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大原委員 大臣、時間もないんですが、私は
援護法の
審議のときにこういう
議論をしてきたわけですよ。
大臣はいつまでも
大臣をしてもらいたいのだけれ
ども、今まで、一年ごとに皆さんかわるからね。だから、そのたびごとに一応言っておかないと、後へ伝わらぬですから言っておるのですが、つまり、戦争犠牲者に対する援護
措置というものについて、これは今まで
政府がいろいろな線引きをしてきたわけです。そして、国会で
議論いたしまして、その線引きの範囲を拡大をしてきたわけです。第七号の準軍属は、今申し上げましたものは、これは旧防空法ですね。それは資料を見なくてもいいですよ。
大臣答弁だから、
大臣答弁というのは漠然としておるのが大体前提であるから……。
それで、旧防空法というのは、これは内務
大臣が管轄しておったのですよ。当時の、終戦のときは内務次官は灘尾弘吉、それから外務次官は、後で時間があれば言うのですが、松本俊一、それから主税
局長が池田勇人、皆二区に
関係がある日ここもそうじゃないか。松本俊一がそうだし、灘尾弘吉は一区だね。しかし、どうせ能美島だから二区みたいなものだから。そういうのが皆いたわけですよ。旧防空法は——その是非は別ですよ。旧防空法については、ボランタリーだから、自発的に生命財産を守るために組織をつくってやるので、警防団をつくり、
地域の隣組や町内会でやるとか、こういう職域でやるとか、そしてボランタリーだから命令じゃないんだ、こういうことで、
最初は準軍属にしなかったんです。切ってしまったのです。
それを私も取り上げて
議論しまして、
昭和四十九年に初めて旧防空法は第七号に入れたわけです。これはずっと入れますと、職域とか
地域で竹やりをやったり、バケツリレーをやったりしてやっておった連中も、終わりには総動員体制、戦闘体制に移行するわけですから、これも全部国との
関係があるんだという
議論が一つあるわけです。その
議論から、例えば原爆については特別権力
関係がないから、非戦闘員はだめだというふうにやったものを崩して、警防団、
医療従事者、ですから医師、歯科医師、看護婦、助産婦、薬剤師、そういう範囲までは入れて、今のこういうのになった。ただし、これは時間的な制限はなかった。時間的な制限というのは、三月十日の東京空襲のときも、これは適用したわけです。
もう一つの戦争犠牲者に対する公平な援護のアプローチとしましては、これは今言いましたように、戦闘参加者の概念がある。これは沖縄であるわけです。沖縄は敵前上陸がないときも、軍に対して協力したという場合には、義勇隊であろうがなかろうが全部、子供でも弾運びを手伝ったとか、いろいろなことで陣地構築その他の協力をしたということを申し出ると、非戦闘員であっても、
法律はなくても、沖縄本島は戦闘
地域であるということで
地域を指定して、あるいは硫黄島とかサイパンもあるわけですが、またそれは別の条項がありますよ。別の条項では、六号には準戦地、準事変地被徴用車属とか、そういうのがある。そういう戦場
地域になってくると戦闘員も非戦闘員も差別がない、こういう状況があるわけです。
その
議論の一つの重要な手がかりとしてやったのが、今まで
議論いたしましたのは、第八十七回の臨時帝国議会があるわけです。これは六月九日から十日、十一日まで二日間ほど会期を決めて臨時帝国議会を空襲下に開いたわけです。そして会期を二日間延長いたしまして十三日に終わっております。その中でやりました
法律案というのは、これは戦時緊急
措置法案と
国民義勇兵役法案であります。六月九日、十日ですから、そのころは、帝国議会の秘密会であるように、表面では沖縄は放棄しないということを言っているのですが、日本の陸軍はこれはもう完全に放棄をするということの
方針を決めておったわけですよ。もう通告してあったものですから、二十日ごろに牛島中将が自殺をしているわけです。自決をしまして、後は頼むと言って投げ出すわけですね。
ですから、その帝国議会をやったときには、沖縄が完全に陥落をして、そこを基地として、サイパンやテニアンや硫黄島やグアム島からだけではなしに、日本の本土は完全な制空権下で、身近なところで嘉手納空港も読谷もやられたわけですから、その飛行場から日本は空襲を受けて、そしていよいよ本土に、どこに上陸するかということはわからないけれ
ども、本土上陸ということで一斉に大空襲を日本全土にわたってやったわけです。東京空襲の本が出ておりますが、それ以外にもその状況はつぶさにわかっておるわけです。これは岩波の本ですが、全部わかっておるわけです。
そこで、今までの、ここにある
国民義勇隊に関する件というのは三月二十二日です。
国民義勇隊に関する件というのは、第三号の準軍属です。これは三月二十三日の閣議において決定しておるのですが、これは内務
大臣の所管です。
国民義勇隊を組織して戦闘隊に移行するわけですけれ
ども、それはもう戦後占領軍に対しましては封印をしておったわけですけれ
ども。封印を解除させたわけですが、そういうことで閣議決定で内務
大臣を
中心にやっておったわけです。義勇隊の本部長は内務
大臣で、灘尾次官は副本部長。それではいけないということで、
国民義勇兵役法を六月九日、十日に臨時帝国議会を開きまして、秘密会で情勢報告をした上で、沖縄はもうだめだから本土決戦をするんだということでやったわけです。
国民義勇兵役法は施行されておったわけですよ。施行されたけれ
ども、実際に発動されなかったといって
政府は
答弁するわけです。強弁であります。それは個人個人には召集令状は出ないということになっておるのですから。今までの義勇隊とか愛国婦人会とか青年団とか職域とかいうものに、必要に応じてぼんぼん個人でも団体でも命令を下せば義勇兵役に服するということになって本土決戦をやる。そのことは詳細にやってあるわけです。七月七日かに完全に沖縄は戦争が終わったという宣言をしておるわけです。牛島中将が自決したのは二十日前後ですよ、二十三日ごろかな。ですから、八月六日はすぐなんですけれ
ども、そういう点から言うなれば、戦闘員も非戦闘員も境がない状況の中において最終
段階を迎えて、広島、長崎へとどめを刺されたということになるわけです。それがしかも非人道的な後遺症を残すような問題で、国際法上も非常に大きな
議論のある問題である、こういう
議論なんです。ですから、どこかで線引きをするということで、
軍人恩給を後で復活するわけですけれ
ども、
戦傷病者戦没者遺族等援護法をまず実施いたしまして、
援護法では遺族と
障害者に対する弔慰金等の補償をしたわけであります。
私は、原子爆弾の二法についていろいろ
議論をこれからもいたしますが、
援護法の適用ということをめぐっても、あるいは沖縄の戦闘参加者の状況等を考えてみても、浜松や釜石やそういうところ、八幡の場合もそうですが、艦砲射撃なんかあったわけですから、終戦もそのころの
段階になりますと騒然としておったわけです。ですから、そういう状況のときにおける戦闘員と非戦闘員を差別することはできないだけではなしに、原爆という非人道的な後遺症を残すような毒ガス以上の兵器を使っている場合には、弔慰金というふうなものは当然国としては出すべきなんです。死没者に対する弔慰金等は当然出すべきだ、弔慰金の
制度は
現行援護法にあるわけですから。全体の立法の均衡上からもそのことを真剣に考えなければならない、大まかに言えば、そういうふうに
指摘をしてきたわけです。論争してきたわけです。
それに対しましては、その当時の事情はよく理解できるという今までの
答弁もありましたし、あるいはへ理屈をつけるのは、六月の臨時帝国議会で、
国民義勇兵役法は緊急物資調達法を含めて二法が成立したけれ
ども、勅令その他実施をされておるけれ
ども、実際には発動されなかったというへ理屈をこねるわけであります。これはへ理屈だよ。だから、そのことは実際の
法律の当時の議事録、
審議の中身等を見ないで勝手に今の
段階で線引きをして、それを合理化するためである。こういう主張は私は放棄していないわけです。これはへ理屈なんです。あなたはこの間援護
局長になったばかりで、全然わかっておるはずないのだから。きのうかおとといちょっとレクチャーを受けただけでしょう。よほど私の方がよく知っているのだから。
そういうことを考えた場合に、沖縄では戦闘参加者は、十月からですよ、上陸のないときからのことについて戦闘に協力したということになれば、
法律があろうがなかろうが、六歳以下であっても
援護法を適用するということで一千名以上も準軍属にしたわけですから、一遍にそこまで行かなくても、弔慰金ぐらい考えたらどうだ、こういうことです。原爆なんかにしても、こんなに大きな被害を及ぼしている。弔慰金に鼻もひっかけない、葬儀費についてもさかのぼって出さない、こういうことなどは、私は法のもとにおける平等からいっても許しがたいことではないかと思うのです。これはほかの
局長とか
課長がぐずぐず言っておったってしょうがないから、
大臣が国務
大臣として、私が
質問した
趣旨は理解できますか。——あなたが言ったって、また時間がかかりますよ。