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国務大臣(
竹下登君) 今、
鈴木さんおっしゃいました
国債火種論というのは、確かに
昭和四十四、五年に
議論されたことがございます。これは御案内のように、
最初国債を
発行いたしましたのは
昭和四十年、これはだれしもいろいろ初めてのことでありますだけに
議論をいたしましたが、要は三十九年のオリンピックの翌年の戦後最大の
不況と言われた時期において
発行したわけであります。そうして、それは私は成果を上げたと思います。
国債政策が、言ってみれば効率的に機能した
政策の遂行の時期ではなかったかというふうに思います。そういたしまして、四十五年度決算で見ますと、まさに五%の水準を割るというところまで、その後の
高度成長に伴って
税収がふえてきたわけであります。したがって、今おっしゃいました
火種論というのは、四十四、五年当時、このまま推移すると
発行の必要がなくなる状態もあり得ようが、将来
公債をまた
発行しなければならないような
事態に直面したときの便宜のためにも若干程度の
公債の
火種を残してはどうか、こういった
議論があったこともこれは事実でございますが、私はそれは
火種としてわざわざ残したものではなく、逐次減らしていこうという
考え方で、無理してゼロにはしなかったということであったと思うのであります。
したがって、要するにやっぱりそれは四十四、五年でありまして、
日本経済全体を見ますと、四十六年の、私は当時
内閣官房長官でございましたが、いわゆるドルの
兌換制停止、俗に言う
ニクソンショック、あのときから新たに
国債の
増加傾向が出てきました。しかし、まだ
国会の
議論の中でも許容される
範囲であったと思うのでありますが、結局は四十八年暮れからの第一次
石油危機というものが
一つの
発火点になって、そうして第二次
石油ショックというものにつながれていった。しかしそのとき、いわば
建設国債から、そうして第二次
石油ショックに至りますと、この
赤字国債に踏み切ったということが、ある意味においては今日
世界の中において
経済そのものは優等生であると言われる要因は、それなりに
公債政策というものがその
効果をあらわした証拠ではないか。これは私なりに思いますと、いささか私見になりますが、四十四、五年というのがまた第二回目の
公債政策の
効果があらわれた時期ではなかったか、こういうような
感じがいたします。
それで、第二次
石油ショックでございますから、したがってやはりそういう推移だけの対応をしておってはならぬということで、
財政再建というものが掲げられ、五十九年度
赤字国債脱却というものが掲げられ、そして
世界同時不況の中で、それをも先ほど来御
議論、御指摘、御批判をいただいておるような現状に今日なった。したがって、私
どもは、それは
世界経済でございますから、将来どういうことが起こるかということは容易に予測できないにいたしましても、そういうドル
ショックから見ると、三度のいわゆるそういう危機に対して対応してきた日本
国民あるいは日本国経済でございますから、このような建設的な
議論を重ねつつこれに対応していくならば、私は
世界に比してやはり良好なファンダメンタルズというものを維持しながら今後とも対応できるものだ、それにはやはりかつての高度経済成長の時代が当たり前だという認識から、むしろいわゆる今度掲げております四%程度のインフレなき持続的成長というものが、これが普通だというある種の意識転換を私
どももまた
国民の
皆様方にもお願いしなければならないというのが今日の時点の認識ではなかろうかと、いささか答えが長くなりましたが、平素思っていることを言わしていただいたわけであります。