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参考人(
大槻健君)
大槻でございます。
私は、
教育改革が
政府の手で進められるということについて
基本的に疑問を持っております。必ずしも
賛成ではございません。しかし、現
段階において
国民の多くが何らかの
意味で
教育を
改革すべきではないかということを
考え、あるいは感じているという、そういう
状況の中で私
たちが
教育改革のことを今後
考えていかなければならないとするならば、どういう点を大事にしていくべきなのかという、こういう点から
意見を申し上げてみたいと思います。
第一は、本
法案の中にも盛られているように、
教育基本法の
精神にのっとって、その
教育基本法の
目的を
実現するための
改革を行うんだと述べられております。この点は大変大事なことだと思うのですが、それではこの
教育改革に当たってのっとるべき
教育基本法の
理念というのは何であるかということが
考えられなければなりません。私の
考えに従えば、それは
教育基本法の
理念というのは、第一には
教育の
機会均等の
実現を図るということにございました。詳しい説明は時間がございませんのでいたしかねますけれども、
教育基本法の
理念を私
たちが解釈する場合には、歴史的な考察といいましょうか、
戦前の
日本の
教育がどうであったのかということとの
関連の中で
考えられなければなりません。そう
考えたときに、
教育の
機会均等の
実現を図るということは、
戦前のいわゆる複線型の
学校制度に対して、すべての
国民に平等に開かれた単一の
学校制度として六・三・三・四制が施行されたというところに大きな
意義を見出すことができるわけでございます。
それから第二には、
教育基本法の第一条に、平和と
民主主義、真理と正義、勤労と
責任を重んずる
国民の
育成を目指す云々という
言葉が見えます。このように、
教育基本法はいわば近代的な
国民、
世界に向かって開かれた
国民の
育成を図るというところに大きな
理念の
意義がございました。
戦前は、御
承知のように、例えば
昭和十六年から始まりました
国民学校制度に見られますように、その
教育の
目的は
皇国民の錬成というところに置かれていたわけでございます。こういう非常に限定されたある特殊な
目的に
教育が奉仕すべきではなくて、
世界に向かって開かれた、
日本のこれからの平和と
民主主義を担う
国民というものをどう
育成していくかというところにその
意味が置かれているわけでございます。そういう
意味では、
教育基本法の第八条で「良識ある
公民たるに必要な
政治的教養は、これを尊重しなければならない」ということも大変な重い
意味を持ってくると言わざるを得ません。
それから第三には、
教育基本法は
国民の
教育を受ける権利、あるいは別の
言葉で言えば
教育における
国民主権とでも言ったらいいでしょうか、そういう
理念を明らかにしております。申し上げるまでもなく、
戦前の
日本の
国家が、あるいは
日本の
教育がすべて
国家権力によって支配され、あるいは取り仕切られていたという過去の
現実に立つときに、
国民自身こそが
教育における主人公で、
国民の
意思、
国民の
要求によって
教育は運営されるべきであるということを明らかにしたということは歴史的にも大変重要なことであるというぐあいに
考えられます。したがって、
教育基本法の第十条に言っておりますように、不当な支配に服することなく、
国民全体に対して直接に
責任を負う
教育というのはいかにあるべきかというのを問うのが
教育基本法の
意味であるというぐあいに私は
考えます。
こういうように、大ざっぱに申し上げて
教育基本法の
理念を
三つにまとめることができるわけでございますが、私はそのように
教育基本法の
精神
を本当に
実現していくという、そういう
方向で今後の
教育改革が
考えられなければならないだろうということが第一点でございます。
それから第二に、
教育改革を推し進めるに当たって
考えなければならないことは、既に申し上げた
教育基本法の
理念の中に含まれていることでございますけれども、何といっても
国民の
教育要求、
国民の
教育意思というものを尊重して、その上に立脚して
改革というものを
考えていかなければならないということでございます。しかし、
国民の
教育要求ということは
大変複雑で漠然とした
内容を持っておりまして、大変その
意味がつかみにくいわけでございます。しかし、科学的に、歴史的に
国民が
教育によってどういう
状況に置かれてきたのかということを
考えながら、
国民の
教育要求の本質はどこにあるのかということを今後私
たちは明らかにしていかなければいけないだろうと思っております。
その点で、私の現
段階での
考え方を
参考までに申し上げてみたいと思うんですが、
国民の
教育要求というのは次のような性格を持っているというぐあいに思っております。
第一は、
国民の
教育要求はあくまで
生活要求との
関連で出てくるものであるという点であります。御
承知のように、現在
国民の
教育要求といえば、多く
学歴要求となってあらわれております。しかし、この
国民が
学歴要求に固執するということも、その背後には
自分たちの
生活を、言いかえれば
子供たちの未来に向かっての
生活を何とか一人前にしてやりたい、幸せにしてやりたいという、そういう
生活の願いと深く結びついてあらわれ出るものだと言わなければなりません。
それから第二に、そういう
意味では、
国民の
教育要求というのは矛盾した側面をたくさん持っております。いわゆる建前と本音というようなものを含みながら
国民の
要求というものが顕在化してくるものでございます。この矛盾は大変ややこしくて複雑な関係を持っておりますけれども、私
たちはこの複雑で矛盾した
要求をやっぱりどう本音の方へ引き寄せていくかという
観点で
国民の
要求というものをとらえてみる必要があろうかと思います。
第三には、
国民の
教育要求は多くの場合、具体的に
教育条件の整備と、それからすぐれた
教師の
実践への期待という形をとってあらわれております。時間がないので項目だけ申し上げてみたいと思います。
それから第四に、先ほど申し上げたように、
国民は一人一人は矛盾した
要求を内包しているわけでございますけれども、それにもかかわらず、集団の中で討議を踏まえて
国民の
要求というのはお互いにその質を高め合うという性質を持っているのではないかと思います。これは今までのたくさんの経験がそれを立証しているというぐあいに言えようかと思います。
以上、こういう
国民の
要求の本質に則して
教育改革というものはじっくりと腰を据えて取りかかるべき性質のものであるというぐあいに第二には
考えたわけでございます。
第三に申し上げてみたいことは、何といっても今日の
教育改革の必要を
国民の多くが感じ始めているということの背後には、俗に言われる
教育荒廃の
現実があるという問題でございます。したがって、私
たちはこの
教育荒廃の
現実をどう
国民的
課題として克服をしていくかという、そういう問題を
考えなければ、
教育改革だけがひとり歩きをしてしまうということになろうかと思います。
教育荒廃と一口に申し上げましても、その原因は極めて多様でございます。あるいはその様相も多様でございます。特にその原因を
考える場合に、非常に多様な原因が折り重なって今日の荒廃現象をつくっているにもかかわらず、それを一義的に戦後
教育の行き過ぎであるといったような、こういう解釈で一方的に断ち切ってしまうということは、これは
教育荒廃を真に克服する道につながらないのではないかというぐあいに思います。
それから第二に、
教育荒廃の中で俗に低学力とか落ちこぼれとか言われているような問題がございます。こういう問題については、何よりも私
たちは十分に豊かな
教育条件を整備し、例えば学級定員を減らすことだとか、過大
学校を減らすことだとか、なくすることだとかといったような、そういう
教育条件を何よりも先にやり遂げていくこと、そして第二には
教師が自由に
個性的な
実践を伸び伸びとやれるような、そういう
教育の自由を保障していくということが今日求められているのではないかと思われます。
第三に、
教育荒廃の中の
一つの現象としてある非行の問題がございます。この非行に走っていく場合、青少年が非行ないしあるいは暴力等に走っていく場合の多くは、あすに希望の持てない、その場限りの享楽や感情に負けているというケースが多いわけでございます。したがいまして、
基本的にはこの問題は、現代に生きる大人である、
国民である私
たち自身があすの
日本に向かってどういう展望を持つのか、希望を持つのかということがひどく欠けているのではないだろうか、そのために、この後に続く
子供や青年
たちに向かっても、あすに向かっての希望をしっかりとした形で持たせることができないでいるという、そういう現代大人の
社会がつくり出している
状況の反映だというぐあいに
考えることができるわけであります。このように、私
たちは
教育荒廃の背後にある
社会的、文化的な条件の克服を目指して、これに
国民全体が力を合わせて取り組んでいくということが必要なわけで、これを安易に管理主義的なやり方や、あるいは心がけ、心構えを説く道徳主義的なお説教で済ませるという、そういうことで
教育荒廃を真に克服することはできないのではないかと私は
考えるわけでございます。
こういう
取り組みを通して
教育改革というものが推し進められるべきであるだろうというのが私の
考えでございます。
以上でございます。