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竹下国務大臣 私いつも申し上げましたように、政治というのはやはり無限の理想への追求でなくちゃいかぬ。だから、きょうよりはあすへということで、
上田さんと毎年こうして
議論しておりますと、いささかゼネレーションのずれを私自身が
感じます。
といいますのは、いつも思いますが、今お笑いになっている方の中にも、いわゆる大正二けたと
昭和一けた論争というのがありました。大正二けた、
昭和一けたの
最初の方というのは、これはよかれあしかれ戦前を知り、戦中を知り、鉄砲弾のかわりに兵役に参加し、そして焼け跡、やみ市の中で今日まで来て、それで現状調和能力とでも申しますか、そういうものはそれなりに備えておりますが、いわば進取の気性とか気宇壮大さとかそういうものに欠けているのじゃないか、こういうことをいつも私は自己反省をしております。ところが
昭和二けたの人と、そして
時代のずれはありますけれども明治の人というのは、やはり気宇壮大である、こういうことを私は物の本でも読み、また書いたこともございます。そういう
意味における絶えず前を見た御
指摘というのは、政策選択の中に入れていかなければならぬ課題だと私どもは思います。
そこで、御
指摘なさいました問題、それぞれについておもしろい、おもしろいという表現は適切でございませんが、興味のある
指摘でございますので、ひとつ失業率を申しますと、確かにおっしゃるとおり、大体おまえのところは二・六とか七とか言うが、うちと同じ計算をしたら五・幾らになるじゃないか、
先進国の
会合でもこういう
指摘がありました。この間の
サミットでも
フランスの
大臣から私に
指摘がありまして、それでこの問題は、O
ECDの統計がだんだんだんだん画一的になって、誤差といいますかそれが縮まってきておることは事実であります。そこで、私が計算したものですから必ずしも正確とは申しませんが、分母と分子のとり方をどうするかで決まるわけでございますが、その分母と分子を失業率の一番余計出る数字で計算をしました。それはたった一時間ほどの話でございますが、そうすると、
フランスの方が言っていらっしゃる一番分母を小さくして分子を大きくする形の統計をとってみましても三・六ぐらいまでしかいかぬじゃないか。だからあなた、倍の五・二とか五・三はなかなかいかぬぞというような反論もしてみましたけれども、この統計というものは、できるだけO
ECD参加国全体が一目でわかるというふうな訓練はこれからもされていくべきものである。また
フランスは、
最初は統計がなくて数だけで出す。最近はできてきましたから、したがって、模索しておられるからそんな質問も出たのではないかというふうに思うわけであります。
ただ幸いなことには、これは
先進国はどこでもそうですけれども、失業者が町にあふれ、塗炭の苦しみという状態にはないじゃないか。特に
日本の場合、かつて私どもが子供のころ見ましたルンペンとでもいいますか、浮浪者の方というのは大体やせていらっしゃいましたが、今、時たまお見受けしますけれども、例外なく太っていらっしゃるという
感じはいたします。その太っていらっしゃるのはあるいはアル中かもしれませんけれども、そういう状態は我々の子供のころから見ると違うな、こんな
感じがしております。反論として申し上げているわけじゃございません。
それから社会
資本の問題でございますが、社会
資本の問題は、確かにおっしゃるとおり、今の人口当たりでいきますと
先進国から見れば全部小さい数字しか出ません。それじゃどれぐらい投資しているかといいますと五・五、対GNP比でいきますとほかの国の大体倍やっております。それはおくれているからだと言われればそのとおりであります。
それで、そのおくれているものの中で申された二つの問題、
一つは下水道の問題でございますが、
昭和四十五年に下水道の計画をつくるといって
議論をしましたときに、私、四十六年は官房長官でございましたが、下水道普及率ゼロという県があるかと僕が聞きましたら、はい、官房長官の島根県と幹事長の保利茂先生の佐賀県がゼロでございますと言われて唖然としまして、そういうことを記憶しております。下水道がなぜおくれたかと申しますと、要するに
日本は真ん中に山がございまして、そして雨の量が
先進国のちょうど倍降ります。したがって、
日本海と太平洋へ汚物を流すという、それで子供のころから川は三尺流れればきれいになるなんて我々聞かされたものですから、そういう地形的なこともあっておくれたのであろうと思います。
フランスなんかは百年前に既にジャン・バルジャンは下水道の中へ逃げておりますから、あそこは緩やかでございますから必要があってやはり進んだんだな、こういう印象を受けました。したがって、これだけは追いつけ追い越せやらなければならぬというので、
予算配分のときも建設省におかれて重点的に配分されると同時に、今度は藤尾政調会長の各党協議との御
結論によりまして、下水道というのは水が通って初めて下水道だ、水の通わない間は単なる溝である、そのとおりでございます。そういう
意味から、三年間でございましたか、ちょっと忘れましたが、繰越施行して普及率を高めていこう、こういう御発想もあるわけであります。
それから公園面積は、都市公園として見た場合はまさに
上田さん御
指摘のとおりであります。我々田舎者ですと窓をあげれば皆公園みたいなものでございますから、そういう相違がございますが、この点と住宅問題は
我が国の宿命的な
一つの面積理論というものがあろうかと私は思います。
アメリカの二十六分の一の面積でございますけれども、可住地面積はおむね八十分の一、人口は向こうが倍でございますから、したがって一人当たり四十分の一の土地しかない。厳密に言うと三十七分の一だそうでございますが、アバウト四十分の一。そうすると、ロサンゼルス郊外が坪当たり五万円で東京近辺が二百万だな、なるほどちょうど四十倍になるなどいう計算が出ました。
やはり面積の問題というのが大きな問題ではなかろうかというふうに考えますので、いわゆる実態的な幸福感といいますか幸福度といいますか、本当にそういうものはなかなか思うに任せないものだな。だから、歴史の中で
アメリカの青年はロッキー山脈へ登って、ああ広大なる
アメリカよというところに快哉を感ずるし、我々は四畳半でスズムシの音などを聞いておったのかな、こういう反省も含めておりますけれども、これは本当に今後とも、GNP比で倍、ほかの国から見れば倍の速度で進めておるものの、面積問題をどう解決していくかということは問題であるし、私が
昭和五十一年に建設
大臣をしておりましたときには四十九年の統計で百八十一万戸空き家がある。はあと思っておりましたが、この間聞いてみますと四百万戸弱だそうでございますが、これは遠くて高くて狭いところばかりがあいておる、こういうことでございますので、大阪が
一つあいている理屈になるわけでございますから、大変なものだな。
しかし、それは量的なものであって、したがって質的な充実というもので住宅政策というのはいろいろな知恵を出さなければいかぬというので、大蔵
委員会でいろいろ御
指摘いただいて、私が親子二世代論というものもやってみました。それをどうして宣伝しようかと思って、それこそ「おまえも大きくなったから、一緒にお家を建てようや」、これはスローガンでございます。それからもう
一つは、建て増しに対する枠を少し余計認めようというのは「じいちゃん、ばあちゃん、いらっしゃい、お家が大きくなったから」、こういうようなことを考えてやってみましたが、私が思ったほどその
需要が伸びておりません。これはやはり今後とも一生懸命で知恵を出していかなければならぬ課題であるというふうに考えておるわけであります。
また、御例示なさいました児童手当の問題も、第三子からというのを第二子からというような改正をお願いしょうとか、労働時間の問題は、これは山口労働
大臣に、
上田さんと年が
一つしか違いませんが、私はいつも言われます。私どもはどうしても「あしたに霜を踏み分け、夕べに星をいただく」、こういう農村田園賛歌を思い出しがちでございますが、あなたは島根県の農村青年団出身だからその程度しか言えないだろうなんて言っておりますい実態はワークシェアリングとかいろいろなことを言わざるを得ない今日、労働時間の短縮については、特に私の側は
金融機関が主体でございますけれども、具体的にも進めていかなければならぬし、そういう空気が出つつあるということでございます。
勤勉ということに対する御評価もございましたが、確かに勤勉だろうと思います。しかしフォーシーズンズ、すなわち四季のある国民は大体勤勉でございます、統計的に見ますと。やはり冬場働けないから平素働いておこうというように習慣づけられて、ワンシーズンの人はでれっとして、でれっとしておるとは表現は悪うございますが、どちらかというとそういうところが少ないなという印象を与えておりますが、その勤勉さを、なお労働時間短縮といういわゆる近代国家の範疇の中で、いつも思います「あしたに霜を踏み分け、夕べに星をいただく」というのといわば現世代の労働時間短縮というものとをどう調和させていくかということは、やはり我々の
時代から今おっしゃいました新しい
時代への大きな
一つの政策課題として引き継いでいかなきゃならない課題ではなかろうか。
何だか話が長くなりましたが、ついペースに引き込まれましたので、その点はあしからず御容赦をいただきたいと思います。