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国務大臣(
森喜朗君) 大変、
先生から見ると、私などは年齢も非常に若うございますので、いろいろとお教えをいただいたという
意味で感謝をまず冒頭に申し上げる次第です。
私は、今
お話を伺っておりまして一番感ずることは、歴史の経過ということをふっと思うんですね。前も
予算委員会の、あちらの本
委員会でちょっと御答弁申し上げたことがあるんですが、高石
局長からも申し上げたんですが、実際に道徳
教育の特設
科目をしたのは三十三年からだと聞いておりますが、
現実にかなり道徳
教育に重点を置いた
指導をいたしておりますが、逆に非常に社会が崩れていますし、いろいろ調べてみると、やっぱり
先生自身がどう教えていいのか、どのように取り扱っていいのかわからないというデータがかなり報告されているわけです。それを
考えてみますと、ちょうど教えるべき
立場の今の
先生方が私は戦後の
教育のずうっと経過の中で、教える
先生自身が道徳の問題には割と縁がなく
先生になってこられているんじゃないだろうか。これは
先生のみならず、私は家庭の父母もそうではないかと思うんです。ちょうど今、子供
たちを抱えるお父さん、お母さんというのは、一番、そういう道徳とか、そういうことをむしろ避けてきた、そういう時代に学問を身につけてこられたような気がしてならないんです。
現に、私は小
学校二年生で終戦になりました。ですから、それから三年から大体中学までは、一番日本の
教育が大きく変えられたときでしたから、端的に言えば、珠算までさわっちゃいかぬというような教え方までされたわけです。当然、柔道、剣道はもとよりのこと、何か古来ある日本の
教育は全部だめなんですよということを
先生から教えられたことを私は今でも覚えておるんです。ただ、私
たちが若干どちらかというと、古い
考え方になるのかもしれませんが、現代からいえば。それは私は幼児
教育は昔の——幼児
教育といっても別に受けておりませんけれ
ども、生まれてから小
学校に入るまでは戦前でございましたから、そういう
考え方がある
程度身についているんだろうと思うんです。これはいいとか悪いという
意味ではございません。
ですから、今、つくつく世の中のことをいろいろ
考えてみると、歴史の経過というのはこれも大事なこと、今、
高木先生がたまたま儒教の
お話をなさいましたけれ
ども、総理が儒教というような問題をちょっとどこかの話の中にされたといって結構、あちらこちらから御批判をいただく、私は決して間違っているとは思わないんですね。私も何年か前に韓国の
大学の
先生に会ったら、森さん、韓国では親子では将棋を宿さないんですよと言うんですね。どうしてですかと聞いたら、親子であっても子供が親に勝つことは将棋であってもいけないんだと、これが儒教の教えですと言うんです。それはむちゃな話だなと私は言いましたけれ
ども、やっぱり何か
一つの真理があるんですね。例え将棋や碁であっても、お父さんを負かしてはならないんですという、お父さんと子供との
関係はそういうものなんですということを、これは非常に危険な思想であるかもしれませんが、
一つの哲学を教えているような気がするんです。儒教というそういう
教育、宗教ということになれば、いろんな問題が出てくるんだろうと思いますが、私は、
教育基本法の中に宗教
教育と書いてありますが、宗教を否定しているわけではない。宗教はとても大事なものだから、これをできるだけ多くの
皆さんに、宗教大事だという
教育を当然しなきゃならぬということだと思うし、ただ、特定の宗教活動や宗教のための宗教
教育をしてはいかぬということでございますから、この辺がやはり解釈を
先生方自身も間違ってこられたんじゃないかなという感じもいたします。第一条のところを読んでみましても、決して国を愛することや親孝行などということは教えてならないことは何も書いてないわけでございます。
私は米国
教育使節団報告書というのを、
昭和二十一年三月三十一日のやつをいつも持っておるんですが、この中で見ておりましても、神話を否定してないんですね、当時のアメリカ調査団は。「神話は神話として認め、そうして従前より一そう客観的な見解が
教科書や参考書の中に現われるよう、書き直す必要があろう。」と、こう指摘しているわけですが、最近ではそういう見方ができるのかもしれませんが、僕
たちの、ちょうど小
学校、中
学校のころは、こんなことは全くノーなんだと、さわってはいけないんだという教え方を僕らは子供のころ習った記憶がある。そういうふうに戦後の混乱の中で、日本全体が動転をしておりましたし、まして
教育者の、
教育に携わる
皆さんもいろんな
意味で反省もありましたし、私はやっぱり混乱の中の
教育の経過というものがあったんではないか。その中で育ってきた
人たちが、今、大人になって社会を維持している。もう少しの年限が過ぎるともっと新しい感覚の親や
先生が出てくるわけですから、そこに価値観の多様性という、非常に
言葉で言いあらわすにはちょっともったいない、まあ、どうかな
あと思うような
言葉になりますけ
ども、物に対する
考え方というのは大分違ってくる。そのことから社会の中のいろんな
意味のひずみが出てきているんじゃないかなという、そういう私は今、
先生の
お話を承りながら感想を持った次第であります。