○
高木健太郎君 まあ、そうだと、普通もそう言われますが、身を美しくするというようなことで、あるいはしつけ糸と言いますから、そういうふうに
考えられているのは当然だと思います。私は生理学者でございますけれども、私はそういう形の上からではなくて、しつけというものは生理的に脳が――
自分たちいろいろ欲望があるわけなんですけれども、先ほども欲望ということを言われましたが、
人間が動物と違うところは、そういういろんな欲望を
自分自身で制御していく力である、こういうように思うわけです。それで、しつけというのは、そういう制御力という、
自分で
自分を制御するという力を養っていくことがしつけであると思います。ただ単なる行儀作法を教えたり、あるいは礼儀だとか作法を教えるということでは私はないと思うんです。それも
一つの形ではございますけれども、形の上からそれは制御法を教えるということであって、根本は制御作用を訓練していくということであろうと思うわけです。これは我々生理学者だけじゃなくて、お
医者さんの中でも日野原さんなんかは、
人間の脳は創造する働きを営む器官であると同時に自己を抑制する器官でもある、こういうふうに言っておられているのは、私もそうだと思っております。こういう
意味で、私はこのごろちょっとびっくりしました事件がございました。それはこの四月二十四日の新聞で御存じのように、トラックのリンゴがそこらのおかみさんにみんなとられちゃったんですね。それで、販売主がちょっと外した間にわあっと寄ってきて、大阪の造幣局のあの桜通り抜けというところがございますが、そこでみんなリンゴをとられちゃったんです。青森から持ってきたリンゴなんですけれども、一人が初めとり始めたんですね。みんなとっちゃった。危ない、押すな、押すな、おれにもくれといってみんな寄ってたかってそれをとってしまった。トラックのリンゴは空っぽになってしまったわけです。その荷主さんは、返ってくるわけじゃないし、とっていた人が余りたくさんで、それにしても大阪の人は怖いと、こういうことをその人は言っているわけなんです。これよりか前にもう一度大阪であったんじゃないか。それは衣服かなんかの展示会のときに女の方が来てみんなそれを持っていっちゃったんですね、バッグの中へ入れて。そのときにモデルの服まで展示してあったわけですが、それも持っていっちゃった。それで、損害がどれくらいとか書いてございましたが、これがお母さんとして家にいるわけなんですね。それが私ちょっと怖いと、こう思ったわけですね。こういう人
たちは個人個人に会えば、私はそんなに悪い人ではないと思いますし、まさかとっていくようなことはしないと思いますけれども、それが集まると、そういうことをやる。これでは、何か
子供の
教育がこういうお母さんに本当に預けられるのかなあという怖さを私は
感じたわけなんです。日本の
教育が非常に画一
教育である。あるいは、赤信号みんなで渡れば怖くないとか、そういうことを言われる。あるいは、
人並み意識である。あるいは、これを群集心理だという人もございますけれども、どうも個人が確立していないというところが、団体として何か行動することは、非常に私日本としてはいいところだとは思いますけれども、個人として確立してないからして、団体が悪い
方向へ行くというと、みんなが悪い
方向へ行ってしまうと。これは非常に危険な
一つの日本的風調ではないかというふうに思うわけです。そういう
意味では、ぜひ、しつけといいますか、いわゆる個人で
自分自身を制御していくというような
気持ちを、今後十分
教育で養う必要があるだろう。こうすれば、いわゆる暴走族ということも起こらないんじゃないか。それが、一人がやるとみんなでやるというようなのは、私は十分まだ
教育効果が上がってない証拠ではないかなあと思いますので、今度、
教育改革をされる場合には、あくまで個人というものをまず完成させるということをお
考えいただいたらどうであろうかと思います。
非常にたくさん私いろいろ申し上げたいと思ったんですが、時間がだんだん来ましたので次に進ましていただきます。
次は、この間三月の十九日から二十二日に
中曽根首相が提唱をされまして、ウィリアムズバーグで約束されましたことだと思いますが、箱根で「生命科学と
人間の会議」というものが開かれました。これは世界じゅうからいろいろの学者あるいは哲学者、
宗教家あるいは自然科学者等が集まりまして、いろいろの問題、生命科学について論議をされたわけでございます。
私、全部の全文を入手しておりませんのでわかりませんが、そのうちの抄録を見まして、新聞社に発表されたのを拝見さしていただきました。これは、その中の第三セッションというところで「生命科学の個人にとっての
意味」というのがございます。それは、最近いろいろの自然科学が発達してきまして、医学にもいろいろの機械、器具が取り込まれてまいりました。いろいろな実験的なことが行われているということですね。それの危険性をまず指摘をしておられるようです。
その次には、ある程度の規範というものが必要ではないかということを言っておられますが、それはまだ十分結論が出なかったというように
報告をされております。私は、御存じのように、最近は、体外受精ということもございまして、体外受精が妙なぐあいに進みますというと、夫婦
関係というものは壊れますし、家族
関係も非常に妙なものになるだろうと想像されます。私が計算しますと、体外受精やっていろんな組み合わせをしますというと、二十何通り組み合わせができるわけです。だれの
子供やらさっぱりわからないというような形になると思います。そういう問題が
一つありまして、このことにつきましては、各
大学において倫理規定というものを設けているのは
大臣も御存じのとおりでございます。ただ、そのほかに、例えば脳死の問題がございまして、一方では、その臓器があれば
自分は助かるという人が一方におるわけでございまして、一方では死んでいくと。そのときにその臓器をその人に上げるということは、上げようという
自分の意思であれば、非常にこれはとうとい行為であると思いますけれども、そこの間に妙な人が狭まりますというと、死んでもいないうちに、その臓器を取るということが起こり得るというようなことも心配されているわけでございます。あるいはまた、安楽死であるとか、先ほど申し上げました
中絶の問題とかというようなことは、医学の中で今までになかったようなことが起こってきつつあるということだと私は思うわけです。欧米では脳死に関しましても、安楽死に関しましても、ある程度の規範といいますか、そういう
基準をつくってるわけです。日本でもある程度ございますが、まだ全体としては決まってない。脳死につきましては
大統領の
報告があるわけでして、もう
アメリカのほとんどの州が脳死というものを認めるという法律をつくっているところまで行っているわけです。
そこで、
学校教育、特に医学
教育の中でバイオエシックス、医学の倫理というようなものをどこかで
教育をしておいた方がいいのではないかと私は思うわけです。
大学の
先生に二、三お聞きしますと、いや、いろんなところで、そういうことはしゃべっているから、特に設けなくてもいいと思うというようなことも言われますけれども、
個々ばらばらの見解であっては、ケース・バイ・ケース、あるいは個人個人の見解で、こういうことが処理されていくということは非常に危険もあるのではないかと。学生も迷うんじゃないか。先輩として、あるいは経験者として、こういうふうに、こういう場合はやるべきであるというような
基準というのは、一応あった方がいいのではないかというように思うんですけれども、これに対するお
考えをひとつお聞きしておきたいと思います。
文部省としての見解をお聞きしておきたい。