○稻葉(修)
委員 なかなかいいお心がけてあります。したがって、
政治家は謙虚でなければいかぬ、こういうふうに思うんです。総理
大臣なんかになると、何様になったつもりでいるのかわからぬようなのがおりましたがね。また、諸外国を歩いて声価が上がっているというふうに思って、
世界は中曽根を求めているみたいな
考えにならなければいいかと思っているんだ。かつてそういうことを言って総裁選挙ではかっと負けた人もいる。
教育改革というものは国家百年の大計でありますから、そういうことになっては非常な間違いを起こすのじゃないかと思って心配しているわけであります。あなたのお心がけは大変見上げたものであると私は思う。しっかりやっていただきたいと思います。
次は、教師とは一体何なんだ、労働者なのか。
この間私は、見てくれ、見てくれと言うから、
文化女子
大学付属高等
学校というものを見に行った。そうしたら、自動車の中でそこの校長
先生が、お忙しいのに来てもらってまことにありがとうございますが、もしとてもお忙しくて時間がないというなら生徒の顔だけ見てください、こう言われた。えらいことを言うなと思った。つまり、
教育の効果が上がっているかどうかは生徒の表情を見ればわかる、こういうことを言われるわけですね。私も同感だと思って、なかなかいいことをやっているなと行って見てきましたが、あなたも一度ごらんになってもいいと思うくらいであります。
そこで、今日の
教育の荒廃の原因はやっぱり
先生と生徒がしっくりいっていない。たまにはしかってもらいたいところをしからなかったり、また能力に応じないで鍛錬して戸塚ヨットスクールみたいになっては困るけれ
ども、神様のような性質と動物のような悪魔性と両方
人間は持っているわけですから、やはり
教育は
人間の神様のようないい性質を伸ばし、引き出し、エデュケートし、エルツィーエンし、それから悪魔性はやっぱり抑えつけなければならぬ。どうも戦前の
教育は鍛錬、強制に
重点がかかり、戦後の
教育は何でも引き出す、引き出すといって悪性までも引き出して、親を殴り殺すような悪性まで出てきた。だから小さいときにやっぱり、カントの言っているように、欲望を抑えるしつけを受けなかった人は不幸である、こういうことを言っていますな。今あなた、世相を見てどう思いますか。個人的にも職域的にも
地域的にもエゴイズムのはんらん、そういう世相を非常に心配するわけです。だからローマ滅亡の前夜みたいな
感じがする、こう申し上げたのです。
学校教育にもそれから幼稚園の
教育でも、まず
先生を尊敬せしめるというしつけを家庭においてしなければいかぬと思うのだ。
学校教育と家庭のしつけと歩調を合わせて進まなければいかぬと思うのだ。そして、
子供をしつける
標準が昔は
教育勅語なんかありましたから、弱い者いじめなんかしたときにはそこへ座らせられて、
教育勅語に反するぞということで母親なんかにしかられたものだが、そういう
標準がなくなったものですから、どうも戦後のお母さん
たちは、非常にいい
意味における
教育ママたらんとしても、
標準がなくてしつけの能力が失われて、そしてだんだん小
学校へ行ってもおかしくなったりするんじゃないか。そして、家庭は
学校の
教育が悪いからだと言い、
学校の教師は家庭のしつけが悪いと言って、責任のなすり合いみたいなことをしております。
この間、私は、はらたいら君というのと竹下景子ちゃんというのと対談をした。そのときに私が北鎌倉幼稚園、これは円覚寺の経営しておるところですが、孫も
子供も皆そこへやって、そこからもらった「
子供のしつけ二十五カ条」というものを見せたら、これはテレビに出たものだから、全国から大変に、あれくれ、あれくれと言ってくるんだよ。いいことだなと思った。それほど
子供のしつけに大変に悩んでいるのが
現状ではないかと思うのです。
いいこと書いてありますよ。なるべく戸外で遊ばせよとか、早寝早起きの習慣をつけよとか、買い食いは
子供の健康を損ない性格を悪くするというようなこと、子との約束に背くときはうそを教えるに同じ。きょうはおとなしくしていればおもちゃをお土産に買ってきてやるなんて言って、飲んだくれて忘れてしまう。よくあるでしょう。あなたはそんなことはないと思うが。うそを教えるに同じ。だから、あれは「
子供のしつけ二十五カ条」だが、
子供のしつけを担当する母親のしつけ二十五カ条なんだね。
そういうことがございまして、幼児
教育、それから小中
学校の
教育、高等
学校教育、
大学教育、
社会教育と、こういくわけでありますけれ
ども、その
教育の荒廃が叫ばれて久しいが、内閣全体の総力を挙げてこれに取り組むということを言っているのは我が意を得た次第である。歴代
文部大臣にも責任がある、私らや
坂田道太さんなどにも責任がある、
国民に対して非常に申しわけない次第であるな、こう思っているわけであります。
あなたは総理
大臣とこの問題について一生懸命に取り組んで相談もなすったようでありますが、早く臨教審を設けていい答申をいただいてやっていただかなければいかぬが、その際に、この間細川さんとの話において
教育基本法のことが出ておりましたが、そのことを論ずると
入り口でがちっとぶつかり合って、そして臨教審
設置までもこぎつけられないうちに対立が激化するから困るんですとあなたが言っておられたが、それは大変にいい
考えだと思いますよ。
同時に、教員は労働者であるのか
専門職であるのかというようなことをここで私が
質問して、あなたがお答えになって、また
委員会の空気を険悪にしたりすることは慎まなければならぬけれ
ども、私は、やはり労働者も大事ですよ、労働者を卑しむものではない。しかし、レーバラーあるいはアルバイター、これは法律学上の言葉、経済学上の言葉なんだ。働く者すべて労働者であるわけはないんだ。家庭の主婦はよく働くけれ
ども労働者とは言わないでしょう。言ったらおかしい。奇異な
感じを受けるでしょう。それはどういうところにあるかというと、家庭の主婦は御主人に対する愛惜とか
子供たちに対する愛情とかそういうことで一生懸命に働いているのですから、工場賃金労働者のように一時間働けば幾らとかいうふうに、時間との
関係においてたやすく金銭に換算し得る内容の労働力の提供者ではないんだな。労働者というのはそういう
学術上の術語でありますから。だから、倫理綱領により教師は言うまでもなく労働者であるというのは、
学問的に誤りだと私は思っているんです。
文部大臣もそういう
考えであられるのかどうか。やるとまた
入り口で与野党間の争いが激化して法案が通らなかったり、いろいろあるかもしらぬ。だから、この間のあなたのテレビの
答弁はなかなかうまいことを言っているな、さすがに
政治家として成長なさいましたな、こういうふうに私は感得しております。
やはり正しい
教育観、
教育が
文化の源泉であり、
文化は広い
意味においては
学問的な真理、倫理道徳的な善、至高の善、芸術的な美、これを人類価値にとって究極の最高な価値であるという価値観のもとに、政治は第二義的なものであるという謙虚な気持ちで取り組まれるということと、やはりきちっと教師観を踏まえていただかなければ正しい
教育改革はできぬと思う。何といったってこういうふうに
学校教育でも暴力だとか家庭暴力だとかを来した原因は、子は親の言うとおりにはしないけれ
ども、するとおりにはするという恐ろしい言葉がある。
学校の生徒も、
先生の言うとおりにはしないかもしらぬけれ
ども、するとおりにはする。ですから、ストライキなどに出かけていって、おまえらは自習していろよなと言う
先生に対し、どこへいらっしゃるんですか
先生、とこう言うと、おれはこれから実力行使に行ってくる、こう言うんだから、それをまねするわな。言うとおりにはしないけれ
どもするとおりにはして、そして今度は集団を組んで
先生に対して暴力行為をしかける、こういう状態になっておる。
どうもそういう点で、師の影三尺下がって踏まずということは言わぬけれ
ども、労働者ではないんだ、
先生は
先生なんだ。資本と労働というような経済
社会における対等の地位ではなくて、
先生は上、生徒は下。
大学紛争のときには団交と称して、
先生は下で生徒が止みたいでいるような光景がたくさんあった。そして、その
委員長みたいなやつが肩を突き出して「てめえ」というような言葉を使う。言葉の乱れは世の乱れと言うんだ。ああいうことを是正するには、やはり教師は聖職であるという観念をまず出発点において持って、そして取り組まなければいかぬ、こういうふうに思うのですが、
文部大臣はどうでしょうかな。