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白川委員 今日の
日本の
教育が抱えている問題は相当多岐にわたると思いますし、それらの
解決策というのは言うはやすく行うはかたい問題が相当あるというふうに私も感じております。ただ、そんなことで
臨教審が
発足をいたしましていろいろな御
議論をしているようでございますけれども、事こういう大事なときに、
臨教審もそうでございますが、また同時に
臨教審がすべての
教育問題を取り扱っているわけではございません。
教育は一日も休むことなく、現場の
先生方、
文部省の
方々、
教育関係者が一生懸命日々
改革しなければ、
臨教審の
結論が出たらそのときからよくしますが、それまでの
生徒さんは不幸ですね、それまでは
解決策はできません、こういうことではいかぬのではないかなと思うのでございます。
そこで、私申し上げたいのは、私の好きな
言葉に「一利を起こすは一害を除くにしかず」という
言葉が大変好きな
言葉としてあります。中国の名宰相と言われる人が、
政治の
要請は何ですかと言われたら、
一つのいいことをやるなんというよりも、だれが見てもこれは明らかにいかぬと思うことを着実に除くことが最高の
政治の
要請ではないでしょうか、こう言われたそうでございますが、
教育問題も、例えば
松永文部大臣が
自分の在任中にすべて
快刀乱麻に
解決する、こう力まれてもなかなか
解決できない問題なのではないかな。それよりも、だれもがこれだけは明らかに
改革をしなければならないというようなものを、
大勢の
関係者が
努力によってまず
一つ一つ解決していく、その
積み重ねがまた我々が理想とするような
教育状態につながっていく
最大の一番確実な方法ではないかと思っております。ですから、私の
質問が終わる最後で結構なんですが、
大臣が
文部大臣に就任されて、あえて
一つというならば、今回の
教育改革の中でこの問題だけは是が非でも
解決しなければならないと思っておるものは何であるか、これをしかと承りたいと思いますので、いろいろあってどれというと難しいかなと思いますが、ひとつしばらくお考えいただきたいと思います。
それで、私は、
大臣並びに
関係の方に若干
意見を申し上げるとともにお聞きをしたいのでございますが、
臨教審というものが去年
発足をいたしました。そして、いろいろな形で今
議論がされておるわけでございまして、それはそれで結構だ、こう思うわけでございます。そして、できるだけ
臨教審の
議論がオープンであって
国民と一緒に考えながらいろいろな問題を進めていくということは、私は全く大賛成なんでございますが、同時に、
教育というのは今や本当に個々の
家庭にとりましても日々の問題なのでございます。そして、いい悪いは別として、現在あるいろいろな制度であるとか
現状というものにまずどうやって対応していこうかということで、大変な
努力をされているわけでございます。過熱する
受験戦争と言われましても、やはり
現状では
入試地獄をくぐり抜けなければ、
自分が本当に希望する
大学に行けない、
自分が期待するような
大学に行けない、あるいはそういう
教育は受けられないというところから始まるわけでございまして、当事者にとってみれば大変深刻なしかも
現実の問題であるわけでございます。そういう多くの方がいるにもかかわらず、今
臨教審の
議論というのが、まさに
教育の真っただ中にあって子育てあるいは
子供から見たならば
受験戦争に備えているという
人たちの、本当にナーバスな感情を十分配慮しているのだろうかと思われるような幾つかの点が見受けられないでもないわけでございます。例えば九月
入試というようなことは、
教育専門家の間ではかなり前から
議論されていたと思うわけでございますが、一般の
国民の
方々から見たら、「
サイタ サイタ サクラガ
サイタ」というので、
入学というのは四月だろうというふうに、これは昔から
日本人の頭の中にこびりついているわけでございます。それが、ある日突然、今度は九月
入学にしたいと思いますと、それこそ
臨教審の答申でも出たら、来年からでも九月になるのだろうかというような
印象すら
現実にあるわけでございます。私は、そういう
議論をすることと、そしていろいろな
議論の中でいろいろな
意見が出てくることと、
現実に進めてくるという間には相当のタイムラグがあると思うのです。それらについては十分な
国民の理解が得られるような周到な配慮というものも必要なのではないかと私は思うわけでございます。
例えば、
教育の
自由化というような問題についても、いずれにしろ
義務教育の段階に
自由化を持ち込むというのは、その精神でやろうということになったとしても、それがカリキュラムの中であるいは
教育課程の中で
現実に施行されるためには
相当程度の
準備期間が要るわけでございます。ところが、あたかもすぐにも
自分の希望する
先生のところに行けるようになるのだというような
印象を、例えば
小学校、
中学校から既にそんな
印象を持っている。私も体験がありますが、
小学校の
先生の中でも
子供に評判のいい
先生というのはおります。あの
先生に教わったらいいなというのは私だって
子供ながらに思ったものでございます。私なんか
兄弟がいっぱいいたものでございますから、
兄弟からあの
先生はいいとかというのを
自分なりに聞いて、その
先生が担任になればいいななんというのは、それこそ
小学校のころから思うものでございます。それが正しい正しくないは別にして、
子供の
世界にもあの
先生はいいとかあの
先生は嫌だなというような
評価があるのでございます。例えば
子供たちが、来年からは
自分の好きな
先生が選べるようになるのだということを
お母さんから聞いたりしたら、それこそ来年からそれを執行しないと、何だ人をその気にさせておいていかぬなということに相なろうかと思うのでございます。
臨教審のメンバーの
方々にもそういう点の御配慮はいただきたいなと思うわけでございますし、
臨教審と
文部省がどういう
関係にあるのか私はよく存じておりませんけれども、
現実に今、日日進んでいる
教育について責任を持つのはあくまでも
文部大臣を中心とされた
文部省御当局であるわけでございます。現場を預かっているのは
文部省でございます。
臨教審はそういうことの
改革の方向をいろいろ
議論をしている機関にすぎないのであって、よしんば
一つの
結論が出たとしても、それを
現状の中であるいは現場で混乱がないように執行していくとしたならば、その責任者がまた
文部大臣であるわけでございます。
そんなような
意味で、
臨教審で現在
議論をしていることは結構なんですが、それらの発表の仕方、中には
臨教審メンバーであるということを殊さらにある面では誇示しながら、
自分の私見と思われるものを積極的に外部に必要以上に漏らし、賛同を得るというような傾向すらあるような気がするわけでございます。こういう、今の
教育改革を進めている実態、
臨教審というものがある、一方では
文部省がある、そして一方ではそれらの動向をじっと見守っておる
教育の現場というものがある、こういう非常に難しいとりあえず三者の
関係の中で、
文部大臣としてあるいは
文部省としてでも結構なんですが、
臨教審のあり方についても、現場を預かる者として御
意見があったら率直に言って、そして現場に無用の混乱を与えないということについては、本来的に権限もあるし、同時にその責任もあるというふうに私は思っているわけでございますが、現在の
臨教審のあり方、運営のあり方について、もし感ずるところがあるあるいは考えているところがあれば、しかと
大臣に承りたい、あるいはもし
関係当局いらっしゃいましたら承りたいと思うのでございます。
以上でございます。