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佐藤(誼)
委員 各論の細部までいきますととても時間がやり切れませんし、これは現状認識と
考え方ということで、きょう私は、問題提起をしながら
大臣の意見も聞くことにしているわけでありまして、時間の制約もありますから、ちょっと
質問の角度を変えていきます。
先ほど申しました
学歴社会あるいは受験競争、
偏差値という問題を端的に申しますと、今日の
学歴社会を引き起こして受験競争に拍車をかけていった、その原因、
責任はいろいろあると思いますけれども、今までの
教育行政にだって
責任の一端があると言わざるを得ない、
責任は免れないと私は思うのです。以下、私の
考え方を述べていきたいと思うのです。
第一点は、経済成長とともに進学率は高まりました。これは事実ですから、経済的余裕ができたという側面もあります。しかし、経済成長とともに、例えば
高校はもちろんのこと、
大学を出なければとても
社会的に通用しないという、つまり、経済成長政策がそういうようにこの進学率を高めていったという側面もあったと思うのです。そこで、その経済成長政策というのとこの
教育の問題は非常にかかわりがあると私は見ているわけです。
〔
委員長退席、船田
委員長代理着席〕
率直に申し上げますと、高度経済成長政策、つまり、あれは
昭和三十五年ですか、池田内閣
時代の所得倍増
計画、これに始まる経済成長政策、これとともに財界からの
教育に対する要望という形で、たくさんの意見なり提言なりが出てまいりました。これは当然
教育の中にも生かされていったという経過は、
大臣も御承知だと思うのです。このことは、
学歴社会、受験競争の激化ということに無縁ではなかったというふうに私は思うのです。そこで私は、時間も制約されておりますから、私の方の
考え方をちょっと述べますので、
大臣はひとつお聞き取りいただきたいというふうに思います。
これは、今申し上げたように高度経済成長政策、一九六〇年十二月、国民所得倍増
計画が閣議で決定されておりますね。これなんであります。細かいことは抜きますけれども、
教育の問題に触れていると私は思うのです。例えばこの中に、ちょっと一行だけ引用しますと、「経済政策の一環として、人的能力の向上を図る必要がある。 人的能力の向上は、国民全体の
教育水準を高め、」云々ということで、経済政策と
教育と人的能力という関係をとらえて押さえておりますね。
ですから、ずっと長くなりますから、私なりに
教育とのかかわりで言うと、第一は、
教育は経済政策の一分野として、あるいは一分野を担うものとして位置づけられたというのが特色だと思うのです。次に、
教育の任務は、経済成長のための人的能力の向上を図ることだというふうに位置づけられた、第二の特色だと思う。
つまり、
教育は
人間の先ほど問題になりました全面発達よりも、経済成長のため
人間の一側面である能力、端的に知育偏重の能力と私はあえて言いますけれども、こういうものが非常に強調されたということが、その所得倍増政策に始まる経済界から
教育界に求められていった
一つの特徴的な点ではないかというふうに私は思います。
一九六〇年十月、長期
教育計画ということに関連して経済審議会から答申が出ております。
さらに、二年後の一九六二年十一月、「日本の成長と
教育」というのが
文部省から出ております。これは重要だと私、思います。この中には、今のことが
文部省の立場である——この本です。これは「日本の成長と
教育」
文部省版。三十七年の十一月です。つまり、
教育白書です。この中にいろいろなことが書いてあります。しかし、貫いている思想は、ずばり
教育投資論なんです。これは御存じだと思う。
その中にはいろいろありますけれども、その「まえがき」をちょっとごらんになっていただきたいと思います。それは、「報告書では、このような
考え方に立って、
教育を投資の面から、ことばをかえていえば、
教育の展開を経済の発達との関連」以下云々というふうに明確に書いてあります。それから、「
教育が経済の成長に貢献することは、この報告書の着眼点であるが、」以下云々ということでずっと……。
簡単に言うと、投資することによってどれだけの人材開発ができて、その人材開発の結果どのような経済効果がもたらされるか、こういう
考え方だと思うのですね。ですから、
文部省の
教育白書に盛られているのは
教育投資論。つまり、これは経済成長に役立つ人材開発なんですよ。先ほどの話の関連で言えば、
人間を中心に据えた個性の尊重とか全面発達とか、そういうものはまずさておきまして、経済成長に役立つ側面としての人材開発、これを
教育投資論という立場から
文部省も出しているわけです。これは経済界の
教育に対する要請とぴたり一致しているわけです。
さらに、これを受けて集大成化した形になっているのが、有名な一九六三年一月、経済審議会が出した「経済発展における人的能力開発の課題と対策」、つまり、マンパワーポリシーですね。このマンパワーポリシーの中に今のことが明確にあるんです。これは時間もありませんから、全部引用するわけにいきません。この中で私なりに整理をすると、そのねらいは何か。能力主義による人材開発、これだと思う。その中に明確にありますように、パイタレント、つまり経済発展をリードするエリート、これをまず選び出さなければならぬ。これは人口の三%と明確にあります。次に中堅技術者、これは実業
高校でしょう。ロータレント、技能者、職業訓練。明確に
人間の人的能力、これについて位置づけされております。ランク三つ。それに見合う制度として能力・適性、進路による多様化をうたっております。それは具体的には、先ほど
大臣も言いました
大学の格差を生み出すことになる。高専の発足でしょう。
高校のコース制でしょう。そういうランクによって
大学がずっと、あるいは
高校が配置されてきている。そして、これに伴う
学校の
教育指導の観点は何か。能力の観察と進路
指導の強化ということでつくられております。それは何かというと、
学校の任務は、
生徒の能力を観察し、選別して進学させることだ。つまり、簡単に言うと、能力によってパイタレントからロータレントに至る基準を決めますね。それに合った形で
大学は格差をつける。高専、工業
高校ですね。それに進めていくための
学校の任務は何か。その
子供の能力、これを観察し、早期に発見し、えり分けてそれぞれに送り込むことなんです。つまり、一口に言えば、ハイタレントを全国規模で早く見つけて、その
子供をエリートコースに乗せて、早く人材開発の立場で養成をして、経済発展のために役立たせる、これです。これがマンパワーポリシーの
考え方だと思うんですね。これは先ほどから
議論になっている
学校の格差、つまり、いい
大学に入ればいい就職ができる。有名
大学、一流
大学に入りたいという受験競争の過熱、これに無縁ではないと私は思うし、
学校がそのための選別と、そしてそのためのえり分けのこのことに関係なくはないと私は言えると思うんですね。
さらに、それが一九六六年十月「後期中等
教育の拡充整備」、これは中央
教育審議会から出ているんです。これはいろいろ中身はありますが、
生徒の能力・適性による選別強化、このこととコース制の多様化、つまり、今のマンパワーポリシーという経済審議会の
考え方が、中教審という形で中等
教育の形に具体化される。
さらに一九六八年十一月に、いろいろありますが、ちょうどこれは
大学紛争のころだったと思いますが、「
大学の基本問題」の提言。これは経済同友会から出でずっと中教審までいきますけれども、これは簡単に言えば、ハイタレントを頂点とする
大学の再編成、これをマンパワーポリシーに見合うものとして配置されてきている。
それをずっと受けて、一九七一年六月、第三の
教育改革と言われるいわゆる四六中教審答申が出てくるわけです。これはまだこれから問題になってくる。これがよく言われるこれからの
教育改革、つまり、臨時
教育審議会に答申する下敷きかと言われる。一九七一年、第三の
教育改革と言われる四六中教審答申にこういうふうにつながっていくんだと私は思う。
これはいろいろ見方があるでしょうが、今のような流れに沿ってその中身を見るならば、経済成長政策以来の経済界の要望を受けてきた能力主義に基づくまとめではないかなというふうに私は思う。これはいろいろ
議論のあるところですから、これから
議論されて結構だと思うんです。当然これから
教育改革で
議論されると思います。さらに、今申し上げたようなマンパワーポリシーに
代表されるハイタレント養成のための全
学校体系の再編成ということにつながっていくのではないか。これはいろいろ
議論のあるところですよ。ただし、流れから言えば、そういうような位置づけにずっとなってくるんじゃないか。ですから、この辺のところは、資料は客観的なものでありますが、見方は私の主観的なものが入っておりますから……。
ただ、いずれにしても、先ほどから
大臣ともやりとりをいたしました。今日の言うなれば
学歴社会といいましょうか、そしてそのためのそれを背景にした苛烈なる受験競争、そしてそれに進むためのえり分けの具にされてきている
偏差値教育、そして言うなれば落ちこぼれとでもいいましょうか、例えばそういう全体のものが今のことに関連がないとは私は言えないような気がするんです。そういう
一つの客観的
状況の中に、やはり
父兄から見れば、エリートにしていい
大学に入れていけば将来が約束されるとすれば、親の
気持ちから言えば、これは小さいときから一生懸命ドリルをして育てて、いい
大学に入れたい、そしてエリートとして選ばれていきたい。そのために殺到するのは私は当たり前だと思うし、私はそれを親がいけないとは言えないと思うんですよ。また、そのことのために
先生方が一生懸命にやらされているし、やらざるを得ないし、やっている。このことも私は罪ないような気がするんですよ。
ですから、私は、これがすべてとは言わないけれども、この高度経済成長政策とともにどんどん出されてきた経済界からのマンパワーポリシー、これをやはり受け継ぎながら
教育行政の中に乗せてきたという、このことによって引き起こされた、今申し上げたいろいろなひずみ、ゆがみの問題は、やはり文部行政の中に
責任がないとは言えないんではないかというふうに私は思うんです。これがすべてとは言いませんよ、いろいろな
要因がありますから。そういうふうに私は考えるんですが、
大臣はどうですか。