国家教育権説に立たれると思いますけれども、文部省に二つの流れがあるように感ずる。一つは、学校教育は国家の専属の事業であるから、例えば、教育基本法の第一条の「教育の目的」に「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、」すなわち国家の構成員の一員を養成するのであるから、国に固有の教育権が存在するのは当然であるという思想、これがさらに発展すると、国は国家存続のために国民を養成する機能として本来的な固有の教育権を持つ。この思想が延長されたのが戦前の日本教育であり、あるいはナチスドイツやイタリーのファシズムの教育であったろうと思うのでありますが、そういう一つの流れ。いま一つは、教育権は自然権として親にある。その親がその権利を有効に行使することができないから、その一部を親から負託され、親の肩がわりとして公教育を行っているのであるという二つがあるように、私の誤解かもしれませんが、感ずるのです。  後段とのかかわりは後に申し上げますけれども、先ほど白川さんがおっしゃいました教育の国際性とナショナリズムとの関係がありますから、あえてそのことをここでお聞きしたゆえんがそこにあります。これは大臣でなくてもどなたでも結構です。
  22. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 国の教育権という言い方がございますが、文部省では国の教育権という言葉はまだ使ったことはないわけでございます。先生御指摘のように、親には自然権としての教育をする権利がございます。それを、先ほど御指摘になりましたように、公教育の沿革におきまして国家に付与する形で現在の公教育が組織されているわけでありますが、今日の民主主義の国家におきましては、親の教育権を国民合意の形で、すなわち国会で定めます法律、教育基本法、学校教育法等の法律に基づいて公教育が組織され、実施されている。そういう意味では、国家は教育についていろいろ決定していく機能を持っているというような考えに立っているわけでございます。これは先生も御承知のように、既に昭和五十一年の永山中学校学力調査事件の最高裁判決でもそのことを明らかにしているところでございます。     〔船田委員長代理退席、委員長着席〕
  23. 木島喜兵衞

    ○木島委員 ついでにあなたに聞きますか。極めて簡単なことです。  公教育というのと教育基本法六条で言う「公の性質」、これはイコールですか、違う要素がありますか。
  24. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 今日の公教育は、国会の議決に基づきます、要するに国民の合意によります法律に基づきまして組織されているわけでございます。その中心は教育基本法でございますので、教育基本法六条に言います「公の性質」を持つものであるということは、公教育の役割とか性格とか使命というものを示しているものであるというふうに考えております。
  25. 木島喜兵衞

    ○木島委員 今教育権の話をちょっといたしましたのは何かといいますと、例えば教育権が親にあるのか、学校にあるのか、国にあるのか、いろいろありましょう。しかし、この論争は一体何か。どこに教育権があるかということは、しょせん教育権のあるところに教育内容の決定権があるとするからでありましょう。先ほどから申し上げております、自由化論者たちが、例えば学校の選択権だとか塾を学校にしろとか何かいろいろ言っていることも、それらはしょせん手段であって、そのことを通して彼らが願うものは一体何かと言えば、教育内容の決定は一体だれかということなんだろうと思うのです。教育内容が目的であって、そのための手段が彼らが言っているところのものだろうと私は判断する。学校の選択ができたからそれで教育の目的が達せられるのではない。教育内容が画一的だから選択制ということである、それは教育内容をどうするかということにかかわってくる問題だと思うのであります。  したがって、臨教審自由化論者たちは、親の教育権説に立つ限りにおいては、国の教育権というものは今御指摘にありましたけれども、しからば国の教育内容決定権は否定するという立場に立たなければならないだろうと思うのです。親の教育権に立つならば、親の教育権を中心に考えるならば、国の教育的機能というものを否定することになるわけでありますから、したがってそのことは、教育内容を国が決定することを否定することになるのではないか。とすれば、文部省の主張するところの法的拘束力だとか、それに基づくところの教科書検定はまさに画一的でありましょう、国定教科書に近い。これを否定しなければ論理的には合わないはずだと思うのですけれども、齋藤さん、そのような議論はなされておるのでありますか。
  26. 齋藤諦淳

    ○齋藤(諦)政府委員 いわゆる自由化論はその内容が論者でさまざまでありますので、意味、内容を確定するのは難しいわけでございます。ただ、臨教審の、特に第一部会を中心としていわゆる自由化論について議論されているその課題では、大学設置基準や許認可条件の見直しを図るとか、あるいは単位制の見直し等によって高等学校教育の多様化を行うとか、義務教育学校の選択について配慮を行うとか、そういう問題が今までのところ取り上げられておりますけれども、教育の内容の問題についてはこれまで特段の議論は行われていない、こういう状況でございます。
  27. 木島喜兵衞

    ○木島委員 報道によると、香山委員は、教科書検定は高校をやってみて、そこで世論の動向を見てそれから義務制を考えると言っている。この程度自由化論者は自由化論者ではないと私は思っております。教育内容の自由化こそ自由化論者の生命ではないのか。それが打ち出せなかったら彼らは自由化論者ではない。  自由化論者までが現在の教育内容決定の道を認めるとするならば、国家教育権に立つならば、親の教育権を否定する。ならば、教育基本法第十条「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負」う、その「不当な支配」、これにはいろいろ議論はあろう。あろうけれども、だれもが否定しないのが公権力による支配でありましょう。これの現在の教育内容の決定権を認めるならば、明治以来の教育の反省から生まれた教育基本法第十条の「教育行政」の項は、戦前と一体どこが違うのですか。反省から生まれたはずなんだ、「教育は、不当な支配に服することなく」というのは。しかし、教育内容こそ教育の中心である。その教育の中心が戦前と同じだったならば、一体教育基本法第十条というのはいかなる位置づけになるのであろうか、私は大変疑問に思います。  続けて言ってしまいましょう。だから、十条第二項の「教育行政は、この自覚のもとに、」諸条件の整備確立をしなければならぬということは、教育内容ではなしに外的条件だけだという解釈の方が素直だろうと私は思う。そういう意味では、なすべからざる教育内容をなすことに大変な努力をし、なすべき外的条件については、予算の削減のごとく、なしておらないというところに、自由化論者たちの文部省解体論があるのではないのか、これは聞いてみなければわかりませんが。しかし私はそういうように感じます。これは齋藤さんに聞いても始まりませんね、自由化論者のことですから。  十条で言いますとどうなんだろう。自由化論者たちは教育委員会の公選制について論じたことがありますか、齋藤さん、どうですか。
  28. 齋藤諦淳

    ○齋藤(諦)政府委員 教育委員会制度、教育行政制度については第一部会で議論する、そういう検討課題には上がっておりますけれども、まだこれについて現在のところ検討には及んでいないという状況でございます。
  29. 木島喜兵衞

    ○木島委員 十条の第一項は、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負」う。政治は元来国民全体に責任を負います。けれども、あえてここに「直接」と言ったのは、公選制を意識してと言われております。だから、私の記憶するところ、高見文部大臣も奥野文部大臣も、任命制は、住民から直接選挙で選ばれた首長が直接選ばれた議員の同意を得て任命するのであるから、それは「直接」という教育基本法の第十条の言葉には反しないとおっしゃいました。直接選ばれた者が直接選ばれた者の同意ですから、間接的であることを逆にみずから認められたということになるわけでありますけれども、いずれにしても、親の教育権というもの、親の学校選択権というものを自由化論者たちが言うならば、選択するよりも——教育委員会の公選制は、村で言うならば、おらの村の子供を、おらの代表が、おらの意思をくんで、そしておらが願っておる学校をつくるということです。その思想です。そこに公選制がある。選択制よりも公選制の方が、彼らが選択権を言っているならば、その方がよりその主張に適合するはずである。それを言っていないとするならば、彼らは教育行政について一体何を考えているのだろうか。こう言っても、いなければしようがないのだよ。だが、こういう議論があることを、私が最初言ったごとく、彼らはいろいろな意見を聞いておるけれども、国民の代表である国会の意見を聞かぬでもいいのか。そして、その結論を出していいのか。ほかのいろいろな団体の意見を聞いておる、そしてその結論を出して、国民の代表である我々の意見を聞こうとしないのか、ここに私は怒りがあるのです。だから、つい言葉が厳しくなって申しわけありません。委員長、勘弁してください。そういう点はもし議論してないとするならば大変遺憾であります。  次に、平等主義ということが個性主義に変わり、自由化論に変わっておりますけれども、憲法二十六条の「能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」、「能力に応じて、」だから、すべての人に同じレベルの内容を画一的に与えるというものではない。だから能力に応じてなんです。その「能力に応じて」を前提とした「ひとしく」、すなわち教育の機会均等、平等主義がうたわれておる、それが二十六条であります。  この近代市民社会の指導理念である平等主義というものは、自由というものと少しも矛盾をしない。近代をつくっているまさに車の両輪でありましょう。しかも、平等主義の教育が今、日本で完成しているか。私はそう思っておらないのです。例えば、養護学校が義務制になったのは六年前の五十四年でしょう。戦前の国家目的に有効性を持たないものは教育から切り捨てられた、その流れがずっとあるわけですよ。養護学校が義務制になったのは今日やっとですよ。しかも、そこに現在多くの問題がある、平等の問題である。これがいささかもなされておらないで、今自由化論者たちは平等を切ろうとするのか。彼らは平等主義と画一主義を混同しているのじゃないですか。平等主義を捨てて、今後の教育のあり方は個性主義だ。その個性主義というのは、天谷部会長の言うごとく自由化論とそう変わりはないと言っておりますが、そういうことでこれからもいくのであるか。あるいは、今まで平等主義が強く出ておったから、個性主義が弱かったから、そこで個性主義を重視しながら両者のバランスをとるというのであるか。第一部会のメモを見る限りにおいては、そのバランスをとるというようには読み取れない。近代市民社会をつくってきた平等主義に対する彼らの見解、そういう議論がなされておったのですか。齋藤さん、どうですか。あったか否かで結構です。
  30. 齋藤諦淳

    ○齋藤(諦)政府委員 この集中審議メモにも明らかになっておりますように、個性主義というものを前面に出しているわけでございます。だからといって、平等主義とか機会均等、そのことを没却する議論はなされていない、こういう状況でございます。
  31. 木島喜兵衞

    ○木島委員 しかし、第一部会のメモにはそれが読み取れない。  私は、自由化論者たちが親の教育権というものに新しい視点を当てたことをむしろ喜んでおる一員であります。新しい石を投じてくれたと思っておるのです。確かにだれもが親の教育権というものを自然権として認めておる。けれども、今日の公教育というのは親の負託によって成立しているのですけれども、果たして親がみずからの意思で第三者に委託したことがあるだろうか、少なくとも国民は具体的なその意識を持っているだろうか、そういう意味では、親の教育権というものに新しく目を向けさせたという点については私は感謝しております。  さっきも申しましたように、義務教育という言葉の中には強迫教育だとか強制教育という言葉があって少しも不思議に思われなかったような時代があるごとく、教育というものは強制をしておる。親に対する強制によって、負託者に対する強制によって公教育は成り立っておる。けれども、それじゃ義務教育に行かせなかった親を刑罰をもって処するということはまさに負託者に対する処置であろうか、私もまた疑問に思う一員であります。だから、親の教育権の負託という架空の論理によって学校教育というものが教育を独占してきた、そこにあるいは今日の教育荒廃の大きな原因の一つがあるのかもしれない。そういう意味で、親の教育権に立ち返って教育体系を立て直すことが一つ改革の方向であるかもしれません。なのに、何ら具体的政策提示なきままに終わっていることはまことに残念であります。それが出れば出たで大変におもしろいだろう。一つ教育体系が出たら大変おもしろい議論になるだろう。それがない。彼らの言う二、三の政策の一つである学校の選択権、それがもし今日の教育を救うのであるならば——今の高校というのは非常に幅広く選択自由なところでしょう。選択が自由であるから集中する。集中するから、したがって生活の知恵で偏差値で輪切りにしておるのじゃないのですか。そこに今日の教育の荒廃がある。だから、彼らが言っている学校の選択などということだけで教育がよくなるわけはない。悪くなるだけだ。もしそうであるならば、まさに一流大学に集中するのでありますから、一流大学を出て、いい地位、いい待遇を得る、その家庭は文化的な家庭生活、経済的な条件、それを通してその次の子供たちによりよき、より有名校を受験するところの技術を習得せしめる、それによって彼らは再び高い地位と高い待遇を受けるであろう。かくして封建時代の士農工商の身分社会から解放されたはずであるけれども、新しく学歴によるところの身分社会が今日できつつあるじゃありませんか。それを一層促進することになるのだろうか、彼らの言うとおりにしたならば。富者にとって教育自由化は、貧者にとっては教育の不自由化であろうと言われる、そこがゆえんである。金に応じたところの平等であり、金に応じたところの教育の機会均等と言われても仕方がないじゃありませんか。  まとめてここでもって一つの区切りにいたしますので、大臣の御所見を承ります。
  32. 松永光

    松永国務大臣 私は、臨時教育審議会でいろいろな議論がなされておるわけでありますが、先ほど事務当局が答えましたように、親の教育権とか国家の教育権、こういったことの議論がなされておるとは承知いたしておりません。ただ、臨時教育審議会意見がまとめられたならば、その意見は内閣総理大臣提出され、それを尊重する義務があるわけでありますけれども、制度の改革を伴う場合には、当然のことながら国会の論議をいただいて法律の形で制度の改革がなされるわけであります。そういう仕組みになっておるのは、先ほど事務当局が申し上げましたとおり、教育は公の性質を持つものであって、いわゆる公教育でありますから、公教育に関しましては国に教育の機能がある、その機能に基づいてもろもろの制度がつくられ、そして法律の定めるところによって行政機関がその教育機能を行使して、教育の内容については基準を定め、あるいはもろもろの制度をつくる、こういうことになっておると思うのであります。  先ほどから教育の機会均等のお話がございましたが、能力に応じて均等に教育の機会が与えられなければならない、私はそれが理想だと思っておりますし、その理想の追求を目指して政府は非常な努力をしてきておるというふうに私は評価をいたしております。なるほど特殊学級その他まだまだ教育の機会均等のための措置がなされて間がない面もありますし、あるいは経済的な理由による均等の確保されてない分野につきましては、御承知のとおり、育英奨学制度の充実とか私学助成等等のことを通じて機会均等のための努力をしておるわけでありますが、これがより一層努力をしていきたい、こう考えております。  なお、日本の社会が、富者は常に富者であって、あるいは上流階級は常に上流階級であって、そういう階級が日本にあるかと言えば、世界の国国の中でも最も階級のない平らな社会に日本はなってきておるというふうに思います。それはどこから来ているか、こう言えば、日本教育は、その人の経済的な力が幾らあろうとも、公正な試験制度で入学が決定されるといったことが実現をいたしておりますので、そういったことが一つ契機になって、日本の社会が階級のない社会になってきておるというふうに私は思いますが、これからもそういう理想は追求をしていかなければならぬ、こういうように考えておるわけであります。
  33. 木島喜兵衞

    ○木島委員 今、大臣日本の階級制がないことは公正なる試験でとおっしゃいました。そこで、大臣が岡本会長に、入試制度の改革は好きにやってくれと御要望になったゆえんあるいはお気持ちもきっとそこにあるかという感じが今したわけでありますけれども、ただ、大臣、例えば入試改革をすると言っても、東京都の場合、公立高校に格差がある、だから学校群をつくった、学校群をつくったら、そこで逆に国立の高校や私立の高枝に受験生が集中して、教育にさらにまた難しい問題を新しく生みましたね。共通一次、あのときには文部省がこれでもって教育の荒廃は随分とおさまってくるということをおっしゃいました。しかし、今またより大きな問題がそこに生まれてきておる。現在、教育が混乱してきたのは一体何か、その根源にメスを入れないで、そして入試制度なら入試制度だけを改めたところで、次の新しい問題が生まれてくる。そういう意味で、四六中教審答申の先導的試行、何を先導的試行するかは別として、先導的試行は私は買います。子供をモルモットにしてはいかぬ、そういうのが教育改革というものだろうと私は思うのであります。けれども、いずれにしても大臣入試だけをという物の考え方は少し短兵急過ぎませんか。そう思いませんか。簡単でいいです。
  34. 松永光

    松永国務大臣 臨時教育審議会は、御承知のとおり三年の時限の定められておる審議会なんでありますが、しかし、先生も御承知のとおり、高校入試大学入試、受験地獄というものが現在の学校教育に非常に大きな問題となっておりますし、またそれは社会問題ともなっております。だから、決して命令したり特に要望したわけではありませんが、世間の関心度からいって、やはり受験制度の改善というのは速やかにやってもらいたいというのが大部分の国民の希望であるというふうに私は認識いたしておりますが、先生もそうであろうと思います。そういうふうに国民の関心の高い分野から先にやってもらえばありがたいなという願望を新聞の人にお話をした、こういうことなんでありますが、私は、受験制度というものはこれでもう完全無欠だというものはなかなかできないものと思います。恐らく、現在の共通一次の問題も、その当時難問奇問その他が出されて、大変な負担、過酷な負担を受験生に課するという問題もありましたので、それを改善する一つの措置としてあの仕組みができたわけであります。それなりのメリットもあったかと思いますが、現在では、メリットもあるけれども、いろいろ指摘されておりますように偏差値中心の問題が出てくる、輪切りの問題があるなどという弊害の面が目立ってきておるわけでありますので、これは改善措置が早くとれればありがたい。これは大学の話でございましたが、高等学校の場合も、公立高等学校の受験の機会が一遍しかないということが、偏差値による進路指導が非常に厳しくなされる。この学校にも受けてみたいというふうな希望があったとしても、一回しか機会がなければ、指導をする教師の立場からすれば、安全をとって、この学校へ行きなさい、こうやらざるを得ない。しかし、数回受験の機会があるならば、多少無理だと思ってもトライさせる、こういったことも実は可能なんでありまして、そういう改善措置も高等学校ではなされればいいことであるというふうに思いますが、大学の場合も、国立大学の場合には一遍しか受験の機会がないということがありまして、そのことが輪切り現象を生んでいる一つの理由になっておるということがあろうかと私は思います。  そういったことで、現在社会問題となっておる、また父兄の関心の極めて高い入試問題の改善、これは早くやってもらえばありがたいというふうに思っておりますが、それが教育改革の大部分とは思いません、一つ改革ではあるというふうに思っておるわけでございます。
  35. 木島喜兵衞

    ○木島委員 今、大臣、弊害だけの入試ではないとおっしゃいましたが、ちょっと話題を変えます。これは齋藤さんにお聞きしたらいいのかな。  中高一貫教育と言いますね。この中には、社会が複雑になり高度化してくるから、したがってそれに即したという式の中高一貫の思想は全く入っておらないと考えていいのですか。全くわからないので聞いているのです。
  36. 齋藤諦淳

    ○齋藤(諦)政府委員 今プロジェクトチームで検討している状況でありますので、部会としてもまだ固まった状況ではございませんけれども、ただ、その中に考えられるのは、例えば情報処理技術というようなものが、比較的若年層からそういうような専門のことに入るという、それを考えた中高一貫教育というものもあり得るのではないかという、そういうような議論が出ておったように聞いております。それが具体的な中高一貫の例になるのかならないのか、私はまだ聞いておりませんけれども、プロジェクトの一員がそういうようなことを言っておられたということを聞いておるわけでございますけれども、そういうふうな意味で、社会の変化が中等教育に対して求めるもの、その社会の変化の中に今先生が御指摘のような問題もあるのではないか、こういうように考える次第でございます。
  37. 木島喜兵衞

    ○木島委員 ちょっと話が別になりますが、学校教育法の七十五条に「小学校中学校及び高等学校には、」「特殊学級を置くことができる。」とありますね。これは大臣でなくてだれでもいいです。なぜ公立の高等学校に特殊学級が日本にはないのですか。小学校中学校及び高等学校に特殊学級を置くことができるとあって、小学校中学校及び高等学校を差別しておらない。ところが高等学校にはない。なぜなんですか。
  38. 高石邦男

    ○高石政府委員 小中学校義務教育でございますので、すべての国民教育をする義務を親に課し、そして、そういう学校を整備することを国、地方公共団体が負っているわけでございます。したがいまして、特殊教育諸学校ないしは養護学校等へ進学する子供達を教育する最も効率的な方法として、それぞれの専門の養護学校ないしは特殊学級そういうものを整備して教育の効果を高めていこう、こういう発想があるわけでございます。高等学校の段階になりますと、一つは、高等学校義務教育でないという考えが前提にありまして、したがいまして、高等学校の持っている教育目的、目標を達成するにふさわしい能力、適性を持っている人を選抜して教育する、こういう仕掛けになっておるので、義務教育という概念がないということから高等学校に特殊学級を置かなかった。ただし、それに対比するような形で、養護学校という学校の中で高等部、そういうものを整備して、そういう心身のハンディキャップに対応する教育を一方において整備する、こういう制度に現行制度はなっているわけでございます。
  39. 木島喜兵衞

    ○木島委員 養護学校と特殊学級は違う。全然違うよ。
  40. 高石邦男

    ○高石政府委員 学校教育法第七十五条には、「小学校中学校及び高等学校には、次の各号の一に該当する児童及び生徒のために、特殊学級を置くことができる。」法制上あるわけでございます。「できる」ということでございまして、したがって、そういう学級を高等学校レベルに置いていない理由は何か、それぞれの府県に設置していない理由は何かというと、先ほど申し上げたような考え方から置いてないということでございます。
  41. 木島喜兵衞

    ○木島委員 そこで、あなたは先ほどそれに相当する部分は養護学校の高等部に置いていると言っている。特殊学校と特殊学級は違う。性格的に違う。レベルが違うんだ。障害のレベルがぴちっと規定されておる。そんな論理にならぬ——どうして小学校中学校高等学校にという、確かに小学校中学校は市町村立、高校は公立ならば多くは県立でしょう。だが市町村立には国は奨励をし補助をしておる。高校にはしておらない。なぜしておらぬ。つくるならばこうしますよということがあればいいでしょう。なぜしないのです。
  42. 高石邦男

    ○高石政府委員 基本的には、先ほど申し上げましたように義務教育であるかないかというのがまず一つの政策の分かれるポイントであろうと思います。したがって、現在の時点では高等学校のレベルに特殊学級を置くための奨励のための補助金とかそういうものを政策としてとっていない。将来そういう状況を見た上でどういう政策をとるかということは、時代の推移を考えて対応していかなければならない問題であると思います。
  43. 木島喜兵衞

    ○木島委員 このことが中心の議論じゃございませんから、もうこれ以上はやめますけれども、ただ、これはむしろ法律家である大臣にお聞きしてもいいのかもしれません。  憲法二十六条第二項「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」とある。これは文理解釈するならば、この場合国民は親と考えていいです。親はその保護する子女——保護する子女とは一般的には二十歳以下であります。しかし、例えば日本の法律では、児童福祉のように十八歳まで、保護する子女を十八歳以上にしているものはありません。そうすると、親は十八歳まで普通教育を受けさせる義務を負う。普通教育に対する言葉は何かと言うならば、それは高等専門教育大学であります。したがって、このことを言うならば、親は十八歳までの普通教育を受けさせる義務を負う。すなわち高校全入の思想、高枝義務制の思想だと思う。そのことは余り固執しません。しませんけれども、私の理解は、例えば今日九四%入学しておる、じゃ六%は一体何か。確かに行きたくないという子供もいるでしょうけれども、一つは経済的理由でありましょう。その経済的理由は、教育基本法第三条第二項によって「国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。」と法的にできておるし、一方もう一つの、いわゆる能力がなくてと言われる、そこに学校教育法七十五条の特殊学級の規定がある。すなわち憲法二十六条の二項の義務制の思想は、一方においては経済的に困難な者に対するところの奨学の道と高校におけるところの特殊学級という義務的な高校に対するところのその法制の体系ではないのか。もしそのように理解するならば、今日高校はあえて入試が必要ではないのではないか。今日九六%のうちの九八%が入学しておると言われておる。とすれば、小学校の分数ができない子供高校に入っておるならば、もはや高校における選抜とは一体いかなる意味を持つのか。今日、高校を出なかったらまともな就職ができず、まともな就職ができなかったならばまともな生存ができない。とするならば、高校までが生存的基本権になるのじゃないかとすら思う。とすれば、高校入試というものは一体何であるか。だからこそ昭和二十二、三年ごろは高校入試が原則的にはなかったですね、文部省の通達によって。そのような一貫した思想が流れておったと思う。だから、私があえてここで言うのは、そういう立場に立って高校入試を考え直す時期に来ておるのじゃないか、その辺の判断をいただきたい。
  44. 松永光

    松永国務大臣 先生御指摘の憲法二十六条の第二項はいわゆる義務教育に関する規定だと思いますが、その憲法の二十六条二項の規定を受けて具体的に基本を定めてあるのが教育基本法の第四条だろうと思います。これには義務教育の期間は九年となっておりますので、私はそう理解をするわけでありますが、先ほどの御指摘は、高等学校に特殊学級がないのはどういうわけだということでしたが、義務としてやる分については特殊学級を設け、義務でない分野については、これは先ほど先生のおっしゃいました教育の機会均等という精神をより一層拡充していくために、国の方で助成等の措置をして、県の段階で高等学校に特殊学級を置くというふうなことがやはり将来の政策課題として検討に値する問題ではなかろうか、こういうふうに私は思うわけであります。  なお、高等学校入試の問題でございますが、今申し上げましたとおり、義務教育小学校中学校九年間となっております関係上、高等学校義務教育ではないというふうに私は理解いたします。現在の高等学校入試制度は改善する余地はたくさんありますけれども、入試制度そのものは存続されてしかるべきだと思います。というのは、入学を希望する者にとっては自分の能力や適性等に応じて進路を選択する機会でありますし、入学を許可する側にあってはその学校の教育方針等その特色にふさわしい者を選択する場でもある、そういうことから、入学者選抜制度を廃止するという考え方には私は立っていないわけであります。
  45. 木島喜兵衞

    ○木島委員 大臣の答弁に余り固執しませんけれども、憲法二十六条は「すべて国民は、法律の定めるところにより、」云々とありますが、この「法律の定める」というのは、この九年というのは基本法にあるわけですから、もし必要なら法律を変えればいいのです、基本法を。(「変えてはいかぬ」と呼ぶ者あり。)いや、私は今文部大臣に聞いているのですよ、臨教審じゃありませんぞ。臨教審は基本法の精神にのっとり……。これはまあいいです。  齋藤さん、国際化教育というのはどうなんですか。国際性とか国際化とか言っているけれども、結局九月入学だけですか、具体的には。
  46. 齋藤諦淳

    ○齋藤(諦)政府委員 国際化の問題はいろいろな観点から今後も議論されることになろうかと思いますが、九月入学との関連では、一つの観点として国際化ということが言われておるわけでございます。ただし、九月入学云々の問題については、単に国際化だけではなしに、大学入試との関係でありますとか、学期の適切な季節でありますとか、そういうことも一緒に議論されているわけでございます。
  47. 木島喜兵衞

    ○木島委員 その国際化ということ、これは言うまでもないことでありますけれども、少なくとも近未来社会というものは、各国民、各民族はそれぞれ相互依存度が高まってきて、世界市民、地球社会市民というような連帯意識を持たなければ生きていけない時代になるであろうということを想定しながらでありましょう。だから、私が心配なのは、今日日本教育というのは、明治から敗戦までは教育を富国強兵の手段としたナショナリズムが支配してきたところに日本教育最大の特色があると思う。そこで、伝統的な国益性だとか狭いナショナリズムということと、人類普遍の目標を目指す教育というものが時に矛盾することがある。愛国心教育と矛盾するのじゃないだろうか。とかく愛国心と言うときには、日本の独自性というものを強調し過ぎる。独善的、自己満足的な要素を持つ。このことが国際性と相反する。そういう日本教育の歴史があっただけに、国際性ということを論ずるときに、一体どういう具体的な政策が出るかということに私は非常に関心を持っておったのでありますが、今のところ出ておるものは九月入学くらいのものである。  それでは、その九月入学というのは一体どうなのかというと、子供たちのことをだれが一体考えているのかということを私は心配する。高校を卒業した子供たち高校先生方は浪人の面倒を見ないごとく、卒業した人間をたとえ面倒を見てやりたくたって、新しい子供は入ってくるし、教室は満杯なんだから面倒を見る余裕はないでしょう。もし仮に八月の入試だとするならば、それまでの間だれもが塾へ、予備校へ行かなければならなくなるでしょう。そういう意味では、六・三・三・四制ではなくて、六・三・三・三分の一と四制だ、一学期だけ予備校へ行きますからね。そういうことになってくると、有名予備校がまた入試をしなければならなくなってくるんじゃないの。そのようなことをなぜしなければならないか。子供たちは一体どうなるのだろうか。だれが子供のためを考えているのだろうか。私はその点が一番心配であります。  付随してもちろんいろいろな問題があります。例えば予算編成。あるいは私立学校は、中高が四月で大学が九月になると、一つの法人ですから一つの会計だけれども、大学と中高以下は会計を別にしなければならぬといったって、一本なんですね。そういうことだとか、あるいは採用に際しても、四月採用の高校、九月採用の大学となると、学歴社会を助長しませんか。そういう心配もあるのでありますが、いずれにいたしましても、そういう中でなぜ——みんなならいいのです。小学校から全部ならいいのです、そして画一主義でなければ。「サイタ サイタ サクラガサイタ」なんて言ったって、四月に桜が咲いたって、沖縄では、散った散った桜が散ったということになる。北海道では、桜はまだかいななんという歌を歌うことになる、画一性をなくせばね。それならまたそれで一つの理解の仕方も出てくる。一体なぜ大学だけが九月という発想がそこに出てきたのだろうか。ちょっとわからないのです。しかし、これは齋藤さんに聞いてもわからないのかな、あなたは委員じゃないからね。じゃあ、やめます。  共通テストの問題。結局、共通テストの思想というのは、入試センターを大学入試問題作成所に変えるということですな。そう理解していいですか。そんなものだな、あれは。
  48. 齋藤諦淳

    ○齋藤(諦)政府委員 確かに、共通一次ではなしに共通テストになりますと、大学によっては、利用することができる、できないということになりますので、先生御指摘のような傾向も出てまいろうかとは思います。同時に、共通テストの考え方の際には、いかにして高等教育と後期中等教育との継続を考えるかというその仲介のところを、進路指導とか情報の提供とかを十分行う必要があるのではないか。そういう立場からも大学入試センターの役割というのは随分あるのではないか、そういうことが同時に検討されている状況でございます。
  49. 木島喜兵衞

    ○木島委員 中曽根内閣の三つの改革、すなわち教育改革、行政改革、財政改革。この教育改革と財政改革関係について言うのでありますが、具体的に言うと、一つは、自由化論というのは言うまでもなくフリードマンから出ているということは世界周知の事実です。フリードマンはバウチャー制度から出発しておる。ところが、あれがアメリカでもってちっとも成功しないし、批判があるのは何かと言うと、子供たちを集中させるためにはよき教師を高い給料で集めなければならないし、あるいは校舎や施設や設備をよりよきものにしなければならぬから、バウチャーの一定の金額では足らないから、したがって余計金を出す。すなわち、貧者には冷たい、貧者に対する理解がない。それがフリードマンのバウチャー制度に対する批判の一番中心でしょう、アメリカにおいて。  そこで、彼らの言う式に自由化論でもっていったら、少なくとも今日それを成功させるには日本の場合は今の二倍の金が要るであろうと言われておる、バウチャー制度で行くとするならば。そういうことが今日の財政事情の中で許されるんだろうか。第一部会は個性主義を打ち出した。さっきも言いましたように、もう決まったごとくに「画一主義から個性主義へ」とこの「臨教審だより」の表紙にある。しかし、もしも個性主義でいくとするならば、子供たちの個性を大事にするならば、四十五人の学級でもって一人一人の個性を伸ばすなんということができるわけがない。アメリカでは公立学校の平均生徒数は、一九八二年の調査でありますが、十八・九人であります。一番少ないのはアラスカの十三・二人。一番多いのはカリフォルニアの二十三・三人。今の子供たちを半分にすれば教員は倍要る、半分にすれば教室が倍要る。そんな金が今日あるのか。それで個性主義が成り立つのか。やるかやらないかわからないけれども、教員の試補制度の導入ということがある。これは教員採用数の一年分の賃金だけは最小限必要である。九月入学私学に対する補償だけでも二千五百億と言われる。  今ぽんぽんと挙げただけでも、こういうものが、今日中曽根内閣が三つの改革だと言っておる、その改革の中に財政改革がある限りこんなことはできるんだろうか。できないことであるならば、架空の議論はやめてほしい。どうなんですか、大臣、そんなこと今やれるんでしょうかね。
  50. 松永光

    松永国務大臣 個性主義の推進ということについて、先生御指摘のようにいろんな討議がなされているようでありますが、その中では例示として、官公庁や企業の採用基準の見直しとか、大学設置基準の見直し、こういったことが指摘されているわけであります。  この教育改革の論議と財政の論議でありますが、これは必ずしも同列に論ずべきことではないのでありまして、視点が違うし、また検討の仕方も違うわけでありまして、臨教審の方で財政に関する論議がなされておるとは承知しておりません。
  51. 木島喜兵衞

    ○木島委員 この臨教審に対する諮問ね、二十一世紀に向けてとか二十一世紀を担うとかといろいろ出てきます。二十一世紀といっても、二〇〇一年と二〇九九年では、この百年間では過去の百年間の変化などではなしに、もっと幾何級数的な変化が予想される。最初に申しましたように、教育には子供たちの日々が充実したものでなければならぬと同時に、あすへの準備がある。その準備の、未来がいかなる社会になるのか、その未来の社会の構造というものがわからなかったならば、子供たちにいかなる準備をさせるかという準備の教育というのは成り立つのだろうか、その未来は見えておるだろうか。二十一世紀というのは、二十一世紀の前半だけを、二十一世紀の当初だけを言っているのじゃない。諮問は「二十一世紀」と言っている。二十一世紀は二〇九九年まで含める、それが見えているだろうか。  時間がありませんからもう少ししゃべってしまいます。  例えばダニエル・ベルの脱産業社会論から、トフラーの第三の波、いろいろな未来学者たちの、高度情報化社会だとか高度サービス社会だとかいろいろあります。けれども、彼らは産業社会の終わりを告げて新しい未来社会が来るであろうとは言っているけれども、それではどんな社会が来るかということは明示しておらない。彼らもわからないでいる。だれもが言っておらない。共通するものは、科学の無限の進歩が人類を無限の幸福に導くといったその科学信仰というものが崩れた。人類が自然を征服することによって幸福を得られるとしたその科学は、自然破壊や資源の枯渇によって人類の生存と深くかかわってきたことがだんだんとわかってきた。よく言われる先進国病だとかヨーロッパ病だとか、これは一体何か、私もよくわかりません。けれども、少なくとも産業社会における人間疎外に対する意識的、無意識的な抵抗ではないのか。ヒトの身の安全を求める本能的な表現ではないのか。その意味では核兵器はまさにその象徴でありましょう。両陣営にとって、人類が絶滅し、壊滅してもなお、社会主義社会が、資本主義社会が、イデオロギーがそれほど許せない体制なのか。ヒトの安全を求める本能のうごめきが世界の核廃絶運動の基本であるかもしれない、根源であるかもしれない。いずれにしても、人類全体が基本的なところで間違った方向を走っていることだけはわかる。しかし、新しい時代をつくらなければならない。けれども、それがまだわからない。そのときに、その社会構造が見出せないときに、その中に生きる人間を、その未来に生きる準備をする教育、未来の準備教育を組み立てることができるのだろうか。ここに、どの国もまたその危機を感じながら、教育改革をやろうとしておって、その方向性を見出せないでいるのではないのかと思うのですが、どうお考えでありますか。     〔委員長退席、船田委員長代理着席〕
  52. 松永光

    松永国務大臣 二十一世紀がどういう社会になっておるか、的確にわからない面も実はあると思います。しかし、ほぼ明らかなことは、高齢化社会になるであろう、あるいは国際化がさらに一層進んでおるであろう、科学技術の進歩がさらに一層なされているであろう、情報化社会に入っているであろう、こういったことはほぼ確実に予測をされておるわけでありまして、そういう社会になった場合のこの日本の国家社会を支える人々は、どういう能力を持ったあるいはどういう意識を持った人でなければならぬか、こういった視点から、日本教育はどうあるべきか、こういうことで、二十一世紀を展望した教育のあり方についての現在の教育に関する諸問題を踏まえた上での改革意見を出してもらいたいということで、臨時教育審議会の審議は進められておるものというふうに私は理解をいたしております。
  53. 木島喜兵衞

    ○木島委員 ならばこそ私は、二十一世紀とは一体いかなる時代か、二〇〇一年と二〇九九年ではでかい違いだ。それが諮問されておるのであります。高齢化社会なんというのは今からわかっておる。そんなものではないでしょう。臨教審が第三の教育改革だ、あの明治の初めの改革、敗戦後の改革に次ぐところの改革というものはそんなみみっちいものだろうか。  私は、そういう意味で、わかりませんが、もし不明であるとするならば準備教育というものは成り立たないでしょう。けれども、人々は幾何級数的に変化する社会に、その変化のそのときそのときに学習をし、そこに生きる、そして次の文化を創造する、それ以外にどうにもならないんじゃないのか。そこに学習社会の創造という問題が出てくるのでしょう。ただ、そういう方向だけはみんな言われておるけれども、しかし、いまだその総合的なモデルはだれもが提示をしておらないようであります。そういうものに一つの試みとして挑戦するのが臨教審じゃないのかという感じがいたします。  人間は、ホモサピエンスとして出発して以来、勤勉を最高の道徳として訓練されてまいりました。だから、生活を楽しむことを罪悪とさえ言われてきた。日本が一日八時間の労働に法定されたのも人類の長い歴史の中から見たらつい最近の話でしょう。しかし、労働時間は急激に短縮されるでしょう。その余暇は急激に変化する社会から生まれる、まさにそれは同根である。その余暇と急激に変化するところの社会、その中に新しい学習社会を構想する基本があるのではないんだろうか。  憲法二十六条は教育を受ける権利を言います。教育を受ける権利は、これは義務教育学校教育を言っているのじゃありません、生涯を言っているのであります。生まれてから死ぬまでを言っているのであります。だから、教育基本法第二条は、「教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。」と国にその保障を求めております。その保障を急がなければならないでありましょう。そうなったときに、学校教育というものは生涯学習の一環であり、その一部にしか値しない。その教育はきっと高度の基礎教育とか高度の基礎研究というものが中心にならざるを得ないだろう。なぜならば、変化が激しいのですから、すぐ使える知識、すぐ使える技術はすぐ使えなくなりますから、したがって基礎というものが、基本というものが一番中心とならざるを得ないだろう。そういうものになっていくのじゃないかと想像するのでありますけれども、いかがなものでございましょうか。
  54. 松永光

    松永国務大臣 先生の卓見を承ったわけでありますが、二十一世紀を展望する場合にもろもろの変化が予測されることは、先生も御指摘されたとおりであります。  ただ、二十一世紀という百年の間がどうなるかということは、これはなかなか予測しがたい面もありますが、いずれにせよ、二十一世紀に向けて日本の社会あるいは世界の情勢を展望する場合に、先ほど申したとおり、国際化の問題、あるいは高齢化の問題、あるいは科学技術の進歩の問題、情報化社会の問題等々、確実に予測されるわけでありまして、そうした変化に対応しながら二十一世紀の日本の活力ある社会をつくり上げていくための教育はいかにあるべきかということで、臨教審では議論をしていただいておるわけであります。  なお、教育というのは、先生も御指摘のとおり、学校教育だけではなくして、社会教育あるいは生涯教育家庭教育、すべての分野での教育が人間を育成していくわけでありますから、いずれも大事なことであると思いますし、また、科学技術やあるいは学問の分野では、先生も御指摘のように基礎的な分野がまさしく大事であると思うのでありまして、特に学校教育等の分野では、基礎的なものをきちっと子供たちに体得させていくことが大事なことであろうというふうに私も思います。
  55. 木島喜兵衞

    ○木島委員 もう少し議論を詰めたいところですけれども、もう時間がありませんので……。  そこで、もし仮に一しかしこれは仮ではなくても、学習社会をつくるという方向にだけは間違いなく行くでしょう。そのときに最低限必要なものを二つだけ申し上げておきましょう。  一つは、生涯というのは生まれてから死ぬまででありますけれども、三歳以下は今日教育の対象になっておりません、幼稚園は三歳以上からですから。ところが、三つ子の魂百までと言いますけれども、三歳までに人間の脳機能は六〇%できる。私よくこう言うのです。日本社会党の輝ける元委員長佐々木更三は八十を過ぎてもなおずうずう弁であります。彼は、生まれたときは言葉を知らなかった。ところが彼の周囲はずうずう弁であるから、したがって八十過ぎてもずうずう弁であります。逆に、外国人の学者なら学者がここに十年、十五年おっても、しょせんそれもまた外国人的日本語でしかない。それは何か。要するに、三つ子の魂百まででもって、生まれたときの環境によるものが生涯変わらないと同時に、幼時のときでなければできないものが単に言葉だけでなしにあるということを外国人的日本語は証明する。だから、その意味において三歳までの教育というものは非常に大事である。したがって、少なくとも両親に、どちらがとってもいいが、その率は別として有給の育児休業がなされなかったならば、育児休業法が婦人全体になされなかったならば、その三つ子の魂百までの三つ子の魂ができなくなって、そして、婦人の社会進出はいいんですけれども、そのためにしつけや家庭教育がおろそかになって、学校の先生が朝飯食べてきたか、うんちしてきたか、それで個性教育なんてできるわけないですよね。少なくとも、家庭教育をどう充実させるか、この道をどう考えるか、その一つとして、私は育児休業というものがすべての親に与えられなければならないと思う。  もう一つは、もう言うまでもありませんけれども、有給教育休暇をどうつくるか。有給教育休暇というのは一九七〇年にイタリーの鉄鋼同盟が団体交渉でとったことから始まるのでありますけれども、今日、一九七四年にILO百四十号条約は有給教育休暇の条約をつくっております。日本は批准しておりません。けれども、これがなかったならば、急激に変化する中で未来が描けられない中で、いつでもどこでもだれでもが常に教育を受けることができるというチャンスはなかなか与えられない。  例えば、社会人の入学状況を見ても、確かに今日、数がふえて二十八の大学、全大学の六%、別枠でもって入学を許可しているのは学生数にして四千三十三人、大学生百八十万人とすれば〇・二%でありますけれども、それは主に自営業者や主婦であって、サラリーマンは行けない。なぜなら退職しなければならないからです。これを最小限つくらない限りにおいては、学習社会というものの基本をいかにつくったところでだれもが利用できなくなるであろうと思うのでありますけれども、御見解を、時間がありませんから簡単に。
  56. 松永光

    松永国務大臣 人間は生まれて三歳までの間に脳の機能の六〇%以上ができ上がってしまうという先生の御卓見をいただいたわけでありますけれども、私もそういう話を聞いたことがございます。その意味で、乳児期における家庭教育というものが非常に大事であるというふうに私も考えております。  ただ、家庭教育というものは、それぞれの家庭、それぞれの家族の責任においてなすべき事柄でもありますので、そうたやすく行政が介入していくということもこれは問題があろうかと思うので、それぞれの家庭でいかに自分の産んだ子供を立派に育てていくかということをお考えになりながら、それぞれの御家庭の実情に応じて家庭教育あるいはしつけの教育をしていただくべきものではなかろうか、こういうふうに思います。婦人の社会進出の問題もありますけれども、子供教育というものも考慮に入れながらそれぞれの御家庭で対処すべきことであろうというふうに思うわけでございます。
  57. 木島喜兵衞

    ○木島委員 結構でございます。いずれにしましても終わります。  先ほど申したとおり、臨教審国民の大きな期待を背負って出発しました。先ほど言うとおり、戦後教育の総決算などと言われるから、四十年間の全面的な教育の見直しかと国民は期待するでしょう。第三の教育改革なんて言うから、先ほども言ったとおり、明治、戦後の教育にかわる教育と思うから、壮大なる教育改革が出るだろうと思っているだろう。そして鳴り物入りで宣伝された。またマスコミもよく利用した。そのことを通して教育の、今日の弊害というもの、荒廃というものがここで一掃されるだろうと国民は期待しておる。けれども、新聞の報道で見る限りにおいては、そのような壮大なプランの気配はいささかも見えない。つまらない、九月だとか中高一貫が目玉だなんて、そんなものは臨教審でなくたって、文部省だってやれるでしょうが。そんなもの臨教審の知恵をかりなくてやれない文部省だったら、(発言する者あり)今まさに馬場さんが言ったように、そんな文部省なら解体だ。やるなら、もう少し壮大な長期展望に立った、まさに文明の転換期に、歴史の転換期にあるという、それにふさわしい改革案をつくられることを希望して、私の質問を終わります。
  58. 船田元

    ○船田委員長代理 次回は、来る二十九日金曜日午前十時理事会、午前十時三十分から委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。     午後四時二十四分散会