○佐藤誼君 私は、
日本社会党・
護憲共同を代表し、ただいま
議題になりました
教育職員免許法の一部を
改正する
法律案について
質疑を行うものであり
ます。
まず私は、冒頭次の二点につきまして中曽根総理大臣に質問をいたし
ます。
その第一は、今中曽根総理のもとで進めている
教育改革のねらいについてであり
ます。
今日、
国民は
教育の荒廃を憂え、その克服と今後の
教育改革をひとしく求めているのであり
ます。しかし、
中曽根内閣が進めようとしている
教育改革は、この
国民の
教育改革の要求を逆手にとって
国民の期待を裏切り、
教育の権力支配と戦前回帰の
教育をねらっているのではないかということであり
ます。あなたは、新聞報道になったある集会で、「まず行政改革、次は
教育改革、これが進まなければ防衛問題もだめ、憲法
改正もだめになる」と述べているのであり
ます。つまり、あなたの言う
教育改革は、戦後
政治の総決算の一こまであり、防衛問題や憲法
改正問題と同一線上にあると言えるのであり
ます。
また、一方、今日の臨時
教育審議会
法案の中身を見れば、臨時
教育審議会は総理大臣の直属の機関であり、その委員及び会長は総理大臣の任命及び指名になっているのであり
ます。しかも
会議は非公開とされてい
ます。まさしく
教育改革の論議は、権力の集中する
内閣総理大臣のもとで、その首相の権限の射程の中で、しかも密室で
審議されるのであり
ます。これでは、
国民がひとしく憂慮するように、
教育に対する行政権介入、そして権力支配に大きく道を開くものと断ぜざるを得ないのであり
ます。(
拍手)
総理、このたびの
教育改革が、あなたの言う戦後
政治の総決算とどのようなかかわり合いを持つのか、また今後の
教育改革の
審議の中で、
教育の権力支配に対しどのような歯どめと保証があるのか、総理大臣の見解を求めるものであり
ます。
第二は、今日の
教育の荒廃に対し、長年の文教政策を担当してきた自民党として、どのように責任を感じておるのかということであり
ます。
まず、今日の
教育の荒廃が、家庭、学校、社会など広い分野にまたがる複合的要因によることは論をまちません。その中にあって、今日の
教育荒廃の最大の要因は、何といっても
人間の値打ちを点数でえり分けるいわゆる偏差値
教育、それに学歴社会と結びついた受験地獄にあることは申すまでもありません。
さて、その背景をなすものは何でありましょうか。振り返ってみれば、
昭和三十五年ごろからの高度
経済成長政策とともに、
経済界そして財界は、
教育に対し、
経済成長に役立つ人的
能力の開発、つまり人材開発を求めてきたのであり
ます。一方、それを受けた文部省そして自民党文教行政は、有名大学を助長する一握りのハイタレントの
養成、
能力主義に基づく早期選別の
教育政策を進めてきたのであり
ます。それは、
昭和三十五年以降の所得倍増計画、その後のマンパワーポリシーを見れば明らかであり
ます。つまり、今日の大学格差と学歴社会、そして過酷な受験競争と差別、選別の偏差値
教育、これを助長してきたものは、ほかならぬ自民党
政府の文教政策それ自体ではなかったのか。この点について総理大臣はどのように考えるのか。今日の
教育荒廃に対する自民党
政府としての責任について、その見解を求めるものであり
ます。(
拍手)
さて、次は、
提案された
法案に関連し、総理大臣並びに文部大臣に質問してまいり
ます。
第一は、この
法案の背景についてであり
ます。
この
法案は、昨年五月二十六日自民党の免許法
改正に関する提言に始まり、文部省の
教員養成審議会に対する諮問、そしてその答申を経てつくられたものであり
ます。しかし、
審議会の答申を経てつくられたにもかかわらず、この
法案は、昨年五月二十六日自民党が提言した
内容とほとんど変わっていないのであり
ます。なぜそうなったのか。そこで問題になるのは次の点であり
ます。
すなわち、文部省は教養審に諮問するに当たって、自民党の提言とほぼ同様なものを試案として示し、その答申を求めていることであり
ます。そして答申は、六カ月にも満たない短
期間の
審議で、大筋文部省の試案どおり
報告されているのであり
ます。これでは何のための
審議会なのか。自主性、中立性を標榜する
審議会とは実は文部省の隠れみのであり、一方、自民党の
原案を
国民合意の名のもとに
法案化するマジック機関にすぎないということをみずから暴露したものにほかなりません。この意味で、この
法案は
国民の合意とはほど遠く、自民党主導による
審議会不在の
法案と言わなければなりません。文部大臣の所見を求めるものであり
ます。
第二は、免許状を三種別にするということに対する疑問であり
ます。
つまり、大学院修士課程修了者は特修免許、大学学部修了者は標準免許、短大卒業者は初級免許とするということであり
ます。これは、学歴によって免許状に差をつけるということであり
ます。この三種別免許の導入は、学歴と免許によって
教員に上下の身分関係を持ち込み、職場に
教員の序列化を生むということは明らかであり
ます。同じ学年の中で、あるクラスの先生は初級免許の先生、他のクラスの先生は特修免許の先生、このことについて子供や父兄はどのような感じを抱くでしょう。また、自分のクラスの先生が一番偉いと思っている子供心に、いたずらな不安を与える結果になりはしまいか。そしてこの制度は、ひとしく
教育を施すという
教育現場に果たしてなじむ制度であるのかどうか。総理大臣と文部大臣に所見を求めるものであり
ます。
また、この制度の導入は、
教員の序列化とともに、特修免許取得による管理職志向の傾向を強め、
教育現場の管理と統制をさらに強めるものと見なければなりません。今荒廃する
教育現場で求めているものは、管理と統制の強化か、それとも自由と創造の息吹なのか。
教育は、
人間の可能性を引き出し、その人格を完成し、個性を伸ばしていく創造的営みであることを忘れてはなりません。その意味で、本来、
教育現場には管理と統制はなじまないのであり
ます。今、
教育現場は、多彩な個性を持った教師集団の協力、そして職場の信頼の厚い校長のもとで、
教育の荒廃に対してもよりよい成果を上げているのであり
ます。このことに思いをいたすとき、今回の免許状の種別強化は、
教育現場が求めている方向に逆行するのではないかと考え
ますが、文部大臣の所見を求めるものであり
ます。(
拍手)
第二は、免許基準の引き上げに対する疑問であり
ます。
このたびの法
改正は、免許基準の大幅引き上げと教職科目及び
教育実習の単位を大幅にふやすということであり
ます。このことは、
教員養成以外の一般大学では
教員免許の取得が極めて困難になるということであり
ます。これは、すべての大学で
教員免許を与えることができるという戦後の開放制度に制約を加え、戦前の閉鎖的な
教員養成制度に逆戻りするという点で極めて重大であり
ます。
思えば戦前の
教育は、富国強兵、戦争遂行といった国家目標を達成する手段とされ、そのための人づくりを担ったのが戦前の教師であり
ます。そして、その
教員養成制度は、師範
学校教育に代表されるように、為政者の意のままになる教師づくりとして閉鎖的な制度であったのであり
ます。戦後は、その反省に立ち、広く人材を求め、多彩な個性を
教育界に送るというねらいで開放制にしたのであり
ます。今再び閉鎖制
教員養成制度に道を開くということは、戦前の
教育に逆戻りするいわゆる戦前回帰の
教育改革と言わなければなりません。これは、最初から
教員養成コースに乗った者だけを
教員として
採用するということであり、そのねらいは、閉鎖的な
教員養成制度の中で為政者の意のままになる教師づくり、やがては国定の教師、国定の教科書づくりにつながる危険なものと見なければなりません。もし
政府が、今のペーパーティーチャーを問題にし、そのことによって閉鎖性を持ち込むとするならば、
教員養成制度の
基本的な点で大きな過ちを犯すものと言わなければなりません。
以上述べた免許基準の引き上げに伴う
教員養成の閉鎖性について、文部大臣の所見を求めるものであり
ます。(
拍手)
最後に、中曽根総理大臣に質問いたし
ます。
今、
政府は、今後重要な
教育改革の問題を
審議するとして臨時
教育審議会
法案を
提案しながら、一方で、総理自身も認めている重要な
教育改革の中心である
教員養成制度、すなわち教免法
改正案だけを特に取り出して
審議しようとするのはなぜなのか、まさに自己矛盾と言わなければなりません。この点、
国民もひとしく理解に苦しむところであり
ます。
また、今の
教員免許は、六・三制を前提にして学校別の免許に分かれており
ます。もし臨教審が発足し、今の六・三制の学校の区切りが変わったとすれば、それより先に新しい免許法によって出発した
教員養成制度はどのようになるのか、それでも
教育職員免許法の
改正は今どうしてもやらなければならないのか。私は、
政府の
立場からいっても、免許法の
改正を急ぐのは自己矛盾と考えるのであり
ます。したがって、私は、本
法案は直ちに撤回すべきものと考え
ますが、中曽根総理大臣の答弁を求めて、私の質問を終わり
ます。(
拍手)
〔
内閣総理大臣中曽根康弘君
登壇〕