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国務大臣(
森喜朗君) 先ほど関
先生から
お尋ねいただきましたことと若干関連もございまして、同じようなことを繰り返すことになるかもしれませんが、冒頭にその点については御了承を賜りたいと思っております。
話は少し変わって恐縮ですが、たまたま
先生できるだけ懇切に答えろということでございますから、できるだけ時間はかけないようにいたしますが、
先生と私とはたまたま同世代、同年の生まれでございまして、この間、総理と私は仙台の学校に行ってきたんです。大変寒いまだ冬、雪もございましたが、太陽がこうこうと輝いておりまして、その視察をいたしまして、新しい学校制度を見ておりまして
幾つか感ずるところがございました。
時間ありませんから
一つだけ申し上げると、とても明るくて、五年前にできた小学校で、新しい建材も使っております。空気調整もできております。たしか暖房も通っておりました。そういう
教育現場を見ていると、なるほど、足らざるはいろいろあると思いますが、
教育の条件というのは逐年これは整備をされつつあるなという感じが私はいたしました。アルミサッシか何かできれいな窓枠で、とても大きな明々とした窓から太陽がさんさんと輝いている。外は大変いてつくような寒さでございました。そういう時点の子供たちの
教育を見て、ふっと私は自分の小学校のころを思い出していた。
〔理事坂野重信君退席、
委員長着席〕
私は石川県の田舎でございますから、冬は雪が物すごいです。外から雪が入ってまいります。火鉢も何もありませんでした。当然、終戦直後でございましたから全くはだしでありました。寒いときは背中を一生懸命みんなでさすり合って暖をとる。それでも直らないときは外の雪の中を走り回って、湯気で顔が上気しながら授業を受けたということを思い出します。
それはそれなりに、当時の時代と今の時代とを比べてみると、どっちがいい悪いということじゃなくて、もちろん今の条件がいいことは決まっておりますから、ふっとそのときに、この子供たちに風雪に耐えるというようなことを一体だれがいつどこで教えるのだろうか。いつまでも日本の国はこういう形でやって進んでいかなきゃならぬ、これは政治家の我々の務めでございますが、しかしやはりこれから新しい世紀に向けて生きていく子供たちにとっていろんな苦難というものがあるだろう、いろんな困難というのはまさにアクシデントで出てくる、そのことに勇気を持って立ち向かっていけるだけの人間性というのを一体だれがどう教えているのだろうか。
こういうことを考えますと、私は戦前、戦後の
教育を含め、いろんな自分なりの体験を積んでまいりました。関
先生から比べれば全く私
どもはまだまだ乏しい体験でございますが、子供たちに対して、単に
教育というのは学問的な領域を広げて学問や知識を教え込むということよりも、人間としての正しい判断をしていく一番大事なところ、これも先ほど関
先生がちょっと述べられておりましたが、先人が築き上げてこられた規範、知識を継承させて、なおその上に発展をさせていくという人間にとって大事な使命がある。そういう人間形成に当たってはその観点からその基礎を確実に身につ
けさせるということが大事だろうと思います。こうしたことなどを中心に
教育というものをもう一遍考え直していくことが大事だろうというふうに考えております。これは、私は個人的な考え方を述べたにすぎませんが、やはり
教育改革の一番大事な視点でなければならぬというふうに私はこの国会を通じて述べてきたところでございます。
そういうことを考えてまいりますと、先ほ
ども申し上げましたが、量的には確かに拡大もいたしましたし、ある意味ではそれぞれの分野は、レベルといいましょうか、学問的水準というのはとても日本は高くなりました。しかし、それだけにすばらしい
教育でありながら、今日的なさまざまな問題、
指摘、このことについては世の中の変化にすべて
責任を押しつけるのではないかというふうに今、前島
先生から御
指摘がございましたけれ
ども、そうした社会の変化や人間の持っております文化というものに対する価値観というものがどんどん変わっていく。そのことに対して、これだけ年月のたった日本の
教育から見ればこれはなかなか柔軟な対応がし切れない。先ほ
どもちょっと関
先生と
久保先生の御議論も私伺っておりましたが、例えば人間の能力というものをどう区別するのか。そのことは、民主主義に反するのか、
教育基本法に反するのかという議論になってくる。伸びる子はどんどん伸ばしてやる、やりたくない子供までそこに入れて勉強させることが果たして正しいのかどうかという、そういう議論もございます。
そういうふうに
一つ一つ考えてまいりますと、ある意味では成熟した今の日本の
教育制度ではなかなか対応し切れない面が非常に出てきておるのではないか、こういうふうに私
どもは考えます。こうした点は当然、反省と自省の上に立たなきゃならぬということは言うまでもないことでございまして、そういう中でもう少し生き生きとした、そしてだんだん世の中の変化や文化の進展、科学技術というものはどんどん進んでまいりますだけに、それに即応した知識だけを子供たちに押しつけていくということであっては、人間の大事な規範、先人がつくり上げた伝統や芸術、文化、そうしたものを正しく次の世紀、世代へ受け継いでいくということの使命をややもすると私は忘れがちになるのではないだろうか。
特に、今日的な社会の変化の最大のものは、国際的感覚といいましょうか、国際化ということを考えておかなきゃならぬ。国際社会の中に日本人が生きていくということを考えてまいりますと、まず自己を見詰めて、自分の国を愛し、理解をし、日本の国の伝統や文化というものを正しく掌握して、そして他の国の人たちを理解していくということが国際社会の中に生きていく子供たちにとって最も大事なこれは約束事でなきゃならぬ、こういうふうに私は考えます。
そういうことを考えますと、量的な面も質的な面ももちろん充実はしたと思いますが、もう一遍基本的な考え方を改めて見て、そして
教育全体の諸制度をもう一遍眺めて検討し直してみる、このことは私
ども現世に生きておる大人の子供たちに対する責務ではないだろうか、こんなふうに私
どもは考えております。したがいまして、あくまでもこのことはこれからの
審議会を拘束するものではございませんけれ
ども、やはりこれからの
審議はこうしたことの基本的な視点をぜひ参考にもしていただきたいと私は願っておるわけでございますが、そういう意味で幅広く
教育全体に対して御議論をいただく最も適切な時期ではないか。
それは
予算委員会でも申しましたが、日本のちょうど今の民族のバランス感覚というのは、端的に言えば、昔の修身あるいは
教育勅語を学んできておられる方々というのもやはり何分の一かいらっしゃる。同時にまた、私
どものように全く幼児期にはそうした時代を経験してまいりましたけれ
ども、戦後の新しい民主
教育を体験した世代もおります。また、私
どものような考え方を持っておる者の子供たちもいるし、さらにもっと言えば、今はやりの言葉で言えばナウいというような考え方を持つ人たち、この人たちも何分の一がいらっしゃる。こういうさまざまな
教育の環境や社会の背景によってそれぞれ人間として完成をされてくる、そういう民族というのが今の日本にいる。このことを
一言で言えば価値観の多様性という言い方があるのかもしれませんが、そういう考え方を持っておりますから、
教育の根本的なものに手をつけるということになりますと、すぐ昔のことにどうも戻るのではないかとか、あるいは憲法を踏みにじるのではないかとかというおそれがあって、ついつい
教育行政、制度については何となくさわらないまま今日に来たという感じを私は否めないと思うんです。
そういう意味で、この時期に私はさまざまな考え方を持つ日本の幅広いこうした民族的構成というものを考えてまいりますと、これは血の通った意味での民族の違いということではございません。人間それぞれ学んできた
教育、あるいはその環境ということの違いによってという、私はそういう意味での民族的ないろんなバランスがとれた今の時代だろうというふうに考えますと、今
教育改革を行うということは極めて私は適切な時期ではないか、こういうふうに考えておりますが、当然、
先生から御
指摘がございましたように、決して内面的な、
内容的なものに全く自省も反省もしないままにこのことについての考え方を述べているわけではございません。当然、社会の変化や、そうした文化の変化というものにも即応していかなきゃならぬと思いますし、多くの成果を得た日本の
教育でありますが、同時にまた、その中から反省というものを十分見出して新しい柔軟な対応を求めていく、そういう大きな姿勢というのは、当然、
文部省としても、また
文部大臣としても、政府としてもとるべきであろうというふうに私は考えております。