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塩崎潤君 ただいま
議長から御
報告のありましたとおり、本
院議員湯山勇先生は、去る六月十六日深夜御
逝去されました。
思えば、私が
湯山先生と
最後に
言葉を交わしたのは、御
逝去の前日の六月十五日、
サミット報告のあった本
会議場から
議員会館へ二人で肩を並べて戻る道すがらでありました。臨教審問題など生涯
情熱を注がれた
教育問題に触れながら、
先生が別れ際に
松山弁で「あすは
松山へ帰るのよ」とうれしそうに語られた一言が、今でも私の耳に不思議に印象深く残っております。
確かに、その翌日の六月十六日、
湯山先生は、
先生がこよなく愛された
松山に帰られました。そして長らくともに歩んできた
県教組の大会に出席されて力強く
人々を激励されました。しかし、その夜、忽然として永遠に帰らぬ人になってしまわれたのであります。まことに人の世の無情を恨まざるを得ません。
私は、ここに、
議員各位の御同意を得て、
議員一同を代表し、謹んで
哀悼の
言葉を申し述べたいと存じます。(
拍手)
湯山先生は、
明治四十五年一月十八日
愛媛県宇摩郡別子山村に生をうけられました。幼少にしてお父上を、
青年期にはお母上を亡くされて、
苦学力行、
昭和六年に首席で
愛媛師範学校を御卒業されました。
先生が教職の道を選ばれたのは、自分の幼い日を顧みて、人の世の平等の大切さを知り、恵まれない
子供たちにもみんなと同じ
学校生活を送らせてやりたかったからだというとうとい
理由からでありました。
教師生活は二十二年にも及びましたが、この間
高等師範学校に進んだ同級生よりも一年早く
検定試験に合格して理科の
中等教員資格を取得され、さらには県で一番若い視学になられるなど、
先生は
愛媛の子弟の
教育に若き時代の
情熱のすべてをなげうたれたのであります。
しかし、
先生の
情熱はだんだんと
教育から
政治の方に移っていきました。
昭和二十六年に
県教組委員長に、さらに翌年には
地評議長に推され、
昭和二十八年四月にはついに第三回の
参議院議員選挙に
社会党から立候補して見事に初当選され、今日の
政治家湯山勇先生の道を歩み始められたのであります。
参議院議員としての
先生の御
活躍は目覚ましく、特に
教育問題におけるそれは際立ったものでありました。
昭和三十一年の新
教育委員会法審議の際の
湯山先生の本
会議場における混乱にも動じない毅然たる御行動は、
石川達三氏の有名な小説「
人間の壁」の中に詳しく描かれ、多くの
人々に深い
感銘と共感を与えたのであります。(
拍手)
昭和三十三年一月には
参議院文教委員長の御
要職に進まれるのでありますが、ほぼそのころ、大蔵省の
文部主計官でありました同郷の私に、
文教委員会で例のやわらかい口調でありながら精緻な御質問を通じて、
日本における
教育の重大さを教えていただいたことをきのうのように思い出すのであります。
先生は、
昭和三十五年十一月の第二十九回の総
選挙に当選されてから本院に議席を移され、一時、
知事選に挑戦するため辞されたことはありましたが、再び
昭和四十七年に復帰されて以来、七期、十八年の長きにわたって縦横無尽の
活躍をされたのであります。
一方、
日本社会党の中にあっても、政審副
会長、
文教部会長などの
要職につかれ、党の
重要施策の立案、決定に大きな
役割を果たされ、最近では、
代議士会副
会長として党の
運営に大きく
貢献されました。
一方、
地元愛媛でも「
社会党の顔」「革新の星」とまでうたわれて、揺るぎなき
社会党の基盤を堅実に築き上げられたのであります。
その御
活躍の
範囲は広くかつ深く、
辺地教育、
養護学校教員給与の
国庫負担、
教員免許状などの御専門の
教育問題はもちろん、米価問題、農産物自由化問題にあらわされる農政問題、年金、医療問題を中心とする
社会保障問題から地域改善問題にまで及びました。また、御
活躍の場所も、
文教委員会を初めとする数多くの
常任委員会から
予算委員会に至るまで、さらに
昭和五十一年には
災害対策特別委員長に御就任されるなど、いずこにおいてもあのじゅんじゅんと説得する式の
湯山先生のお姿は、今でも目の当たり見えるようであります。
先生の
人間像を示すものとして、ここにどうしても御
報告しなければならないのは、第九十八回
国会において成立したいわゆる
献体法をみずから実践されたことであります。医学の
教育と進歩のために、
遺族の
意思にかかわらず本人の
意思だけで
献体できるという
献体法は、まことに画期的なものでありますが、
先生は先頭に立ってこれを促進し、ついにこれを成立せしめたばかりか、みずから
国会議員の
献体第一号として、
愛媛大学医学部にとうといその身をささげられたのであります。(
拍手)
その御遺体が車で送られていく光景をまざまざと目の当たり見た見送りの私
どもは、
湯山先生と
チアキ夫人その他御
遺族の、身をささげても
最後まで
社会に奉仕するという崇高なお
気持ちに、言いようのない深い
感銘を覚えたものであります。(
拍手)
先生の
政治哲学の根底は、みずからの
献体に示されるように、
人間に対する深い
思いやりにあったと思われます。そして、この深い
思いやりは、
先生のあのやわらかな語り口にあらわされる優しさから出ていることは言うまでもありません。
この優しさと
思いやりは、ふるさとの自然から動植物にまで及びました。
先生が
愛媛の山や野を好んで歩き、学界でも絶滅したと思われていたイヨスミレを半
世紀ぶりに再発見したとき、「おまえ
たちはこんなところに咲いていたのか」と群れ咲く花を前にして涙されたというエピソードは、
先生の優しさ、
草花を愛し庶民を愛するお人柄を最もよく物語っているものであります。(
拍手)
議員をやめたら洗礼を受けて
一緒に教会へ通おう、可憐な
草花を求めて
一緒にゆっくり山歩きをしようと
常々奥様に語られていた
湯山先生でしたが、御愛読の聖書の中にある「一粒の麦もし死なずば」のあの教えのように、たとえ地に埋もれても必ずや
愛媛の野に多くの実を結び、
先生の御
遺志を実現しようとする
人々がほうはいとして続くことは信じて疑いません。
内外情勢の極めて厳しい折から、ここに
湯山先生を失ったことは、本院にとっても
国家国民にとってもまことに大きな損失であります。また、後輩の一人として長い間御交誼を受けた私自身にとりましても、
湯山先生の御
逝去は
政治を志す者のかがみを失った思いであります。私
どもは、
湯山先生の御
遺志を体し、決意を新たにして国政に取り組むことを誓うものであります。
ここに、
湯山先生の生前の御功績をたたえ、その人となりをしのび、安らかに眠られんことを心から祈りつつ、謹んで
哀悼の
言葉といたします。(
拍手)
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