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国務大臣(
森喜朗君) 具体的にマークシート方式につきましてお答えを申し上げる前に、
先生がいろいろと今数字をもってお示しになりました。私も総理も、
教育改革をなぜ政府全体でしなければならぬという
考え方になったのか、これはぜひ御理解をいただきたいのでありますが、私も、十五から十八歳という高等
学校、これは人生において最も大事な時期だと思うんです。この時期に受験のための技術的な勉強だけをしておるということを、私どもはこれは看過できない、こう考えました。
当時、共通一次の問題が出てまいりました際に、私どもまだ党で文教の仕事をいたしておりましたときに、高等
学校でクラブ活動、文化活動でもいい、あるいは生徒会活動でもいい、スポーツ活動でもいい、十二分に青春を謳歌して、そうしたことをやるその傍らというとおしかりをいただくかもしれませんが、もちろんメーンは勉強することであるのは当然でありますが、そういう課外のサークル活動やクラブ活動ができておっても、十二分に高等
学校の
教育の到達
程度をはかるそういう試験にしてやってもらえないだろうか。
先ほど宮地
局長からも申し上げましたように、難問、奇問、大学の
先生が解答が書けないような問題を当時出しておる。私は、こんなばかげた高校
教育というのはあり得ない。私どもの党の
立場は、もちろん
社会党さんもそうであったと思いますし、各政党も皆そういう
考え方は持っておられたと思いますが、当時、自由民主党の私ども文教
部会としても何とかここのところを改善してもらいたい。
しかし、基本的に大事なことは、大学に学生を入学させ、進学をさせ、あるいは退学をさせ、卒業をさせるということは、これは大学の学長の固有の権限であります。総理といえども、
文部大臣といえども、このことについてはさわれないということは
先生も十分御承知でございます。したがって、何事も国大協に任せるのかという疑問はございますが大学
自体でできるだけ改善をしてもらいたいということもあって、そういう高等
学校の勉強をしながら、スポーツ活動もしながらそういう学問の到達度を見ようということで、この共通一次はそれなりの役割は一応果たしたと思うんです。
ただ問題は、マークシート方式がどうかということになれば、私は端的に言ってこのことはよくないと思っております、結論から申し上げれば。ただ、わずか決められた期間に、三十数万人の学生を、しかも北海道から沖縄に至るまで、特に一月から三月なんというのは、最も天候の差の激しい、泳げる沖縄があるかと思えば、北海道のような吹雪もある。私どものような北陸も雪が降る。
先生のところも旭川で、一番極寒の地帯です。こういうところで一遍に三十五万人の人が、
一つ間違っても大変なことになってしまうんです。一枚の用紙が漏れただけでも、これは試験としては無効になる。単に無効だけじゃなくて、その大学へ入る学生はどうなるかという問題まで考えなきゃならぬ。そういうことを技術的にクリアするためには、このマークシート方式しか現実には生み出せ得なかったというふうに私はその点は理解をします、いい、悪いは別といたしまして。
したがって、私は、
文部大臣に就任をいたしましてから、現下の
問題点はこのところにあるだろう、こう考えまして、国立大学の学長さん方とも数回意見を交わしてみました。しかし、端的に言いますと、五教科七科目は確かに過重だし、受験のためだけにこれがどうも勉強されている嫌いがある。しかし、ここのところを、例えば科目数を減らせと言えば、さっき
局長が申しましたように、じゃ、受験をしなくてもいい、試験科目にない科目は不要なものなのか。それぞれ
先生方は、自分の持っている科目は最大に大事なものだと思ってやっておられるのに、そこは大学の試験にないよ、こう言ってしまうことがいいのか悪いのか、これは高校
教育の体系全体の問題として非常に大事なところだ、こういうように思うんです。ですから、共通一次は共通一次の形としてやって、できれば二次試験のところは学力などは問わないような
やり方はできないだろうかということも、私ども党の
立場から随分当時はお願いをいたしましたが、現実には二回目の試験のところがかえって難しい、大学
自体がむしろ難しい問題をというような傾向になりがちでございまして、そのことはいけないのだとはなかなか指摘できない
文部省の
立場もあるわけでございます。
そういう中で、大学の関係者とも話し合ってみるといろんな意見がございました。
私は、端的に言って、高等
学校で学んだもの、試験のときに学んだもの、勉強したものが、
社会で本当にそれが使われておるのかどうかということについてはかなり疑問を持ちます。それぞれの分野においては大事なところもございます。芸術大学に行って絵をやったり、あるいは音楽をやろうとする
人たちまで理科、数学を絶対やらなきゃならぬのかということも、これも確かに疑問でございます。現実の問題としては、かなり傾斜配分の採点方式をやっているようでありますが、問題のテーマとしては、
子供たちはそのことも、全体を勉強しなきゃならぬというのが現実であります。
ですから、こういうところをやはり何とか、いろんな議論を交わしてみますが、基本的には、五教科七科目が大変だとか難しいのだと言うような
子供は国立大学に入ってもらわなくてもいいのだという、そういう極論を話される学者さん
たちだってあるんです、現実の問題としては。学者は、やっぱり学問を進めていくということが大事なんだと。私は、余り勉強ばかりさせないような
やり方はできないだろうか、こう言って学長さん方にお願いをすると、そんなことを
文部大臣が言って、日本にとって大事な人的資源、学問、研究というものがあなたの
文部大臣の時代に学力が下がったら、あなたはどう将来責任をとるのか、こう言われると、私も若干そこのところに立ちどまらざるを得なくなってくる。
そういうふうに考えますと、だれもがいつでも勉強していいんですよ、しかしみんなが学問をやらないとどうも
社会で評価されないという今の
制度全体に問題がある。やはり高等
学校だけで、あるいは中
学校だけで世の中に出ても評価してあげられる世の中にしなきゃならぬ。口では評価されているのだと言いつつも、学歴
社会というものは現実の問題として存在している。そういうふうに考えれば、親の愛情として、でき得れば
子供はできるだけ
学校へ出して、将来のいい就職、将来のいい結婚を親としては何とかして保障してやりたい、こう考える。その親の過大な
考え方というもの、
子供に対する期待度というのが
子供たちをそういう方向に押しやっていく。そのために突っ張りになる、
学校の登校拒否も出てくる。それじゃ、できる者だけを進めようということになれば
能力別ということで、これは平等、差別という問題から見ていいのかというような問題も、この間の関
先生のときにも議論が出ておりました。そういうふうに考えますと、どのような分野に進んでも
社会では的確に評価をしてあげられるような
社会の仕組みをつくっていかなきゃならぬ。
そういうふうに考えますと、
先ほど先生いみじくもおっしゃった。共通一次のところを改善して、このことは高等
学校全体の
教育の現場が改善されたと思いますかと
先生おっしゃった。まさにそこだと思うんです。受験の
制度を一時的に、
部分的に改善いたしましても、結果的には
教育全体のつながりというものを考えざるを得ない。幾らゆとりある
教育をやれと言っても、ゆとりある
教育ということは、受験に対する学問がそれだけ差ができてくるということでありますから、逆に言えば、受験の
制度をどうするかということを考えてもらわなきゃならぬ。受験の
制度を考えると、受験の大学のところだけで考えても、やはり勉強する者としない者との間に評価の面で差があっては困る、
社会に出て。ということを考えますと、学歴
社会全体というこの気風そのものを考えて改めていかなきゃならぬ。
そういう角度から、私どもは、
教育改革というのは政府全体で長期的に、そして
文部省の中にある学問の体系からいっても全体がやらなきゃならぬし、また各行政の各部においてもいろいろ関連がございます。そのことも全部含めてこの改革をいたさなければ、今、菅野さんからいろんな御指摘がありましたような、そうした
教育の現場だけをよりよくしていこうというところにはなかなか通じにくい今日的ないろいろのさまざまな問題があるというふうに私どもは受けとめて、政府全体の目で臨時
教育審議会という形の中でありとあらゆるいろんな部門の中で
教育制度を全体的に
検討していただきましょう、こういうことで臨時
教育審議会の設置をお願いをいたしておるわけでございます。
マークシート方式がどうかということで
答弁が大変長くなって恐縮でございますが、
先生と
局長との議論の中から私自身もまた総理も、これは学者としてはいい学生を得て学問、研究を進めていきたいという学者の
気持ちはよくわかる、だからといって受験全体に対しての病理現象、受験体制というものが世の中にいろんな問題を起こしているというこの問題に対して我々政治を担当する者は看過できないのではないか、こういうことで
教育全体を見直していく、
社会全体が
教育に対してどのようなあり方を求めるべきであろうかということを議論しようということになった一番大事な論拠はそこにあるのだというふうにぜひ理解をいただきたい、こう思うわけでございます。