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滝沢委員 だから、あなたのようなお
考えの人は、御自分のお子さんに簡単なお名前をつけなさったらいい。だけれ
ども、そういう方だけじゃないのです。
話がちょっとやわらかくなりますが、小倉百人一首に、「名にしおはば逢坂山のさねかづら人にしられでくるよしもがな」というのがあるのです。これを有名なというふうに解釈する向きがあるが、そうじゃない。あなたは名前と実体が同じならば、逢坂山のサネカズラという草について、あの人に人に知られずに会う方法がないか、こう言っているわけです。名は体をあらわす、武士は命よりも名を重んじたものです。
名前というものは、役人の皆さんが
考えていらっしゃるような記号だけではないのであります。だから、どこの世界に、自分の子供が苦労をして不幸になれといって、難しい名前を康煕字典から拾ってきてつけて喜んでいる親がありましょう。相当難しい名前もありますよ。だけれ
ども、その親御さんにとっては
それなりの意義があるから、その子に祈りを込めてそのようなお名前を選びなさるわけです。
現に、浄土真宗の信者で、親鸞上人の「鸞」という字をおかりして、これをおかりするには、それはお経を上げ、数珠をつまぐり、祈りを込めてお選びになったでありましょう。「鸞子」とつけようとした。しかし、市役所に行きましたならば、あの花の咲いている「蘭」にされた。花の咲いている「蘭」をつけられて、浄土真宗の信者が、これは親鸞上人様のお名前をおかりしたんだという気持ちになれますか。そういう符号じゃないんですよ。命にかえてもこの名前をという親が世にはたくさんいらっしゃるわけです。私の名前は先ほど申し上げましたが、名前の方は合格しましたけれ
ども、「瀧澤」という字はどっちもペケですわな。これは簡単な方を選んで「滝子」ちゃんといっても、それはそういうわけにはいかないのであります。
これもある宗教でありますが、入信しますと、教祖様の御選名によりまして名前を変えます。しかし、これは家庭
裁判所が通らない場合は、おっしゃるところのいわゆる通称になるわけです。しかし、このときに、決してその教祖様は人名字典を引くわけではありませんよ。そのような命にかえた行為として自分の名前を選び、子の名前を選び、それを誇りに思って、その一代だけではなくて、うちにはおじいちゃんにこういうお方がいらっしゃったんだということが残るわけです。名前というのは尊厳なものです。そのことをどうかひとつ御
理解をちょうだいしたい。
卑近な例でありますけれ
ども、道子さんという人が私の身内に花嫁に来てくれました。ところが、これはお父さん、お母さんがお選びになったのは、田んぼの「田」の真ん中が出ている「由」という字にしんにゅうをつけた「迪」です。ところが、これが道路の「道」という字になった。まあ「道」だからいいんで、これは道徳の「道」にもなるというようなことにもなるけれ
ども、「路」という字にしたらどうなりますか、アスファルトになっちまいますよ。ところが、ジャクまたはテキと読むこの「迪」という字は、「あるところから始まる道、ひとすじの道」あるいは「ひとすじの道にそって教えみちびく」、こういうふうになりまして、これを「すすむ」というようにも読む。そして、踏み行っていく、「そのとおりに実行する」という
意味にもなっているというふうに、学習
研究社の漢和大字典の五十六年度版には書いてある。こういう名前を選ぼうとしていただいた花嫁さんが、まあ「道」だからいいけれ
ども、道路の「路」だったり、「径」だったり、道路交通法の「通」だったりしても、みんなミチなんです。どれでもいいよというようなことにはならないのです。
特に私は大事だと思うのは、おじいちゃんの一字、おばあちゃんの一字、お父さんの一字とお母さんの一字をもらって名前をつけたという場合に、ペケになったらこれはどんな気持ちですか。私は、このような実例を二千でも三千でも経めくって持ってきて、皆さんに御
判断を仰いでもいい。
政治に強弱あってよかろうはずはありませんけれ
ども、これはGNP一%よりは大事な議論じゃないかな、これは大変なことだと私は思うんですよ。あるいはまた、ベースアップのことを言うと組合にしかられますけれ
ども、ベースアップがことし高い安いということよりも、この名前の問題は大事なこと、これは命に通ずること、こういうように
理解をいたしまして、このことに私は情熱を傾けているわけです。きょう簡単に
解決はできないでしょうから、また機会を選んで申し上げさせていただきますけれ
ども、最後に、そのようなことでありますから、
大臣、どうかひとつ真剣にこれを
一つの政治の課題として取り上げていただくわけにいきませんか。