○
参考人(
永井道雄君) 午前中大学の授業をやっておりまして、実は、十二時まであるものですから、学生諸君の了解を得て、終わりのところをはしょることにいたしました。そのためにこちらに遅刻をいたしまして、まことに申しわけございません。お許しをいただきたいと思います。
私は、きょうお話を申し上げるに当たって、現在
国連大学学長特別
顧問という仕事をいたしておりますので、その角度から
我が国の平和あるいは総合的な
安全保障、そういう問題についての私の体験に基づく考えをお話し申し上げさしていただきたいと思います。
実は、この
国連大学という案を
最初に考えました人は、
日本人ではございませんで、一九六九年ですから、昭和四十四年、当時
国連の事務総長でしたウ・タント氏が提唱したわけでございます。それで、なぜそういうことになったかといいますと、当時チェコスロバキア事件というようなものがございまして、ソビエト連邦の東欧諸国に対する支配と、あるいは干渉というものが非常に明らかであった。また他方、ベトナム
戦争が進行いたしておりまして、これがソビエトだけではなく
アメリカもそうですが、
米ソの代理
戦争であるということは、だれの目にも明らかでございました。そこで、ウ・タント事務総長は、実は事務総見として何度もこの二超
大国に対して自制することを勧告されたわけでありますが、十分に効果を生みませんでした。
そこで、一九六九年、昭和四十四年の
国連総会で
国連大学の創設を訴えられたわけでございますが、その
理由は、やはりひとつ
国連を強化していかなきゃいけない。それで、
一つの国の中に
政府がある場合、大学というものがございまして、そこでその
政府のあり方、こういうものについて研究をしたりして強化をしていく。それと同じように、やはり
国連というものがここまできまして、いろんな問題を含んでいるときに、
国連大学というものをつくって強化したい。もう
一つ、これも国の中の大学と同じでございますが、若い人たちが大学というところには参加をいたしてまいりますから、したがいまして、
国連大学に若い人が参加をして、そして長期にわたって効果を上げるようにしたい、こういう二つの
理由によって提唱をされたわけでございます。
それで、私は、その翌年から実は朝日新聞の記者になりまして、今そこにおいでになる
和田教美さんと当時同僚でございますが、署名入りの原稿を書きまして、いまのような考えを事務総長が持っておられるときに、
日本がこれを実現し得る最も有利な
立場にある国、
経済的にもそうでございますし、またウ・タントさんは、御
承知のようにビルマの人でございますから、そういうアジアからの立派な国際的なリーダー、まあ
日本にはそういう国際的リーダーはないのですけれども、しかしながら
経済的にはそれだけの力もございましょうし、呼応すべきではないだろうかということを書いたわけでございます。
当時総理大臣が
佐藤榮作氏でありまして、官房長官が木村俊夫氏でございました。私は、そのお二方にそれまでお目にかかったことがないのですけれども、突然そのお二方からお呼びがありまして、お目にかかりました。それで、お二方ともに、実はあなたが書いたそのウ・タントの考えというのは非常に大事であって、
日本もここまで
経済成長を遂げた以上、
自分たちは
国連大学の創設というものに
日本政府が力を入れていくことに踏み切りたい、そういうことを言われたわけでございます。
平和憲法というものもあり、それが大事であるということから、お二方がそう言われたのだと思います。
ちょうどその年、万博の年でございまして、ウ・タント事務総長をお呼びしておりました。これは
政府が呼んでおられたわけでございます。ただ、四月においでになるものですから、あらかじめ
日本にその意思があることを事務総長にお伝えしておいてほしいという今のお二方のお
言葉がございまして、これは、幸いなことにウ・タント事務総長の秘書課長は、現在
国連事務次長でございますが、明石康君でございまして、明石君に連絡をして
日本政府にそういう意向があるということを伝えて事務総長に申し上げたところ、事務総長は非常な期待を持って
日本においでになりました。昭和四十五年四月十六日でございますが、総理が帝国ホテルで事務総長に対して歓迎の辞をお述べになりまして、万博へおいでいただいたことに感謝されると同時に、予定どおり、あわせて
日本国は
国連大学本部を首都圏に誘致して、この建設のために主要な役割を果たしたいということを申されたわけでございますので、これは当時の今申し上げたお二方のリーダーシップによって、また国民もこれを支えたものと理解いたしておりますが、できたことでございます。
しかしながら、これは全く新しい大学でありますから、それをどういう形のものでつくり上げていくか、また
国連総会の賛成をどうやって得るかということは難しい問題でございまして、
日本が
自分の方から出して新しい機構をつくっていこうという形で
国連総会に提案をいたしました、戦後提案をいたしました
最初のケースであります。つまり、それまでは議題がほかの国から出てくるのに賛成したり反対したりと、そういうことはやっていたわけですが、これは実はジャパン・マターと
国連総会でも呼ばれるようになったわけでございまして、当時の鶴岡大使、安倍大使、小木曾大使、斎藤大使等々大変な御苦労をなさいました。概して欧米諸国は
日本がこれを誘致することに反対でございました。その
理由はどうしてかというと、
日本人は今まで国際的活動をそうやっているわけじゃない、ところがまあ
自分らの方はハーバードとかケンブリッジとか長い間何世紀もかかって国際的大学をつくってきている、そこでそういうところで今のようなことを考えればいいわけであって、
日本のように余り経験のないところがまあ希望は結構だけれども、実際にやるというのは無理であるということで、賛成を得られませんでした。
ソ連邦についても同様でございます。
ところが、百を超えます第三
世界の国々が実はジャパン・マター、
日本の提案に非常に感銘いたしまして、そして
日本という国は
経済大国として理解してきたけれども、それは間違いであった、
日本にそれだけの決意があるということであるならば我々は支持するということで、たちまち百票を超える票数が集まるということがわかったわけでございます。そういうことがわかったものですから、それに追随をいたしまして先進国も同意することになりましたから、したがって、最終的には満場一致棄権なしで
国連大学の設置が決まり、その中心が
日本になるということに相なったわけでございます。
ただ、どういう大学をつくるかということについて、これは
国連とユネスコでさまざま討議がございまして、難しいことでした。といいますのは、まだ国際的な研究もろくにやったことのない国でございますから、初めから学生を呼ぶというようなことをやるとかえってうまくいかないのではないか、まず研究から発足したらどうかというような注文が先進国からも出まして、結果におきまして一九七五年九月、つまりこれは昭和五十年九月でございますが、渋谷に仮事務所ができましたとき、まず研究機関として発足をいたしたわけでございます。
ところで、初代の学長は
アメリカのへスターさんといいましてニューヨーク市立大学学長をお招きいたしたわけでございますが、その
理由は何かというと、
日本が一億ドルぐらいを拠出する。当時の金ではまだフロートしていないころから提案いたしておりましたので、まあ三百億円ぐらいの見当。しかし最終的には四億ドルぐらい。そうすると大口がほかに入ってくれないといけませんので、
日本の非常に親しい国でもございますから
アメリカに出してほしいという希望を
日本の
政府の諸君も持ったと思います。ところが、
アメリカ合衆国の場合は大統領、国務長官等が三度
我が国の
国連大学に拠金する提案を行いましたが、上院、下院合わせまして三回否決されました。
それは一般的に、
我が国を含めまして国際機構に対して
アメリカが若干熱が冷めてきているという重要な
理由がございまして、昨今
皆様御
承知のようにILOに次いでユネスコを
アメリカが脱退をいたしております。そういう雰囲気があった。もう
一つは、在米の日系人の諸君が、実は日系人の上院議員でございますが賛成をいたしませんでした。それはなぜかというと、例えば難民の救済その他について
日本という国は本当はそんなに誠意を持って国際的な活動をする国ではない、そういうふうにやはり日系の方が言われますと、これは大変な
影響力を持つわけでございまして、私はこの件についてマンスフィールド大使ともお話しを申し上げましたが、今イノウエさんなんという方は院内総務として上院で重きをなしておられる方でございますので、こういう方々が、実は
日本人が言うほど
日本は国際的じゃないですよということでございますと、やはり上院、下院の空気がそのようになったということも否定できない事実であったかと思います。
余り経過を細かく申し上げますと私はその時間がないから少し先を急ぎますが、この話をなぜしているかというと、いろんな抽象的な姿で
日本の
世界の平和への取り組みという議論はできるかと思いますが、実は私は
日本政府がつくると言ったこの小さな窓口のところから話をいたしますと、地についた
我が国の取り組み方というものがわかるだろうという考え方に基づいて申し上げているわけでございます。
そこで四億ドルの拠金はどうなったかと申しますと、これはインドネシアの学長、それからガーナから見えているクアポンという方、これは財務担当副学長でございますが、
世界各地を駆けずり回りまして随分今まで努力をいたしましたが、やっと現在成約額が一億四千万ドルになった。しかしながらこれは成約額でございますので、本当に支払い済みの分は一億二千万ドル強ということでございます。そのうちの九千八百万ドルを
我が国が支払っているわけでございますので、したがって今までのところ国際的にお金を集めることに成功したということはちょっと言いにくいわけでございます。ただし、貧者の一灯という
言葉がございますが、数から申しますと三十を超える国々が拠出をいたしております。御想像のとおりその大部分は発展途上国であります。さらにまた、その基金への拠金ではなくて毎年運営費と事業費という形で応援をしてくれるところがその三十のほかに十数カ国ございますから、まずもって、
世界百六十ほどの国の中で四分の一
程度は
我が国の
国連大学に相当の関心を持ってくれる段階になったと見てよろしいと思います。財政緊縮で名高いイギリスのサッチャー総理大臣は非常に気前がよくて千万ドルを寄附してくださいました。西ドイツも同様でございます。さらにまた、北欧諸国、これは後で申し上げますが、この事業費というふうな形で非常に熱心に協力をいたしてくれております。
ところが、きょうお招きをいただいたのは非常にありがたいのでございますが、去年の夏ごろから局面が変化いたしました。といいますのは、
日本は本部でやっていていいのですが、東京都知事が非常に御苦労くださいまして、そのほかに土地ができた、これは青山車庫でございますが、できた。土地ができましたけれども、まだ建物ができません。そしてこの交渉は、私が
顧問としてやっておりまして、私の力不足もございますけれども、
財政事情等々これあり、これはもう
政府が建てるはずと約束をいたしておりますが、各党の議員の方々あるいは大蔵省の方々などもいろいろ私に理解ある御見解をお述べいただいたわけでございますが、現実において今日まで建物が建っておりません。
そうしますと、余り
日本日本ということでやってもらちが明かないのじゃないかというふうに学長、副学長などお考えになりまして、新しい局面を開くことにいたしました。その
一つは北欧諸国であります。それでオロフ・パルメ氏が現在再び総理大臣に返り咲きましたが、その前、御
承知のとおりパルメ
委員会、平和と
安全保障に関する独立
委員会、これをおととしの軍縮第二次特別総会の一番
基本的な報告づくりという考えでやっておられまして、それでパルメさんにお話をいたしますと、
日本はいろいろ平和運動が盛んなことはわかっているけれども、事実上どういう形で
世界の平和秩序を建設していくかというその国際的な
立場を表明しておられない。そこで、
自分たちでひとつ行って、
国連大学というところが唯一の取っかかりのようだからそこで一緒に会議しましょうということでおととしの十二月七日会議をいたしました。この席においでになる自民党から共産党に至る諸先生方、そのときおいでいただいた方が多いので御記憶と思います。そういう形で北欧が非核地帯をつくっていく。これはその後の軍縮特別総会における報告書にも明らかでございます。そして事実その運動を展開いたしておりまして、北欧にとどまらず、これを西ドイツなどに働きかけて
ヨーロッパでこれがどういう形で実現し得るか。しかしながら、フィンランドやスウェーデンの
立場と
NATO諸国の
立場と違いますから、簡単な
結論が出ていないことはもう今までの方々がお話しになったと思いますから割愛をいたします。
ただ、それとの関連で
国連大学に新しい局面ができたといいますのは、フィンランドがそういう情勢の中ならひとつ我々の方に
国連大学の
ヨーロッパセンターをつくろう、東京の本店がなかなか発展しないようなら支店の方が頑張りましょうと、簡単に言えばそういうことです。実はフィンランドの場合にそれを言ってくれた人はフランスの大統領のミッテラン氏でございまして、これは鈴木内閣のころのサミットでそういう御発言がございました。その次にオランダも同様の
意見を述べました。しかしながら、フランスの場合はそれほど金を使ってあげましょうというところまではっきりした意思の表明がありません。そうするとなかなか実現できない。オランダの場合金額がそれほど多いわけではない。
ところが、幸いなことにフィンランドは来年の四月もう
皆様はヘルシンキにいらっしゃいますと、そこに
国連大学
ヨーロッパセンターという建物もできることになっております。建物も含めまして約百億円、
我が国の拠出全体の三分の一
程度閣議決定をいたしまして、もう実現をすることに決めました。で、それは
世界開発
経済研究所というものでございまして、いま発展途上国が苦しんでいることは明らかでございますが、それと先進諸国における
経済的な停滞とのかかわり合いがございますから、したがってヘルシンキに研究研修センターをつくりまして、そこに
中東やアフリカなどの研修生を年間二百人ぐらい呼びますが、そこの研究者につきましては、たまたまこれまたイギリスのオックスフォード大学が非常な熱意を持っておりまして、いまそこのセントジョーンズカレッジ大学の学長は
国連大学の理事会議長もやってくれておりますが、この七月にはオックスフォードで理事会をいたしまして、欧米ないしは第三
世界の学者たち、それを動員して、いかにしてヘルシンキセンターを強化するかということが決定されますので、これは相当期待できるものがもう来年動き出すわけでございます。
これに勢いを得まして、アフリカの象牙海岸、ここがすでに五百万ドル準備いたしました。
経済的に苦しい国がそれだけ準備してくれたということは非常にありがたいことでございます。で、いまそれとフランス
政府、それから世銀が協力して強化いたしまして、アフリカの自然資源、それから
海洋資源、あるいは農業
関係の資源、さらに鉱物資源等々あるわけでございますが、有史以来アフリカ人はそういう資源を
自分たちの発展に活用したことがない。それをぜひやりたい。で、それをいかにやっていくかというようなことについて先進諸国、特に
日本の協力を得てやっていく中心の組織、これが象牙海岸にできる予定でございます。これはもう実は建物の方は建ちました。ですから、ちょっとおもしろい話なんですけれども、ひさしを貸して母屋をとられるということがありますが、東京の本部はなかなか建ちませんでも、幸いヘルシンキ、象牙海岸あたりになかなかいい支店ができつつあるわけでございます。
三番目にはラテン
アメリカのベネズエラ、ここが生物工学というものを活用いたしまして食糧の増産を図ろうと。これもラテン
アメリカ全体に均てんしようということで動き始めておりますが、これはちょっとおくれると思います。
それから、御
承知と思いますが、現在太平洋地域における
安全保障、軍縮の問題についてオーストラリアの現内閣が大変な関心を持っておられるわけでございまして、すでに
国連大学とどういう形で協力していくかということを言われておるわけでございまして、私も三月に参りますが、そういう形で
アメリカ政府との
関係は先ほど申し上げたとおり、
ソ連政府とも先ほど申し上げたとおりでございますけれども、実は相当
世界にたくさん与党ができました。そして、
アメリカ、
ソ連、いずれの場合も学界の人たちは非常な関心を持って参加をいたしてくれますので、パルメ首相が見えましてからその後はアジア地域における
安全保障の検討会、この四月には
科学技術と
安全保障の検討会等々を行いますが、これはもちろん北欧に限らず、必ず
米ソ、さらに北欧、第三
世界みんな参加をしていただける形で進行しているわけでございます。
ここで私は一、二、
日本の問題と私が考えていることを申し上げたいわけでございますが、広島にも実は
米ソの重要な人に御一緒に来ていただきました。私は片方だけ来ていただくというのは片手落ちと思いましたので両方おいでいただいた。で、聞きましたところ、戦後両方がおそろいでおいでになるのは初めてだそうです。ところが、それに関連して諸外国の方から文句がございますのは、特に
国連機構から文句がございますのは、
日本は核廃絶とか平和運動というのは盛んなんだけれども、それをやる団体がたくさんございまして、またそれぞれお
立場が違いまして、そういう形で
国連に働きかけるものだからどうもぐあいが悪い。そこで、
永井さんの方でなるべくまとめてくださいというので、おととしの
国連軍縮総会のときに随分私は苦労をいたしました。幸いに今までほど広島を舞台に、ここにおいての方々に差しさわりあればお許しをいただきたいと思いますが、原水協、原水禁、核禁会議というようなものがどれが主役かといって争うような様子はもう最近はなくなりました。大変結構なことだと思うのですが、しかしながら四千万人が署名をしたというこの核廃絶運動につきましても実は一番大きいのは二つございまして、
一つは革新的な方の団体、これも二千万以上、もう
一つは新宗連、庭野さんが中心になっておられる方、こちらはどちらかというと保守的な方、こっちも二千万以上、私は両方にお願いして御一緒にひとつやっていただきたい、それが不可能でございますれば、せめて両方のリーダーは両方の会議に出るというふうにお願いしたわけでございますが、どういうことが起こったかといいますと、その両方の会議に出たのは私だけであったということが出てみてわかって、私はよっぽどお人よしなのかと考えたわけでございます。
そこで、
我が国が平和という活動をいたします場合にどうしても大事なことは、これは
平和憲法をめぐる第九条の問題あるいは
日米安保条約をどうするかという問題、こうした事柄について
政治的に違う
立場を明確にして堂々と議論をしていくということは非常に大事でございますが、それと核を廃絶する、そして
基本的には
日本が平和国家として諸外国に対応をしていくということは明確に区別をいたしまして、成熟した国民として対処するという方向を目指さなければ、私は
我が国の
政策に成功がないと考えております。
経済大国というものになりますまでにほぼ百年かかりましたので、私は実は諸外国の方々とお話いたしておりますが、平和的な国家、そして相当の文化があるものとして
世界史に貢献できる段階まであと百年、その間私たちは努力をするつもりなので、どうか飽きずにお見捨てなくお願いいたしますと、こう申しておりますが、百年というと大変長いことを申しているようですが、まずはそのぐらいの角度で考えたのが
日本の実力に合っていると思います。
といいますのは、この平和の運動というのは幾ら国の中でやりましてもそれは
国内運動でございまして、署名の数が多かったりするのは結構でございますが、しかし大事なことは、南北朝鮮が分裂しているときに具体的にその間の平和的共存に
日本人がどういうふうに貢献するのか、その
政策を明らかにして事実働きかけていく
能力、あるいは台湾と北京についても同様の問題がございますが、これについて
一つの考えを持って対処していく
能力、これは理想もございましょうが、スキルといいますか、技能も必要だと思います。外務省の方々も熱心にお働きでしょうが、外務省だけに任せられることでもなく、また外務省にも一層の改善をお願いしなければ到底できる仕事ではないと思います。
さように考えますと、私の考えはウ・タントさんと同じことでございまして、火急の
世界の核軍縮、これを
政治的に推進いたしていくということは大事でございますが、しかしながら
一つの国が本当に長期にわたりまして立派な仕事をしていくときには、どうしても学術の交流とか文化交流あるいは学生の交流、その下敷きが必要でございます。
我が国の場合は実力がない上にそれをやっていないわけでございますから、当分このままでやれば実力はつかないと思います。私がそういうことを決して誇大に申し上げているのではない証拠を申し上げますが、
我が国は国費、私費を含めまして留学生の数が八千人、これは
日本電気、NECという会社がございますが、NECが毎年やっております研修生の数が六千人、
我が国の
経済社会の方は常時三十万人ほどの人が外国で働いて、NECの小林さんなどはローマクラブの
委員の一人でもおいでになりまして、大変積極的にそういうことをおやりになっているんですが、大学ということになりますと、
一つの会社プラス二千人が
日本全体の学生の数という
程度の実力であるということを忘れてはならないと思います。こういうものはもちろん
アメリカ合衆国のように十万人以上の国というのとは比較になりませんが、イギリス、フランスなど、現在は確かに
経済力などでは衰えてはおりますけれども、しかし非常に留学生を受け入れる数も外に出す数も
我が国と比較になりません。四万、五万というオーダーでございますので、
我が国はやはり一人前の国になるという目標がどうしても必要だと思います。
かつて
戦前の
日本には、軍国主義になったときは困ったものでございますが、明治の初期には現在の
ヨーロッパ程度のアンビションというものがございまして、日清
戦争の後ぐらいには
中国から
我が国が受け入れた留学生の数が年間一万人ということでございますので、いまの
日本人と当時の
日本人の、私に言わせれば抱負が、どのくらい規模が違うかという
一つの重要な
参考になろうかと思います。
学術交流にいたしましてももちろん語学が必要でございます。私は、
我が国は語学が大変盛んで、英文和訳とか仏文和訳とかこういうことはよくやります。東京大学を中心にしてそういうことを百年以上やったわけですからよく語学ができると思いますが、現在の話学は何かというと、それだけではなくて英語の文章も書ける、会話もできるということでございますが、私は長くそういうことを
主張してきておりますが、しかし御
承知の共通一次試験の問題というものを見ますと、英文和訳しかございません。したがって、あの共通一次で一番になっても別に将来の
日本に本当に有用な人かどうかわかりません。あれでびりになっても別に決定的に悪いわけではございません。その
程度の入学試験制度を変える
能力のない国であるというようなこともあわせて考える必要がある。さようなことを考えますというと、私が申し上げた百年ぐらいのめどというのは、大体そう何というか、悲観的なものではないだろうと思います。
ここに一億二千万人人間がいまして、ジャーナリストも
政治家も学者もそこにマーケットがあるものですからその仕事をやるだけで忙しくなりますけれども、しかしやはりそこにかまけているということで限度があることを示したのは、
我が国の中では
経済界の人たちだけだと思います。ただそこだけが突出いたしますとこれは大変アンバランスな国になるわけでございまして、もうそのことはだれより一番よく知っているのは
経済界の中で心ある人です。全部
経済界の人が心ある人とは申しません。そういう方たちは私などに頑張れ頑張れと言ってハッパをかけてくださいますが、私に力量が足りないということもございましょうが、他方ひとつの体質というものも国の中にある。したがって、大変
自分のことにかまけた話し方になりましたが、私はこの平和の問題というものは大平さんが
総合安全保障と言われたり、いろいろ
日本の
政策をお示しになりましたが、これをやっていく場合にいろんな理想は言えますし、運動は展開できますが、大事なことは、本当に外に向けて仕事ができるかということにあると考えて小さな仕事をいたしてまいってきておりますので、それに基づいてひとつ参議院において御配慮をいただくということの御
参考にしていただきたいと思って、こういういわばちょっと偏った話し方をいたしましたことをお許しいただいて、私の話を終わりたいと思います。
どうもありがとうございました。