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1984-07-03 第101回国会 衆議院 内閣委員会 第18号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和五十九年七月三日(火曜日)     午前十時十五分開議 出席委員   委員長 片岡 清一君    理事 池田 行彦君 理事 戸塚 進也君    理事 深谷 隆司君 理事 宮下 創平君    理事 小川 仁一君 理事 松浦 利尚君    理事 市川 雄一君 理事 和田 一仁君       石原健太郎君    内海 英男君       大島 理森君    奥田 幹生君       鍵田忠三郎君    菊池福治郎君       塩川正十郎君    山本 幸雄君       上原 康助君    角屋堅次郎君       嶋崎  譲君    元信  尭君       渡部 行雄君    鈴切 康雄君       田中 慶秋君    柴田 睦夫君       三浦  久君  出席国務大臣         文 部 大 臣 森  喜朗君         国 務 大 臣 後藤田正晴君         (総務庁長官)  出席政府委員         総務政務次官  堀内 光雄君         総務庁長官官房         長       門田 英郎君         総務庁人事局長 藤井 良二君         総務庁行政管理         局長      古橋源六郎君         総務庁行政監察         局長      竹村  晟君         総務庁恩給局長 藤江 弘一君         総務庁統計局長 時田 政之君         大蔵省主計局次         長       的場 順三君         文部政務次官  中村  靖君         文部大臣官房長 西崎 清久君         文部大臣官房総         務審議官内閣         審議官     齊藤 尚夫君         文部大臣官房会         計課長     坂元 弘直君         文部省初等中等         教育局長    高石 邦男君         文部省教育助成         局長      阿部 充夫君         文部省高等教育         局長      宮地 貫一君  委員外出席者         文部大臣官房文         教施設部長   佐藤  讓君         農林水産省畜産         局食肉鶏卵課長 鎭西 迪雄君         内閣委員会調査         室長      石川 健一君     ――――――――――――― 委員の異動 七月一日  辞任         補欠選任   林  大幹君     鳩山 邦夫君 同月三日  辞任         補欠選任   鍵田忠三郎君     中山 正暉君   元信  堯君     左近 正男君   渡部 行雄君     和田 貞夫君   山田 英介君     矢追 秀彦君   田中 慶秋君     中野 寛成君   三浦  久君     経塚 幸夫君     ――――――――――――― 七月二日  重度重複戦傷病者に対する恩給の不均衡是正に  関する請願池田行彦紹介)(第七〇〇七号  )  同(小川仁一紹介)(第七〇〇八号)  同(元信堯君紹介)(第七〇〇九号)  同(渡部行雄紹介)(第七〇一〇号)  同(角屋堅次郎紹介)(第七〇七二号) 臨時教育審議会設置法制定反対に関する請願外  三件(上原康助紹介)(第七〇一一号)  同(浦井洋紹介)(第七〇一二号)  同(小沢和秋紹介)(第七〇一三号)  同(岡崎万寿秀紹介)(第七〇一四号)  同(経塚幸夫紹介)(第七〇一五号)  同(工藤晃紹介)(第七〇一六号)  同(柴田睦夫紹介)(第七〇一七号)  同(瀬崎博義紹介)(第七〇一八号)  同(田中美智子紹介)(第七〇一九号)  同(津川武一紹介)(第七〇二〇号)  同(辻第一君紹介)(第七〇二一号)  同(中川利三郎紹介)(第七〇二二号)  同(中島武敏紹介)(第七〇二三号)  同(中林佳子紹介)(第七〇二四号)  同(野間友一紹介)(第七〇二五号)  同(正森成二君紹介)(第七〇二六号)  同(角屋堅次郎紹介)(第七〇七三号)  同(渡部行雄紹介)(第七〇七四号)  同(岡崎万寿秀紹介)(第七一〇〇号)  同(経塚幸夫紹介)(第七一〇一号)  同(辻第一君紹介)(第七一〇二号)  同(東中光雄紹介)(第七一〇三号)  同(渡部行雄紹介)(第七一〇四号) 傷病恩給等改善に関する請願(三ッ林弥太郎  君紹介)(第七〇七〇号)  旧治安維持法等による犠牲者の賠償に関する請 願(角屋堅次郎紹介)(第七〇七一号) 臨時教育審議会設置法制定反対等に関する請願  (佐藤祐弘紹介)(第七〇九九号) は本委員会に付託された。     ――――――――――――― 七月三日  旧軍人・軍属恩給欠格者処遇改善に関する陳  情書外三件  (第三一三号)  傷病恩給等改善に関する陳情書  (第三一四号)  人事院勧告完全実施に関する陳情書外三件  (第三一  五号)  大蔵省福岡財務支局の存置に関する陳情書外四  件  (第三一六号)  青少年対策基本法制定に関する陳情書  (第三一七号)  青少年健全育成対策に関する陳情書外二件  (第三一八号)  防衛費の対国民総生産比一パーセント枠遵守に  関する陳情書  (第三一九号) は本委員会に参考送付された。     ――――――――――――― 本日の会議に付した案件  臨時教育審議会設置法案内閣提出第四七号)      ――――◇―――――
  2. 片岡清一

    片岡委員長 これより会議を開きます。  この際、新たに総務庁長官に就任されました後藤田正晴君及び総務政務次官に就任されました堀内光雄君から、それぞれ発言を求められておりますので、これを許します。総務庁長官後藤田正晴君。
  3. 後藤田正晴

    後藤田国務大臣 このたび総務庁発足に伴い、総務庁長官を拝命いたしました後藤田正晴でございます。  総務庁は、各種総合調整機能相互補完関係をより緊密なものとするという基本的な考え方に基づきまして、行政機関人事機構、定員及び運営総合調整機能行政監察機能総合的運用を図るとともに、青少年対策等の特定の行政施策総合調整機能をあわせ有するものとして、政府における全体としての総合調整機能活性化総合的発揮を図ることといたしております。  さらに、統計重要性にかんがみまして、統計行政機構の再編成を行って、統計行政における中枢的機能を確立するとともに、恩給に関する事務を含めて、これらを一体的に遂行することを目的として設立されたものでございます。  総務庁運営に当たりましては、その設置の趣旨を踏まえまして、その具体的効果を発揮するよう努力してまいる所存でございます。  委員長初め皆様方の格別の御指導、御鞭撻を心からお願いを申し上げまして、ごあいさつといたします。  どうぞよろしくお願いいたします。(拍手)      ――――◇―――――
  4. 片岡清一

  5. 堀内光雄

    堀内(光)政府委員 このたびの総務庁発足に際しまして、総務政務次官を拝命いたしました堀内光雄でございます。  長官のもとで、微力ではございますが、全力を尽くして取り組んでまいりたいと思いますので、委員長を初め諸先生方の御指導、御鞭撻を心からお願い申し上げまして、ごあいさつにさせていただきます。  どうぞよろしくお願いいたします。(拍手
  6. 片岡清一

    片岡委員長 内閣提出臨時教育審議会設置法案を議題といたします。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。渡部行雄君。
  7. 渡部行雄

    渡部(行)委員 まず、臨時教育審議会設置法案提案理由中身について大臣にお伺いいたします。  その一つは、「我が国教育は、国民のたゆみない努力により著しく普及し、その水準は国際的にも高く評価されこういうふうにありますが、この評価されておる我が国教育とは一体どういうものなのか、その中身について御説明願いたいと思います。
  8. 森喜朗

    森国務大臣 御指摘をいただきました、国際的にも高く評価されている我が国教育ということでございますが、戦後におきます我が国教育は、明治以来の初等教育普及に加えまして、新たに教育機会均等という理念のもとに義務教育年限の延長をいたしまして、中等教育高等教育普及等が今日まで進められてまいりました。その結果、教育の量的な拡大それから国民全体の教育水準が極めて高くなってきております。  私が大臣に就任をいたしましてからも、国会等の時間がございましたのでゆっくりとお目にかかる機会はございませんでしたけれども、この半年間にドイツの教育担当大臣を初めとして、イタリーあるいはフランスの文化担当大臣、中国の文化担当部長日本で言う大臣でありましょう。あるいは教育次長次官クラス皆さんがたびたびお見えになりました。そして、日本の今日までの教育成果というものに大変大きな注目をされておられました。そういう意味で、国際的にも日本教育が、高い水準あるいは量的な拡大、いわゆる教育機会均等、だれでも、いつでも、希望する者は学ぶことができる、そういう体制に完成されていることに対して、そして今日の経済成長を遂げてまいりました大きな理由、あるいはまた国際社会において重要な地位を占めるに至った、それが我が国教育成果であるというふうに各国の皆さんもお認めになっておられました。  私自身もそういう感じで、まさに国民の大きなエネルギー、今日の力というものは教育成果に負うところが極めて大きいと考えておるわけでございまして、国際的にも高い評価を受けておるという幾つかの指摘もあるわけでございますが、私も、国民皆さんの力がここまで大きく伸びてまいりましたのも、やはり教育を大事にし、国民皆さん教育に大きな関心を持ってこられた結果であるというふうに考えているわけでございます。
  9. 渡部行雄

    渡部(行)委員 今の大臣の御答弁は、教育全体を宿さないで一側面だけを指して言っているのではないかと私は考えるわけであります。教育の量的な部分、つまり義務教育普及率とか、あるいはそのほか何を指しているのか。日本教育レベルというか、そういう知識の側面について言っているのかわかりません。しかし、教育というのは全人的なものであるという基本的な観点に立ては、それでは人間としてどうなのか、人格としてはどうなのか、社会秩序と個々の問題についてはどうなのか、総合的な判断のもとに教育というものの評価がなされるべきだと私は思うわけです。  今、教育機会均等、いつでも、どこでも、だれでも学べるというお答えがありましたが、私は、今日の社会の中でそのような、いつでも、どこでも、だれでもということはまだ達成されていないと思っております。幾ら学ぼうとしても、なかなか経済的理由やその他の条件で学べない人もたくさんおるし、そして学ぶその者にも非常に差があって、条件のアンバランスがあることは大臣も御承知だろうと思います。そういう点で、この教育という一つの問題のとらえ方がちょっとでも誤っていくと、上面だけをとらえて教育の本質を見失いがちになる危険があると思うのですが、その点はいかがなものでございましょうか。
  10. 森喜朗

    森国務大臣 政治において、諸制度というものはすべてそうでございますが、これが完璧であるというものはまずございません。みんなで努力して条件を整えていく。そして今私が、いつでも、どこでも、だれでもと申し上げましたけれども、例えば放送大学、視聴覚教育あるいはまた専修学校各種学校充実をしていくとか、必ずしも資格的なものを取るだけではなくて、教育の目指すものは人格完成人格形成にあるわけでございますから、そういう意味教育への努力というものはこれでいいということではございませんので、文部省といたしましても、国会の審議等いろいろな角度からの御意見等を踏まえながら、教育制度充実改善になお一層の努力をしていかなければならぬということは言うまでもないところであります。  今渡部さんからも御指摘いただきましたけれども、そういう側面だけてはいけない。確かに教育というのはいろいろな角度から見て評価をしていかなければならぬということは言うまでもございません。当然そういう中で全人格的あるいは社会秩序、こういうところの問題も確かに最近指摘がされているところでございます。今度教育改革をしていかなければならぬというふうに私どもとして判断をしております最大のものは、先ほど申し上げましたように、量的な拡大あるいは質的な面では充実をしつつございますけれども社会の急激な変化というものあるいは文化進展、これが非常に変わりつつあります。そういう中で、どうも教育原因ではないかと言われるような荒廃した社会現象幾つかあらわれているわけでございます。  例えば、児童生徒問題行動あるいは過熱した受験競争等による問題などが指摘を受ける。こうしたところが、先ほど先生からおっしゃいました全人格的あるいはまた社会秩序というような問題にもなるわけでございまして、児童生徒の能力あるいは適性等多様化している実態にかんがみまして、十分に教育制度そのものが対応できないというふうな御指摘もあるわけでございまして、こういう指摘に対処し、なお一層社会変化文化発展に対応する教育の実現をぜひ図っていくことが国民的な要請であり、現下の緊急な国政上の課題である、このように考えまして、教育全体を一遍見直しをしてみるということが今度の教育改革の私どものねらいというところでございます。
  11. 渡部行雄

    渡部(行)委員 そこで、これを読んでおりますと、前段で、国際的に高く評価され、普及充実が図られ、教育水準向上に大きく寄与してきたということで大変すばらしい評価が与えられておって、今度後段では、社会変化教育量的拡大等により教育改革必要性が各方面から指摘されるに至った、こういうふうに述べられておりますが、この非常に立派で、よいという評価の中から、どうして改革必要性が飛び出してくるんでしょうか。こういう悪い点が出てきたためにこの点を改革しなければならなくなったというならば論理的に話はわかるのでございますが、大変立派になってきたその教育の中で、突然に改革というものの必要性が訴えられてきておるというのは文章としても非常に矛盾しているように思うのですが、その点はいかがでしょうか。
  12. 森喜朗

    森国務大臣 先ほどお答えを申し上げましたけれども、いかなる諸制度もこれで完璧であるというものはないと思うのです。そして教育というものは、教育基本法にも定められておりますように、人格形成人格を完成させるところにあるわけでございます。今日までの教育制度は、今先生からも御指摘をいただきましたように、ある面におきましては量的な拡大を図ってみんなが教育を受けるということの体制を整えてまいりましたし、それぞれの分野によっては見方も違うかもしれませんが、水準もかなり高くなる。そして今日の日本の国際的な地位や経済的な繁栄、こうしたことの基本的な要因は教育成果にあるわけでございますから、そういう意味で、先ほども申し上げましたように、日本教育は高い水準にあると私どもは考えているわけでございます。  しかし、いかなる成果をおさめた制度でも、時代変化に対応していかなければならぬ面もたくさんございます。例えば知育偏重と言われますように、過熟した受験競争というものも現実社会現象と一致していろいろな弊害を伴っているわけでございます。したがって、そういう過熱した受験競争を是正するためには、一部の受験制度の選抜の方向幾ら試行錯誤で繰り返してまいりましても、社会全体の受けとめ方あるいは諸制度をこれに関連して考えてまいりませんと、教育全体がいい形で流れていくことにはならない。  そういうようなことを考えますと、社会変化に対応した体制をたくさん考えていかなければならぬ時点に来ている。そういう意味で、さまざまな社会的病理現象のようなものが指摘をされているわけでございますので、今日までの教育成果を踏まえつつ新しい社会情勢変化あるいは物の考え方文化進展、そうしたものに対応した柔軟な教育制度に改めていくべきではないか、そうしたことをさらに改善努力していくことが、二十一世紀を担う子供たちにとって今一番大事なことではないか、こういう視点改革をお願いいたしておるところでございます。
  13. 渡部行雄

    渡部(行)委員 そこで、この教育改革、つまり今度教育臨調設置することになったのだろうと思いますけれども、これは文化教育に関する懇談会で取りまとめたものですが、ここにもいろいろと教育現状について書かれているわけです。「教育は著しい発展を遂げたがこという前置きの中で、だんだん読んでいくと「生徒の非行、暴行、落ちこぼれなどの深刻な現象」が出てきておる。あるいはさらに「受験体制教育弊害」「画一教育弊害」「社会的風潮の問題」「幼児期のしつけや家庭教育の問題」等々について述べられておりますが、「教育は著しい発展を遂げた」というのがいつも前段にくっついてくるのですね。そして、中身は非常に困った困ったという問題がそこにぞろぞろとついてくる。  こういう書き方は、教育というものを使い分けしているのじゃないか、一体的に総合的に教育というものを把握しないからこのような表現がなされると私は思うのです。本当にすばらしく発展しているならば、さらにそれをどう発展させるかということ、そしてそれをこの変化の多い、流れの早い社会に対してどう適合させていくか、そういうことについて議論されてくるならば話はわかるけれども、このすばらしいという一つの前提に立って、悪いものをそれじゃ一体どのように教育側面としてとらえているのかということになると思うのです。その辺のとらえ方の問題で大臣考え方をはっきりさせていただきたいと思うのです。
  14. 森喜朗

    森国務大臣 今日の日本教育成果というのは、先ほど先生の御質問に対しましても申し上げましたように、いろいろな角度視点は違うと思いますが、誇っていいと思います。現実に、敗戦の中からこれだけ急成長もいたしましたし、国際的な地位も高まっております。これは教育成果に負うところである。国民皆さんの英知、努力だろうと思うのです。国民皆さんがこうした道を選んで、そして日本の国力の繁栄、その基本的な原因教育にあると私どもは考えておりますから、そのこと自身は、今日までの日本教育は大きな成果があったと認め、そしてその教育の諸制度がなお一層充実していくために変化に対応でき得るようにしていくことが、これからの今日的な、緊急的な国民要請であると私ども判断いたしておるわけでございます。  それじゃ一体どのような変化があるのか、どのように社会が変わりつつあるのか、これはさまざまな見方があると思います。抽象的な言葉かもしれませんが、多様化国際化あるいは高学歴化社会全体の高齢化、そうした背景を常に考えて、これからの教育改革に柔軟に取り組んでいく制度というのはどのようにしていかなければならぬのか。先ほどから申し上げておりますように、教育の量的なものがふくれ上がってそれが拡大されていけばいくほど、逆に言えば、人々の望むところは、一つ乗り物に乗って、いい学校を出ていい就職を得たい、あるいはいい縁談を得たいという考え方にだんだん走り過ぎている。ですから、一つの決められた乗り物に乗るのではなくて、いろいろな方向性があっていいはずで、そしてどのような乗り物に乗っていっても、社会に出ていくときには、社会全体がすべての面で多様的に評価してあげられるような社会の仕組みにしていかなければならぬだろうと思うのです。  環境高学歴化社会というふうに私は申し上げましたが、昔ならば、学校先生のおっしゃることはすべて正しいと私ども両親から教えられてまいりました。しかし今では、両親の方がある意味では先生よりも学問を身につけておられることが非常に多い。そういう中で子供が、先生の言われることと両親の言われることの判断の違いにいつも迷うということもよく指摘されるわけでありますが、先生になお一層の高度な資質も求められてくるでありましょうし、また、昔の先生とは違って今の先生の場合は、こうした社会の多様な中で判断されることに大変御苦労が多いだろうと私は思います。そういう先生方のお立場を考えていくような、高学歴化社会における先生方への対応というものも出てくるだろうと思うのです。  それから、従来は子供たちは、日本だけで物の基準というものをある程度考えておったかもしれませんけれども、少なくとも二十一世紀、今でもそうでありますが、国際社会の中で子供たちが活動していくという場面を展開することが予想されるわけでございますし、また日本の今日の国の力からまいりましても、平和志向、平和を一番大事に考えている日本といたしましては、経済大国と言いますが、国際社会の中でどんな役割を果たしていくのか、それも二十一世紀を担う子供たちにしっかり考えてもらわなければならぬ。  そして、今日までの教育は、日本国民欧米先進国に追いつけ追い越せという目標のもとに努力してまいりました。しかし、今日の日本では、日本教育国際社会の中でどんな役割を果たしていくのか、国際人教育に対して日本がどのような役割を果たすのか、また日本教育を受けた子供たち国際社会の中でどのような責任を負うていくのか、こういう角度からも考えてみる時代が来ておる、そういうことが時代変化だと私どもは問題としてとらえているわけでございまして、そういう意味で今の教育制度すべて、あるいは今の教育制度改善していくということももちろん大事でございますが、二十一世紀を担う子供たちにとって日本教育はどのような体系を持っていくことがいいのか、こうしたことを委員皆さんで御判断いただく、御論議いただきたいということで、三年間の期限をお願いして、その間にいろいろと諸制度を一遍洗い直してみていただきたいということが私どもの願いであるわけでございます。
  15. 渡部行雄

    渡部(行)委員 私の言わんとするところは、都合のいいところにも教育都合の悪いところにも教育というように、教育という言葉を安易に使い過ぎるのではないかということなんです。  例えば日本教育の中で、科学技術分野においては国際的にも非常に高く評価されておるが、あるいはまた物質文明としてのすばらしい発展はあるけれども、その反面、精神的分野において一つの変調を来すなり、あるいは社会環境教育環境に対する悪い影響等が出てきておる、そういうふうに教育というものの側面を明らかにしながら現状を分析していかないと、全部教育という言葉でくくってしまうと非常にわかりにくくなるということを私は言っておるのであります。そういうことでございまして、一つ、この提案理由の中で何となく心にしっくりこなかったので、かような御質問をしたわけであります。  さて、そこで、今度の法案の中で「各界人格識見ともにすぐれた方々委員にお願いしてことありますが、各界というのは具体的にどこを指しておられるのか、その中身を御説明願いたいと思います。
  16. 森喜朗

    森国務大臣 委員を人選申し上げますことは、当然国会の論議を踏まえまして、そして、臨時教育審議会設置法案国会で御同意をちょうだいいたしましてから、私どもとしてはその基準等を考えていかなければならぬというふうに考えております。  しかし、今、広く各界というのはどういうことかということでございますから、やはり幅広く国民のいろいろなお立場方々の御意見が十分に反映されるように配慮しなければならぬ、こういうふうに考えております。したがいまして、先般この委員会におきまして、まだ具体的に私どもはこうした分野からというふうに定めておるわけではございませんけれども、例えば御人選を申し上げるというその範囲を幾つかに分けて考えてみますと、やはり教育を受ける子供たちの親の立場から考えて、父兄、あるいは教育の一番実践に当たっておられます教師、あるいは人間開発や社会発展に識見を有しておられます学者あるいは研究者、そしてまた教育や学術文化に識見を有しておられるような方々、あるいは経済界や労働界その他産業構造や雇用問題などに精通をされておられるような方々、そしてまた、教育は知育だけではございませんので、社会教育あるいは体育、スポーツの実践者またこれに精通しておられるような方々、そしてまた、教育の一番最後のところが高等教育でございますので、そうした管理運営に識見を持っておられるような方々、そしてまた、教育は地方公共団体が中心になってお進めをいただくものでございますから、地方公共団体のお考えが反映できるようなそういう分野からお願いをする。こうしたようなことを今のところは基本的な視点として考えておるわけでございますが、冒頭に申し上げましたように、このこと自体がまだ定まったものではございませんので、国会で成立をさせていただきまして、先生方のいろいろな御意見等を踏まえて私どもとしてその分野を検討してみたい、こういうふうに考えておるわけでございます。
  17. 渡部行雄

    渡部(行)委員 ただいまの御説明でその分野というのは大方承知いたしましたが、その分野からいよいよ具体的に委員を選出するとなれば、それはその分野ごとに推薦という手続によるものか、それとも、そういうものは一切なしに、文部大臣と総理大臣の間で決めていくのか。その辺はどういうふうにお考えでしょうか。
  18. 森喜朗

    森国務大臣 ただいま申し上げましたような、そうした分野の中から委員を人選いたしますが、その委員の人選に当たりましては、個別に具体的な候補者につきまして、その業績や経験あるいはその他いろいろ総合的に勘案をいたしまして、総理大臣判断をいたすわけでございます。その判断をいたします上におきまして「文部大臣意見を聴いてこういうふうに法案では書いてございまして、いろいろな総合的な判断をいたしまして、私の意見を総理に申し上げて、総理が御判断をされる、このように御承知おき願いたいと思います。
  19. 渡部行雄

    渡部(行)委員 そうすると、推薦を受けてから判断するのではなくて、あらかじめそういう分野から人選をして、そして文部大臣意見を申し上げて、そして総理が決める、こういうふうに受け取って差し支えありませんか。
  20. 森喜朗

    森国務大臣 基本的にはそういう形で御人選申し上げます、改めて推薦をちょうだいするという形ではございませんが、先ほど申し上げましたように、総合的な判断をいたします上においては、いろいろな皆様の御意見をちょうだいするというようなことも当然あるわけでございまして、そうしたことを総合的な判断というふうに申し上げたわけでございます。
  21. 渡部行雄

    渡部(行)委員 そこで、ここで選任された方々が集まって二十五名の方で審議会を構成し、調査審議をするわけでございますが、この調査審議というのを非公開でやるというふうに今まで大臣の御説明がありました。これは、いろいろ外部に対して公開ですると、なれていない人たちが発言を拘束される危険性がある、伸び伸びと思い切ったことを言い得るような条件の中で審議をしたいという御説明はそれなりにわかる気はいたしますけれども、しかし、国の最高機関である国会でさえ公開の原則ということをやっておるわけでございます。ましてや、選挙に出ないで一方的に任命された人たちの会合を秘密的に進めていくということは、民主主義の建前上いかがなものかと私は非常に疑問に思うわけであります。  いずれにせよ、二十五名が集まって議論をするには二十五名の人の前で話すわけですから、これは小さな公開と言っても差し支えないのではないか。だとすれば、大きな公開と小さな公開とをなぜ区別して、そして、多くの国民の目の前でガラス張りで議論ができないのか、そんな後ろめたいことが一体あるだろうか、こういうふうに考えると、どうもいろいろな角度から考えても、秘密会議をもって運営するということはとても理解に苦しむわけでありますが、その辺に対する大臣お答えを願いたいと思います。
  22. 森喜朗

    森国務大臣 基本的には審議会の先生方自身で、公開にするのかしないのかということはお決めをいただくわけでございます。ただ、あえて今お問いかけがこの国会でもございましたので、私といたしましては、広く、自由に御論議をいただくということの方がより適切であろうというふうに考えて、公開ということは御遠慮申し上げた方がいいのではないかという立場をとっておるわけでございます。  今、先生からもたまたま御質問の中に御指摘がございましたけれども、二十五人の皆さんが御議論をされることなんだから、これはある意味では小さな公開ではないか、こういうふうにお話がありましたとおりでございまして、そういう意味からいえば、先生が今、後段のところでおっしゃいました秘密会議になるというようなことにはならないのではないかというふうに私も判断をいたします。ただ、あくまでもこれは審議会に加わっていただく先生方が、本当に思い切って本音の議論をしていただくということがより大事だという意味で、こういう考え方をしているわけでございまして、したがいまして、いわゆる機密的というふうに先生おっしゃいましたが、機密的にならないような配慮は、これからしていかなければならぬことがたくさんあるだろうと思います。そういう中で、例えば審議経過の概要を適宜公表をしていきますとか、あるいは地方での公聴会を開催したり、あるいはその他国民の多くからの意見を求められるようにアンケートをとったり、あるいはまたいろいろ調査を実施したり、そういうさまざまな形で機密的にならない配慮は審議会自身がいろいろな工夫をこれからしていただかなければならぬだろう、こういうふうに思います。  要は、国民皆さんに理解と協力を得るということが第一でございますから、そのことが第一義でございますが、先ほど先生国会だってオープンじゃないかと言われました。国会というのはやはり選挙を経て出てきている代弁者でありますから、どのような意見や、どのような中傷や、どのような国民の声に聞いても、信念を持って話をするということが政治家としての務めでございましょうが、しかし、これから御人選を申し上げる方々というのは政治家という立場ではないわけでございまして、やはりそれぞれのお立場上いろいろなことがあるだろうと思うのです。  例えば、これは例に申し上げていいかどうかわかりませんが、行政改革に伴って、ある会社の方が農民に対して、米などは外国から買えばいいじゃないかという発言をされた途端に、ある農業団体は、その委員の所属しておられる会社の製品は一切買わない、不買運動というのをやったというようなことがたしか北海道でもあったようでございますし、そういうように、だれがどのように言ったということが、いろいろな形で制約を受けてくると、その委員の方が持っておられる自由な御論議というものは、いろいろな形でちゅうちょせざるを得なくなるというようなことも十分考慮してあげなければならぬことだろう。審議会の皆さんには、日本の将来あるべき教育のさまざまな御論議をしていただきたいということを私どもはお願いをする立場でございますから、その委員皆さんが御自分の御発言によって、自分の身辺的なもの、あるいはまた個人のお立場のところにいろいろな形で御迷惑がかかるようなことがあってはならない。そこはやはり政治家と、こうした立場各界からお入りいただく方々とはおのずと立場が違うのだ、こういうふうに私どもは考えてあげることが大事だというふうに思っているわけでございます。  しかし、先生から今御指摘がありました。ように、そのことが機密的になる、秘密的なものになるということになってはいけないわけでございますから、広く国民の理解や協力が得られるような工夫は、審議会自身が今後十分御判断をいただきたいというふうに願っているわけでございます。
  23. 渡部行雄

    渡部(行)委員 確かに今大臣が言われたように、ある一つの業界に対して不利な発言とか、あるいはある思想団体に対して不利な発言というようなことが行われると、そういうことも起こり得ることは私も知っております。しかし、だからといって、もし仮にそれは一番起こりやすいのは国会だと私は思うのです。国会は絶えずそういうものにさらされた中で、こうして議論をしておるわけでございますから、これが民主主義であって、これを発展させないと民主主義というものは定着しないのじゃないか、だからそれはどうしても乗り越えなければならない問題だろうと私は思うのです。どんなことでも思ったことをずばずばと言い得る条件を保障する、そしてまた、自分に気に食わないことを言ったからといって、その人に不当な圧力をかけるようなことは絶対にやらない、そういう一つの風習というものをつくり上げなければならないと思います。しかし、ただ、人のプライバシーに係る問題、身分上の秘密に関することなどについては、秘密会議もやむを得ないと思いますが、できる限り国民の皆様に十分わかるように、あるいは公開がなされない部分についても整理して、余り時間がかからない段階で中間報告等をしていただきながら進めることが肝心ではなかろうか、こういうふうに思いますが、もう一度大臣の御所見をお願いいたします。
  24. 森喜朗

    森国務大臣 先ほども申し上げましたように、今先生も御心配になりますように、一番大事なことは国民の理解と協力を得るということでございますので、そうした国会における御審議というものも恐らく審議会御自身が十分御判断の材料にされるであろう、私どもはそういう期待もいたしておりますので、今先生からお話しのように、そういう機密性、秘密の議論にならないように、適宜その議論の概要が国民の前に明らかになるように、そうしていろいろな工夫をしていただくように私どもとしても十分配慮をしていきたい、こう考えております。
  25. 渡部行雄

    渡部(行)委員 そこで、今までの審議の中でも、大臣教育基本法を守るということを繰り返し答弁されてまいりましたが、この「教育基本法の精神にのっとりこということは、その精神が守られれば表現や字句については改正もあり得るということなのか、それとも教育基本法は現行のまま一言一句変えるつもりはないとおっしゃるのか、その辺を明確にしていただきたいと思います。
  26. 森喜朗

    森国務大臣 総理も私も、国会で御答弁申し上げておりますように、基本法につきましては改正する考えは全くありません、こう申し上げておるわけでございます。
  27. 渡部行雄

    渡部(行)委員 そうすると、これには一言一句手をつけない、こういうふうに受け取っていいですね。
  28. 森喜朗

    森国務大臣 そのとおりでございます。
  29. 渡部行雄

    渡部(行)委員 そこで、第八条に「資料の提出等の要求」の権限が述べられておりますが、この資料要求の権限というのは、国会の国政調査権と比較した場合、同等なのかあるいはそれ以下なのか、その辺をお聞かせ願いたいと思います。
  30. 森喜朗

    森国務大臣 法律の技術的なことでございますので、政府委員から答弁をさせます。
  31. 齊藤尚夫

    ○齊藤(尚)政府委員 この法案の第八条は、臨時教育審議会はその任務を遂行するに当たりまして国の関係行政機関に資料の提出等の協力を求めるケースが多いというふうに予想されるために規定いたしたものでございます。憲法六十二条に基づきます国政調査権とはおのずからその性格を異にするものでございます。機能もまた範囲等につきましても限定をされておるというふうに考えております。  具体的に申し上げますと、国権の最高機関としての国会に認められた国政調査権とは、一つには資料の提出を求めるその範囲が、教育及びこれに関連する分野に限定をしているということが一つでございます。それから、相手方が国の行政機関に一応限定してあるということ、そして国政調査権では証人の出頭だとかあるいは報告、記録の提出という、そのことにつきまして国会法その他で義務が相手方に課されておりますが、そのような義務について臨教審法案では規定がないというところが大きく違う点でございます。
  32. 渡部行雄

    渡部(行)委員 この臨教審法案の中には、そういう義務の規定はないが、運用としてそれに準ずることはできるわけでございますか。
  33. 齊藤尚夫

    ○齊藤(尚)政府委員 報告や資料の提出を求める相手方が行政機関でございますので、それに従っていただけるという判断はいたしておりますが、それは国政調査権とは質が異なるのではないかと思います。
  34. 渡部行雄

    渡部(行)委員 そこで、今度は専門委員制度というものがここにうたわれておるわけです。これも文部大臣意見を聞いて総理大臣が決めるようでございますが、この専門委員というのは今のところどの程度に、何人くらいになる予定でございますか。
  35. 齊藤尚夫

    ○齊藤(尚)政府委員 臨時教育審議会が発足いたしましてから、具体の審議事項を審議会自身でお決めいただくというのが基本的な私ども考え方でございます。したがいまして、その具体的な審議事項が確定されました段階で、必要な専門分野についてそれにふさわしい学識経験者をお願いする、こういう段取りになろうかと考えております。したがいまして、その時点になりましてから、会長等の御意見を聞いて判断するということになりますので、現段階でどのくらいの数ということを……(渡部(行)委員「大体でいいです」と呼ぶ)それほど多くないものと考えております。
  36. 渡部行雄

    渡部(行)委員 それで、この教育臨調設置というものを考える際に、日本教育を根本的に見直すというふうに受け取っていいのかどうか、これが一つでございます。
  37. 森喜朗

    森国務大臣 先ほども申し上げてまいりましたように、今の教育は、教育制度としてはやはり一つ成果を私どもは得ているわけでございます。そして、この教育制度社会の中におきましてさまざまな対応がしにくい、それぐらいに社会変化が激しい。そして国民の意識も非常に多様化している。そういう面で、教育がこれからの日本の将来予測をされ得るさまざまな変化や対応、文化進展、そういうものに対してどのようにあるべきであるかというようなことをいろいろな視点角度を変えて検討していただく、こういうことになるかと思います。したがいまして、根本的に全部改めるということもあるのかもしれませんし、あるいはまた、今の制度改善して、一部をこのように直していくということもあるのかもしれませんし、いずれにいたしましても、これは私が今ここでどういうふうにするかということを申し上げることは、これは越権でございまして、そうした社会変化に対応でき、あるいはまた文化のいろいろな進展に対応でき、あるいはまた国民の多様的な考え方にこれが適切に対応でき得るように、そういうような視点で審議会自身で御論議をいただくということが現時点では一番大事な私ども判断であろう、こう考えておるわけでございます。
  38. 渡部行雄

    渡部(行)委員 そこで、私は一番根本的な問題として、教育とは一体何なのか、こういうことについて相当掘り下げた議論をして、この国会の論議を通じて、国民的な問題点、国家と教育の関係、教育の普遍性と特殊性の問題等々について、基本的な観点とその立場や思想の相違等があっても、これらを明らかにする必要があると思うわけでございます。  そこで、教育とは一体何かということについて、大ざっぱに、比較的代表的な観点を指摘してみたいと思います。  その一つは、一九八二年のレファレンス三月号に「教育の目的と教育基本法」と題して、当時の森田康之助専門調査員の論文が載っておりますので、若干これを御紹介しながら議論を展開していきたいと思います。今、この森田康之助氏は国学院大学の神道学科教授でございます。  この人の論文によりますと、「教育とは、教育の主体としての社会が、客体を社会にまで同化する作用のことである。」こういうふうに定義されておるわけです。そして彼は、教育の中の普遍性よりも歴史的、伝統的特殊性を重視して、教育基本法の中にその特殊性の具体的表現を盛り込めと主張しておられるようであります。これは過般、民社党の三浦議員が、教育基本法の中の限定性ということを言われたことと大変似通った議論でございまして、要するにこの論文というのは、教育学史的には今歴史の流れは普遍性から特殊性へ流れているという見方から発して、そこで早く特殊性を法制化して、民族教育、愛国心と勇気と伝統をここに一つ入れてはどうかというような意見のように思われるわけでございます。  しかし、本来教育というものは、本当に普遍性から特殊性へ流れているだろうか。私は、人間の歴史をひもとけばそれは逆だと思います。かつては個人的な教育、いわゆる動物的な教育というものから、非常に限定された中で、これが長い歴史の中に団体性、社会性、国家性、そして今や世界性、さらには宇宙性、そういうものにまで発展して、教育こそこれから普遍性へ向かわせなければならない我々の義務と責任があるのではないかと思うわけでございます。  そこで、これに非常に対立的な代表的な意見を申されておりますのは、第二次教育制度検討委員会の会長であり、都留文化大学学長の大田先生の御意見でありますが、それをちょっと読んでみますと、「教育の根本的とらえなおしを」という見出しの中で、「敗戦後私たちは、恒久平和と基本的人権、主権在民を根本理念とする新しい憲法をもち、教育基本法を成立させ、日本人としての共同の生活目標、教育目標を成文法の中に書き記した。教育基本法は、教育の目的を規定したが、そこでは、教育をかつての皇国民の形成にかわって、何よりも人間性の完成をめざすべきものとし、民主的で平和な国家の構成員としての国民の資質を示したものであった。」こういうふうに述べておられるわけでございます。このように理念の相違を見出すことができるのであります。  そこで、これがどのように実践され、どういう過程をたどっているかという点について、大田先生は次のように述べておられるのでございます。「このような戦後教育改革の理念のもとで、さまざまな面での教育改善が行われたのであった。それにもかかわらず、現在の子ども・青年の発達の過程にみられる多くの問題は、そうした戦後の教育改革の理念がなお十分に実現されないでいることを示している。」云々とあって、さらに「なかでも戦後わが国を長期間支配してきた政治の責任者たちが、終始戦後教育の理念を実現していくことを怠り、あるいはそれを阻止しようとしてきたことにある。」こう述べられておるのであります。そして「長い歴史を通じて国民自身の内面に、権力者の意図に呼応する事大主義的な意識や感情がしみこんでおり、そのことが理念の実現をさまたげてきた事実も直視しなくてはならない。」と述べられておるわけであります。  こういうふうに、この二人の御意見等を対比しながら考えてまいりますと、私は、森田氏のように、青少年を社会に同化させることだと考えるような思想は甚だ問題があると思うわけであります。もしこのような考え方が容認されるとすれば、社会が退廃しておるときはその教育対象、わかりやすく言うならば青少年も退廃社会に同化していくことになって、みずから教育立場を放棄するという矛盾を暴露しておるからであります。  そこで、私は、この二つの立場に対してやはりある程度整理をして臨まないと、ここに今教育に対する日本国民の迷いがあるのではないか、こんなふうに考えられますので、大臣はこの二つの立場、今日本教育をめぐって対立しているものをどう整理なさるおつもりか、お考えを明らかにしていただきたいと思います。
  39. 森喜朗

    森国務大臣 今渡部さんが御引用なさいました森田さんそれから大田さんの御意見、今ここで先生からお読みをいただきました点を拝聴いたしただけでございますので、その意見、どちらがどうで云々ということをここで即断して私から御意見を申し上げることは適切ではないというふうに考えます。  教育観といいましょうか、教育見方というのはやはりさまざまな見方があるわけでございまして、見方によっては今のような相対立いたしましたような御意見もあるのかもしれませんし、また先ほど冒頭の先生の御質問にもございましたように、やはりいろいろな視点というものがあっていいのだろうと思います。要は、教育人格の完成を目指して、平和的な国家及び民主的な社会の形成者として、心身ともに健康な国民の育成を目標として行われるものである、このように私どもも理解をいたしておりますし、また我が国教育基本法も、そのことを意図して日本教育方向を期待いたしておるわけでございます。  特に我が国社会変化を考えてみた場合に、変化に主体的に対応する能力を持って、そして知育、徳育、体育、この並び方にはいろいろな意見がありますが、この調和のとれた人間性豊かな国民の育成が必要であるというふうに私どもは考えているわけでございます。そういう中で、教育改革の基本的な一つ視点といたしましては、人間形成の基礎を確実に身につけさせることである、個性を伸ばしてあげるということである、あるいは生涯にわたる教育機会充実させていくことであるということを、私どもは、この教育改革一つの理念として考えておりますということを、たびたびこの委員会でも申し上げさせていただいてきたわけでございます。
  40. 渡部行雄

    渡部(行)委員 私も、実は教育というものは非常に難しいものであるということを痛切に感じておりますが、特に専門家と言われる人々は、殊さらにこれを難しく考え過ぎているのではないか、こんなふうに思えてなりません。その表現といい、言葉の言い回し方といい、全く一般の人には、頭をかしげながら時間を相当かけないと理解できないような表現で教育というものを説いておられるようでございます。そういうことだから、教育が一般国民に融合しないで、逆に乖離現象を起こしていると思うわけでございます。  私は、教育とは、簡単に言って、個人または集団が、これはもちろん社会、国家も含めてでありますが、これが生存できる能力と知恵を養う一切の行為、営みから始まって、最終目標を世界平和の実現のために行動できる人々を養育、養成するすべての営みを教育と言っていいのではないか、そういうふうに考えるのであります。なぜならば、それは大自然の原理原則に学べば明瞭であるからであります。この辺に対する大臣教育観を、もっと具体性を持って御説明願いたいと思います。
  41. 森喜朗

    森国務大臣 先生が今、先生自身としてお考えになります教育観、私どもとしても大変傾聴させていただいたわけでございます。  戦後日本は、やはり敗戦という反省の中に私ども日本国憲法を確定をいたしました。そして、それを具体的に教育の中で実現をしていくということで教育基本法も定めたわけであります。したがいまして、そういう教育基本法の概念からまいりましても、それぞれ社会の形成者として人格を極めていく、最終的には今先生おっしゃったように世界の平和に対して、また人類の平和に対して貢献をしていく、このことも教育基本法に明示をいたしてあるわけでございまして、先生の御指摘どおりでおろうというふうに考えます。  ただ、今、あえて大臣教育に対する具体的な視点はどうなのかというお問いかけでございますから、ここで私がすべて申し上げるということも時間をかえって要することで御迷惑をかけると思いますが、先ほどから先生の御指摘でたびたびとお答えを申し上げてまいりましたけれども、やはり二十一世紀我が国を担う青少年が主体的に、ただいま申し上げましたように、社会変化あるいは文化発展に対応できる能力を持ってもらうことが一番太事だと思います。具体的には、困難に立ち向かう強い意思、あるいは問題の解決に積極的に挑んでいく知的探求心、あるいは知識、情報を選択活用していく能力、自己を抑制しながら他の人たちに対しては尊重して良好な人間関係を築いていく資質、こうしたものを持つように学習の機会充実さしていくということが、教育改革の一番大事なとらえ方だろうというふうに私どもは考えております。  そして、先ほども申し上げましたけれども、その具体的な一つの点といたしまして、第一には、人間形成の基礎を確実に身につけさせること、つまり人間というのは先人が築き上げてきました規範あるいは知識、文化を継承する、そしてまた次の世代に残してあげる、このことが人間の持つ一番犬事な使命であろう、こういうふうに考えます。したがいまして、人間形成に当たりましては、この辺の観点からその基礎を確実に身につけさせるということが肝要ではないだろうか、こう考えているわけでございます。  第二は、一人一人の個性を伸長させることを目指すということが大事であろうと思います。そういう意味では、制度面あるいはまたその他教育の内容、そしてまた今日ございます社会的ないろいろな風潮、例えば試験地獄あるいは偏差値指導、そうした制度のあり方に対してメスを入れていく、そして基本的には学歴社会の是正に取り組むということが大事ではないだろうか。  三番目には、たびたび申し上げますが、生涯にわたります学習の機会充実させていく。冒頭に先生の御質問で申し上げましたように、国際化あるいは情報化、高齢化、もっと言えばコンピューター化、ロボット化というふうに、社会がどんどんこれから変化していくということが予想できるわけでございますから、物質的な豊かさの中で精神的あるいは文化的な要求の高まりにこたえることができるように学習の機会充実していかなければならない、こういうふうに考えるわけでございます。  今私が申し上げました三つのとらえ方は、あくまでも私個人の考え方でございまして、どうした教育改革方向を見出すかということは審議会の皆様で御判断をいただく、また御論議をちょうだいするということが一番大事なところでございますが、あえて先生がいろいろの学説を御引用なさいまして、また先生教育観を今ここでお聞かせをいただきまして、私自身はこのような考え方一つ視点として教育改革をぜひ実現をさしていきたい、このように考えているわけでございます。
  42. 渡部行雄

    渡部(行)委員 そこで、教育というものの中で、それじゃだれが第一義的な責任を負うべきなのか、こういう問題を明確にしておく必要があろうと思います。なぜなら、このことが明確にならないと、教育の責任を互いになすり合って、真の責任を感じないまま無責任教育体制をつくり上げることになるからであります。  それでは、一体だれが第一義的責任者なのか。それは、人間が男女の営みによって子孫の繁栄と存続を願う限り、子供に生存能力や知恵を与えてやる第一義的な責任は、当然その両親にあると私は思うわけでございます。これは争う余地のない大自然の原理だからであります。したがって、できの悪い子供を持った親が、その責任を学校側に転嫁したり他の要因に転嫁するようなことは、まず第一に動物以下であると思うのであります。動物でさえ自分の子に対する訓練教育は非常に厳しい。私は、かつて「アフリカ物語」という中で、象の自分の子供に対する教育訓練の姿をテレビで見て非常に感動したわけですが、そういう点では、むしろ最近の風潮は、自分の子に対する親の責任感は動物以下になっておると言ってもよい部分があるのではないか、こういう問題の是正を今後教育全体の中で考えていくべきだと思いますが、この辺に対しては大臣はどう思いますか。  時間がありませんので少しはしょりますが、次に、第二義的な責任でございますが、教育政策の立案者、そしてその執行者そのもの、また直接教育活動の主体である教師、そして教育環境形成に影響を与えている社会全体、こういうものが第二義的な責任として考えられるのではないか、私はこんなふうに思うわけであります。  しかし、この責任の歴史的な流れというものは、だんだん個人から集団、集団から国家へという、政治的な責任に比重が移動してきておると思います。それというのも、社会変化が非常に小さいものから広域にわたってきておる、つまり、今や地球的な規模でそういう問題が進行しておると思うわけでございます。そういう中ではとても個人の力では対応できかねる、それを救うのが政治であり、団体であろうと私は思うわけです。  大臣は、教育の責任という問題をどのようにお考えなのか、お聞かせ願いたいと思います。
  43. 森喜朗

    森国務大臣 先ほど先生は、「アフリカ物語」というお話をなさいました。私はその「アフリカ物語」を残念ながら見てないのですが、同じような「キタキツネ物語」を私はテレビで見たのです。私はそのテレビを、当時まだ小学校であった娘に誘われて見たのですが、大変印象深く見たところが一つございました。それは、お父さんのキタキツネが五匹の子供を育て上げるのです。キツネとしての生き方、物の食べ方、とらえ方、どこへ行ったら危険だとか、いろいろなことを教えているのです。かなりいろいろなことを教え込んで、非常に平和的な、のどかな「キタキツネ物語」を見ておりましたら、ある日突然お父さんキツネが気が狂ったように子供たちに挑みかかるわけです。初め冗談だと思って子供が見ておりましたが、親の前に姿をあらわすと本当に血だらけになるまでお父さんがかみつくわけです。結果的には、お父さんのそばから離れるという教えなんです。一匹前に育ったから離れていけ、自分たちで生活をしていけという諭したということをテレビの解説がしておりましたけれども、そこで見ておって初めて、人間との違いはここだな、自分の子供がこれからどこで生きていくのか親は全く知らない、また子供たちも親たちがどこで生きているか知らない。しかし人間の社会は、例え離れていっても、親と子供あるいは祖父、祖母との連絡が常にとり合える。つまり、これが先ほど私が申し上げた人間の一番大事な、先人が築き上げてきた規範や知識を継承するという使命を持つ、そこが動物と人間の違いだろうと私は感じました。  先ほど先生前段の部分でおっしゃったところはまさにそのとおりなのでありまして、そういう人間の営み、あるいは今日、性教育等いろいろな形でもっと技術的なことを教えろということよりも、端的に言えば生命の神秘、自然、あるいは、神や仏と申し上げてはしかられるのかもしれませんけれども、帰結するところは、科学や私どもの持っている知識では解明できない面があるわけでございます。そういう中で、例えばバイオサイセンスという時代にも入ってまいりましたが、精子と卵子、それが試験管の中で受精卵となる時代であります。そういうことを考えますと、本当に人間としての一番大事な規範、知識、文化を継承していく、このことを繰り返し繰り返し、どのような社会、どのような科学技術時代が展開をされましても、この基本的なことをしっかり身につけさせていくということが教育の一番大事なところではないか。まさに先生が御指摘なさいましたところであろう、私はこう思います。  その責任をだれが負っていくのかということでございますが、これはやはり教育社会、家庭、学校、いろいろな分野において展開されるわけでございますので、第一義的には、今先生が御指摘されましたように、まず親が責任を持っていくということが基本でなければならないし、学校教育におきましてはそれぞれ公の機関が、言いかえれば、やはり国民全体がこれを責任を持って進めていくということでなければならないというふうに考えるわけでございます。そのようないろいろな教育機能というものが社会変化でどんどん変わっていくわけでございますから、父母や教師だけではなくて社会全体の問題として、この教育の諸機能をどのように活性化させていくかということが、社会全体あるいは国民全体の責任としてとらえられていかなければならぬというふうに考えるわけでございます。  そして第二の御指摘は、そうした機能を充実し、また、その機能を高めていくという意味で、政府あるいはまた地方公共団体等々が、いろいろなそういう技術的な諸制度充実させていく、その展開の中にあって、国民全体が子供に対する教育のかかわり合いを深めていくあるいはその責任を持っていく、こういう考え方で進めていくことがよろしいのではないかというふうに私どもは考えているわけでございます。
  44. 渡部行雄

    渡部(行)委員 次は、若干具体的な問題に入ります。  中曽根総理は、昨年十二月七日午前、大阪市内のホテルで記者会見をいたしました際に、自民党の選挙公約の重要な柱として教育改革を訴えられ、そこで六・三・三制を総合的に見直すと強調され、さらに教育現場が偏差値に振り回されて荒廃しているとして、来年早々政府として態度を明確にし、六十年度から偏差値追放など大改革に入ると強調されたわけであります。この偏差値追放、共通一次試験制度改革を初めとする抜本的な教育受験制度改革に取り組むという決意の表明について、大臣はどういうふうにお考えなのか。  また、これに対して森文部大臣も、ことしの六月二十一日の朝日新聞の「レポート 教育改革」の中で、「偏差値の解決は簡単」という見出しで次のように述べられたわけであります。「偏差値問題を改めるのなんか簡単だとぼくはいっている。入試で、学力試験で入学させるのは三〇%、あとは百メートル十三秒で走るとか、水泳は、跳び箱はと多くの能力に見合って入学させたらいい。だれも偏差値なんていわなくなる。それをやるかやらないかだ。入れてから学問させればいい。能力ある者は伸びるんだ」こういうふうに言われておるわけでございます。そこで、大臣は本当に六十年度、偏差値を追放できると思いますか。また、先ほど言ったように、大臣のお述べになられたような案を大学側で受け入れてくれるものと思いますかどうか、その点についてお伺いいたします。
  45. 森喜朗

    森国務大臣 総理も過般の選挙に際しまして、教育改革に対します構想を述べておられるわけでございます。その中で、やはり今日の六・三・三・四制、これが私どもが今日まで教育を展開してまいりましたときの基本的な学校教育制度でございます。しかし、先ほどからも申し上げておりますように、教育時代変化等に対応し得るように、また子供の発達に即応できますように、常に改善を加えていくことが必要であろうというふうに思います。  例えば、私はよく申し上げるのですが、就学前の教育一つ考えてまいりましても、もちろん今では就学前教育としては、保育所、幼稚園を含めて九五%くらいは教育を受けているわけでございますが、基本的に教育というのは小学校からというふうに義務教育では定めているわけでございます。先生もそうだと思いますが、例えば私ども時代の就学前というものの家庭環境おるいは家庭の家族構成を考えてみましても、私どものときにはやはり祖父祖母という三世代があった、あるいはまた母親というのはある程度家庭の中にしっかりと位置を定めていた、こういう時代の中で、就学前教育というのは家庭教育というものが充実をした形の中で子供義務教育に加わっていくという経過を経るわけでありますが、今日では端的に申し上げて核家族化時代、いわゆる祖父祖母三世代住んでいるという家庭は非常に少なくなってきているという面がございます。あるいは、家庭婦人が社会に参加しておられることも最近では非常に顕著でございます。そういう意味では就学前の家庭教育というのは、どっちがいいとか悪いとかというのではなくて、ある意味では、我々の時代と今の子供たちでは大分大きな差異がある。また、私ども時代には兄弟が大変多うございました。しかし、最近ではもうほとんど一人ないし二人っ子です。そういう中で、兄弟同士で人間的な触れ合い、人間同士の約束事のようなものがわからないままに、いつの間にか学校に入ってしまうという傾向もあるのではないだろうか。  こういうふうに考えますと、制度そのものは昭和二十年代、あるいは小学校教育におきましては戦前と同じ制度をとっておって、そして今日では、就学前の教育は当時と今とは大きなさま変わりをしているということでも明らかなように、そういう社会変化あるいは家族構成、いろいろな意味で変わってくる。変わってくるが、学校の義務教育制度はそのままに残っておるというようなことも、やはり私どもは検討してみなければならぬ点があるのではないか。一つの六・三・三・四という制度を考えてまいります場合に、社会変化というものを具体的に例を申し上げると、こういうようなことも考えられ得るわけでございます。  もう一つは、偏差値教育の是正ということを総理も述べておりますし、私どももそのことは常に願っておるわけでございます。この委員会でも私は先般申し上げた記憶がございますけれども、やはり今の学校先生方にとっては、中学から高校にあるいは高校から大学に移る場合に、自分たちの学校と他校とのいわゆるレベルの比較というのは非常に難しゅうございます。その中で子供たちが、Aの学校から東京大学に何人入るのか、Bの高校からは何人入るのか、Aの高校で十番目だったらBの高校では何番目に位置するのか、こういうことがなかなかわかりにくい。先生子供たちの将来の進路をできるだけ適切に指導してあげたいということから、やはり先生方がその資料としてどうしても参考にしなければならぬということで、偏差値を利用しておられるというのが現状だろうと思います。ただ、そのことが非常に過度にわたったり、学校教育全体の中に偏差値そのものを入れてしまうというようなことがあってはならない。こういうようなことから、たびたび文部省といたしましては、偏差値を余り教育の中で用いるということについては十分配慮しなければならぬ、改めなければならぬ、こうしたことをいろいろな角度で通達もして今日まで来たわけでございます。  しかし、先生立場から見れば、それぞれの子供たちを、できるだけ望む高等学校あるいは大学にぜひ進学をさせてあげたいというのが、これはお父さんやお母さんの願い以上に学校先生はそのことを願っておられるであろうし、このことがある意味では、過度になってまいりますと、学校先生のよしあしというのは生徒をどれだけ上の学校へ進ませるか、もっとわかりやすく言えば、どれだけ浪人を出さないでおくか、そのことがあたかもいい先生であるかないかということの基準にまでなっているというような傾向もなきにしもあらずでございます。学校先生が偏差値をつい利用せざるを得ないという、今日のこうした過熱な受験競争を何としても解消していくことがやはり当面の緊急の課題であるというふうに、私も総理も受けとめているわけでございます。  朝日新聞の御指摘いただきました、偏差値は簡単だと申し上げたのは私なりの個人的な考え方でございまして、偏差値を全く使うなということも非常に難しいことだけれども、仮に偏差値を全くなくする、無にしてしまうということならやりようによってはできるんだ。それは、学力中心で人をはからなければいいわけであって、学力で見るから先生もついつい偏差値に頼らざるを得なくなるわけです。例えば高等学校あるいは大学を選抜するに際しまして、学力で見る面は三分の一だけですよということであれば、最高の点を取ったって三十点でございます。あとの三分の一は、例えば文化やスポーツを通じて活動した面を見てあげてください、こういうふうに最初からはっきりと約束をすれば、僕は学問幾らやってもだめなんだから跳び箱を一生懸命やろう、水泳は少なくとも百メートルだけ泳げばいいんだという一つ水準があるならば、一生懸命水泳の練習をされる。それだっていいのではないか。ただし、やはりその面は選抜の中で選んであげる、そのことを見てあげるという制度がなければ、幾ら泳げ、走れと言ったってするわけないのです。文化活動もそうでしょう。別の意味では、高等学校時代の調査書なども十分に見ながら人物を審査する、そしてその生徒との間の面接なども十分手間暇をかけてやるということであれば、その面で三〇%、端的に言えば、仮に学力の面で一〇%しか取れないといたしましても、そうした文化活動、サークル活動の面で三十点取る。その総合的なバランスから見れば、私は選抜方式というのは改められるのではないか。そういう制度学校が本当に完全にやってくれたら偏差値なんか吹っ飛んでしまいますよ。そんなこと業者はやらなくなってしまいますよ。偏差値はあくまでも民間の業者が編み出した一つの方途でございますから、それを利用しないように持っていくことで、いわゆる教育産業といいましょうか、そういう人たちが、偏差値をやってもしょうがない、そんなものをつくり上げてもしょうがないというように、自然に考え直してくれるだろうという期待感を持って私は申し上げたわけでありまして、そういう制度をこの教育改革で取り入れるということを申し上げているわけではございません。そういうやり方をすれば案外偏差値なんて吹っ飛んでしまいますよということを申し上げたわけでございます。  あくまでも個人的な問題として申し上げたわけでございますので、御理解をいただきたいと思います。
  46. 渡部行雄

    渡部(行)委員 私は簡単にお答えを要求したわけです。つまり、偏差値追放はやるのかやらないのか。六十年度にこれを本当に追放するのかしないのか。  問題は偏差値という、今大臣も言われたこの教育産業という状態を生み出して、そして子供から父兄まですべて産業の中に組み込まれて、本当の教育がどこかに行ってしまっておる。そういう中から今の少年非行あるいは家庭内、学校内暴力が続発しておる、私は、全面的なものとしてでなくて一面的に言えると思うのです。そういうものをやはりなくしていかなければならない、それには決断です。その決断を大臣はお持ちなのかどうか。  それから、六・三・三・四制の問題についてですが、これも本当に議論すれば相当時間を必要といたします。今六・三・三の特に中学時代というのは、一番動揺しがちで、そして青春期で、暴れることが英雄のような気持ちになっておる年代の者を一ところに集めて、それを内部から自律的な規律をつくるような条件までなくしてしまって、そうしてここで詰め込み教育をやろうとしておるわけですから、当然今日のような現象が出てくるのは当たり前だと思うわけです。昔は、小学生は高等科の生徒に抑えられて、上級生に対しては何だかんだ言っても刃向かうことはできない。あるいは中学に行くと、今度は一番暴れたい盛りの二、三年生は、受験生の五年生や四年生に抑えられて、結局その校内、校内で自律的に一つ秩序をつくり上げていたわけでございます。ですから、そういう点ではわりかた今のような悪質な暴力というようなものは起こらなかった。そういう年代別に発達過程を十分考えながら、学校制度というものは考えなければならぬのではなかろうか。  特に最近は、幼児教育について非常に関心が高まっておるわけです。むしろ女性が妊娠して受胎したそのときから、既に教育は始めなければならない。つまり、胎教というのが非常に重要視されてきておるわけでございます。それからさらに、三つ子の魂百までもということわざがあるように、もう大体三歳ごろには将来に対する人格形成あるいは肉体形成の基礎がつくられると言われております。そういうことを考えると、この幼児期の一番大切なときには、技術的ないわゆる知識というものを余り詰め込むよりは、伸び伸びと大自然の中にほうり出して動物のように駆けめぐって、あるいは相撲をとったりいろいろしながら肉体を築き、自然との融和をみずから生育の中で感じ取っていく、そういう一つ環境をつくって幼児の教育の基礎を与えるべきだと私は思います。  また、これは低学年に対しても言えることであって、そして後だんだん自覚が出てきたころに、それぞれ自分に必要な知識をみずから要求するような条件をつくってやる。押しつけるのではなくて、必要性に迫られて条件をつくる。例えば昔私たちが、二点間の最短距離はというと、黒板に書いてこれを直線で結んだのが最短距離だと理屈で教えられました。しかし子供に、ここからそこまで一番近い道を通って行ってみなさいと言えば、真っすぐに子供は行くはずです。わかっているのです。そんな小理屈でなくてもう勘でわかっておる。そういうものを後から一つの学問として身につけさせていくことが大事じゃなかろうか。あるいは数学にしても、今この数学をやらなければ次の問題に移れないということを意識させなければならない。例えば今水はどれだけの速さで流れておる、ところが今ここから船を出して向こうの岸に着くには、川の幅は何メーターである、そうしたら何分後に着くのか、そういう一つの具体的な問題を通して、遊びを通して数学の雰囲気の中にこれを溶け込ませていく。こういう生活と結びついた、混然一体となった教育というものを考える必要があるのではないか。そうして、だんだん年を食って高校や大学に行くころになれば、今度は真剣に高度な学問を勉強させていく。  しかも、大学卒業ということを要求することは、これは大学卒業程度の実力を要求することではないかと思うのです。ところが今は、その実力ではなくて、何々大学を出たか出ないか、何々大学に合格したかしないかということで人間の評価がされている。これは子供にとって耐えられないことだと私は思うのです。しかも、人間の能力というものはそんな一面的なものではなかろうと思います。確かに数学的には天才の人がいるけれども、今度国文学の方では、てんでろくに文章も書けない人もいるでしょう。しかしまた、芸術的にはすばらしい、山下清のような天才もおるわけでございます。これを一つの試験という形で一律に、平面的に人間をはかりにかけるところに今日の教育の問題があると私は思うわけですが、そういう点で大臣は、先ほどの六・三・三制に対しては内閣総理大臣が言いましたから、あなたはこの偏差値、教育産業、こういうものに振り回されないために決断されるかどうか、その点をお伺いいたします。
  47. 森喜朗

    森国務大臣 まず、結論から申し上げましたら、そういう事態と決別をいたしたい、そのために教育を改めてみたい、改めたいと私ども判断いたしておるわけでございます。  ただ、今先生が数々の例を、そしてまた先生自身のお考え方も述べられました。私は、今先生がお述べになりましたすべてについて大賛成であります。しかし、そういう理想を具体的に実現していくためには社会全体が仕組みを考えていただかないと、これはその部分だけを改善いたしましても決して直るものではない、私はそう思うのです。  例えば偏差値にいたしましても、そんなものは決然として使わないということを決めればいいのですが、今のような受験の進路指導をやっている限りは先生が負担になるのです。先生判断のよりどころがないから、ついこれに頼らざるを得ないことになるわけでございますから、そういう業者のものは全部やめてしまえばいいということになりますが、民間の教育産業がそういうものをやることをとめることは政府ではできないわけでありまして、そんなことをいえば、例えば教科書に伴ってできております参考書などは民間で勝手につくっているものでありまして、学校では用いておりませんが、家庭で子供が、あるいは親が買い与えているということになりますから、それを買うなということまでは、国がそういう命令を発することはできないわけでございます。したがいまして、そういうものが結果的には無になるようにしていく制度を考えることが大事ではないだろうか。そこで、先ほど私見として申し上げましたが、偏差値だけに頼らない、これを全く無にするようなやり方も、多様な人間の判断をすることがあるではないか、こういうふうにやるということになれば、学校だけがそれをやってもいけないわけでありまして、社会全体がそのことを認めていくような制度を考えていくことが大事だというふうに申し上げたかったわけであります。  六・三・三・四制度の問題にいたしましても同じでございまして、今先生視点は、例えば自律的に、お互いに生徒同士が秩序をつくり上げていくという制度は首あったではないかということでございます。確かにそういう見方もできましょう。さっき私は就学前のことを申し上げましたが、兄弟が少なくなったということで、兄弟が家庭教育の中で自然に秩序を身に、つけることができなくなったという今の子供たちに対する見方もあるわけでございます。あるいは六・三・三・四制を変えるという意見、いろいろな意見がございますが、その中で、例えば中学、高校と三年間に二回もハードルを越えさせることがそもそもいけないのだという見方もあるわけでありますから、そういう中で受験の制度そのものが根本的に変われば、六・三・三・四制は必ずしも悪いということにもならないという見方もあるわけでございます。  あるいは先生は、自然の中でもっと自由に奔放に、人間の一番大事なことを基本的に教えることが大事だということでございましょう。もちろんゆとりのある自然との触れ合い、人間同士のお互いの融和、そういうことを基調にしたゆとりのある教育を私どもかつて展開しようとし、文部省が今実践をいたしておるところでありますが、今日の社会からいえば、ゆとりある教育をやって、英語でも理科でも少し少なくして子供たちの教科書を薄くしてあげましょうということで、当時私どもは新学習指導要領を精査いたしたわけでありますが、結果的に受験というこの体制が変わらないものでありますから、逆に親から見ると、ゆとりある教育によって上の学校に進めなくなったじゃないか、もっと英語の時間や数学の時間や理科の時間をふやせという請願書が今国会にたくさん来ておりまして、恐らく先生方もその紹介議員になってサインされている例もあるだろうと思うのです。そういうふうに、ゆとりある教育をやっても、現実的に教育制度全体を見直してみなければ実効が上がらないということを一つの例として申し上げさせていただいたわけでございます。  数学の例もいろいろ申されましたけれども、要は、私も大臣に就任いたしましてから国大協の先生方、受験の改革をしたいという先生方とお話しをいたしますと、果たして難しい解析あるいはコサイン、タンジェントまで全部学ばなければ本当に社会に生きていけないのかどうかという疑問を持ちますけれども、それが結果的には受験の中に科目として、受験の問題として出るということになれば学はざるを得ないということになってしまう。子供がいい学校へ行っていい就職をしたいということを考えれば、そのためにはこの試験を何としてもくぐり抜けなければならぬということになれば、先生からいろいろ御指摘がありましたような人間性、もっと自然との触れ合い、そんな教育をないがしろにしながら、結果的には受験本位の学校教育を進めざるを得ないということになるわけでございますので、そういう制度を全部もう一通見直してみるということで、まさしく先生が今御指摘をされましたところが今回の教育改革のねらいなんです。そういうことをぜひ実現していくためには、いろいろ行政各都にも関連があることでございますし、政府全体として長期的な展望に立って一遍見直してみなければならぬということでございます。  まさに渡部先生の御指摘の点を改革したいというのが今回の教育改革の全体的なねらいであるというふうにぜひ御理解をいただきまして、御協力を賜りたいと思う次第であります。
  48. 渡部行雄

    渡部(行)委員 次に、一昨年十二年二十四日の参議院予算委員会で、文部省は「五教科七科目の科目の選定につきまして大学に自主的な選択を認めるという方向で六十年度以降運営したい」と答弁をされておるようでございます。また、昨年三月十八日の衆議院文教委員会においては、受験科目数の軽減については五十八年度中に結論を出す旨答弁されたわけでございますが、いずれもまだ実行に移されておりません。この六十年度中に今まで公約された中でどこまでできるのか、御答弁をお願いいたします。
  49. 森喜朗

    森国務大臣 時間の関係もございますので、長い御説明を申し上げますと先生に御迷惑をおかけいたしますが、共通一次も、今高等学校に学んでおられる生徒さん、あるいは中学校に学んでおられる人も対象にしていいと思いますけれども、いい悪いは別といたしまして、現在ある共通一次というこの試験制度一つの前提として、今学校で学んでおられます。したがいまして、共通一次制度改革するということは、これを述べることは非常に簡単でございますが、現実の問題としてこの取り組みは慎重にしなければならぬわけでございます。  共通一次を制度として取り入れました当時の社会環境、そしてまた当時の教育環境から考えまして、当時としてはかなり大きな評価を得たわけであります。つまり、離問奇問を解消しなければならない、そして学校の格差もなくさなければならない、高校生が文化活動やスポーツ活動をやっていても高等学校でこの程度の勉強をすれば大学へ進学できる、その勉強の到達程度を見るということが、当時の共通一次を取り入れた一つのねらいであったわけでございます。  しかし、現実の問題としては、五教科七科目が大変過重である、あるいは私どもとして願っておりましたような、第二次試験は余り学力を問わないということを願っておったわけでありますが、大学においては二次試験を学力で問う傾向が非常に強い、そういうことが受験生に対して過度な負担になっていく、こういうところもぜひ改めることができないだろうかということが共通一次に対する問題点でございました。  高等学校の校長会等を初めとしていろいろなところからの改善の申し出もございまして、国立大学協会の入試改善特別委員会でいろいろ検討いたしましたが、とりあえず、第一次試験の実施の日取りを二週間繰り下げるということ、これは先般決定をいたしまして、もう既に改定を加えて国民の前に明らかにいたしておりますが、その他につきましては今いろいろと御協力いただき、そして国立大学協会でも検討していただいておりますけれども、六十年度にすぐこれを間に合わせるということは非常に難しゅうございます。それでは六十一年からということも、今ここで軽々には申し上げられない。なぜかといえば、先ほど大前提と申し上げた、今学んでおられる高校の生徒さんたちがそのことを前提にして勉強しておりますので、そのことに対して動揺を来してはならないと考えておるわけでございます。しかし、国大協では特別委員会設置するなどいたしまして、今具体的にこの問題について鋭意検討いたしておるわけでございまして、私どもとしては、国大協における検討をできるだけ早く結論を出すように、その結論を待って適切に対処していきたい、こういうふうに考えているわけでございます。
  50. 渡部行雄

    渡部(行)委員 そこで、その共通一次試験に関連して、まず、偏差値を追放して受験生に合理的な試験のあり方を実現するにはどうしたらよいか。これは、国語、数学、外国語の三教科の試験はもう既に一月二十六日と決定されておるわけでございますから、あとは、理科、社会科の試験を三月初めに、二次試験の前日に行えば受験生の悩みは大きく解消されるのではないか。例えば二月から始まる私立大学の入試等の関係においても、また交通、宿泊、そういうものの問題を考えましても、このように受験日をちょっとずらしただけでも大きなメリットが出てくるわけであります。さらには、受験産業の介入の度合いを減殺していく上でも、その成果が期待されると思うわけですが、大臣はこれをどういうふうにして実現されようとしておられるのか。試験はあと半年以上ありますから高校現場に混乱は起こらないと思いますが、これに対する御所見をお伺いいたします。
  51. 森喜朗

    森国務大臣 先ほども申し上げましたように、共通一次試験はできるだけ改善をしていかなければならぬ、これは基本的にそういう認識を政府としてもいたしております。そして今、国立大学協会で特別委員会をおつくりいただきまして、鋭意作業を進めていただいておりますので、その結論を待って対処したい、こういうことが政府の基本的な考え方でございます。     〔委員長退席、池田(行)委員長代理着席〕  ただ、今先生からお話がございましたように、まだ半年もあるではないかということでございますが、共通一次を実施いたしますとなれば、約三十五、六万以上の生徒さんたちが、それこそ沖縄から北海道に至るまで同じような条件で一斉にやるということでございますので、問題のつくり一方、それを印刷して、あるいはそれをいろいろな角度でコンピューターにもかけなければならぬ、そしてそれを全国一斉に配ってという作業をいたしますと、半年ぐらいでは実際にはなかなかできないのです。  私も当初、先生のような考えも持っておりましたが、大臣就任以来、入試センターに参りましていろいろとその経過を尋ねてみましたけれども、なるほどこれは大変な作業だなというふうに感じました。だからこそ、そういう共通一次は意味のないことではないかという意見もここではあるわけでございますが、今そういう意味で、来年からすぐいろいろな形で改善をすることは非常に難しゅうございまして、基本的には期日の繰り下げのみでございまして、現実の問題としては現行の体制で進めざるを得ないというのが現実のところでございます。  先生一つの例として、国、数、外国語は一月、理、社は三月にというような一つのお考え方、このようなさまざまな意見は大学関係者から非常に多く出されておりますので、そういうことも十分承知をいたしております。当然、国立大学協会の入試制度を検討いたします会合におきましては、さまざまな意見を十分にしんしゃくをしながら議論をいたしておるであろうというふうに私どもも考えておるわけでございますが、端的に申し上げまして、私立大学の受験との問題でありますとか、この時期をどうこうするというのは非常に難しゅうございます。  ここで自分の私見を申し上げて恐縮でございますが、先ほどから、スポーツの面、人物の評価文化活動の面を評価するためには、もう少し手間暇かけて判断をしてあげたらどうなんだろうか。何万という学生を一遍に紙一枚で評価して、そこできちっとさばいてしまおうというところが、すべての学校教育にまでいろいろな形で及んでくる。例えば気候にいたしましても、二月、三月というのはちょうど天候の一番不順なときで、私どもは石川県、北陸の方ですから、雪で汽車が動かなくなれば大変な事態になります。数年前にもそうした例がございまして、金沢からあるいは富山から、福井から大阪、京都の大学の受験に雪で行けなくなって、飛行機で一たん東京へ出て行くということをやった受験生もたくさんおりましたが、そんな時期に果たしてこういう選択をすることがいいのかどうか。あるいは会社におきましても、転勤によります子供たちの転学のことがいろいろ問題になっておりますけれども、会計年度の一番あわただしい中にこれをやることが本当にいいのだろうか。転勤をやって会社も体制としてある程度整った、五、六月になれば会社のそういう転勤もおさまるわけでございますから、そういうものを待って、もう少し手間暇かけて人物の評価を多様な面でしてあげるという、この制度を考えていくべきではないか。これは私は個人的な考え方として持っておるわけでございます。  こうした問題を検討するということになれば、やはり臨時教育審議会などでこうしたことの御議論を願えないだろうかなという期待を私は持っております。一面、各党からも出ておりますが、九月の入学ということも検討してみたらどうかという意見もありますのは、こうした論拠によるものであろうと思いますが、私自身も、一枚の紙切れで試験をして判断させて将来の方向を決めるということよりも、多様に人間の個性を見ながら進路指導をしてあげるということがより大事ではないだろうかというふうに考えますと、そうした試験の時期をもっと根本的な制度として考えてみる大事な時期に来ているような気がしてならないわけでございます。
  52. 渡部行雄

    渡部(行)委員 試験期日の問題ですが、二月上旬というのは東北、北海道においては一番雪の多い季節でもありまして、ここに試験をぶつけられると受験生は大変困るわけなんです。  それからもう一つ問題なのは、国公立と私立、二つを受けたいという生徒が、結局重なり合って、どっちかを捨てなければならないという問題、あるいはどっちか先の方が合格して、授業料と申しますか、入学金を納めないと失格になるというので納めたところが、今度は自分の行きたい方も合格した。そこで、その納めた金はそのまま捨てるようになる、こういうようなケースもあるわけで、試験日の設定というのはいろいろな問題に波及するわけです。  先ほど、仕事が非常に膨大だからなかなか難しいと言われましたけれども、しかし、これを延ばすのですから。縮めるというなら大変でしょうけれども、延ばすには支障はないじゃないか。例えば今から七年ほど前に、海部文部大臣のときに、一たん十二月下旬ということに決まったものを、その翌年一月中旬に試験日を変更したという前例があるわけです。森文部大臣がずっと長く文部大臣を続けられるという保証でもあるならば、私は文部大臣の意向に期待しますけれども、その保証がないわけですよ。あなたが本当に理想的なことを言ってきたとすれば、それはどこかで何か現実のものに変えていかないと、今まで言ったことはただ空気の振動にしかならなくなってしまって、あなたが大臣をやめたときには、振り返ってみたら何にも残らなかったということになってしまうわけです。この辺で決断をして、これはおれがやったんだというものを一つつくってくださいよ。どうですか、大臣
  53. 森喜朗

    森国務大臣 共通一次試験の科目を分けてみたり、その期日を延ばしたり、あるいは前へ持ってきたぐらいのことでは教育改革ではないと私は思いますし、あるいは大臣の実績でもないと私は思っております。そのことよりも、先ほどから先生もいろいろとお述べになりました、そうした現実教育の問題として指摘された点、そうしたところを改善改革をしていくということであれば、やはり教育全体を見直していくことが大事でございまして、先ほども受験一つの例を幾つか申し上げましたけれども、先にすれば先にしたでのプラス・マイナスもございます。後にすれば後にしたでのプラス・マイナスがあるわけであります。したがいまして、私が申し上げましたように、もっと手間暇をかけて、そして子供たち評価というものを多面的に見る。  先生も御指摘ありましたように、東北地方の雪ということをおっしゃいましたが、それを一カ月上げたり下げたりしたからといって、そう地域的には雪の問題は解決されるわけじゃない、北海道は三月いっぱいになっても雪の弊害があるわけでありますから。そして、先ほど申し上げましたように、会社、企業の転勤というものもある、その後に子弟の転校という問題も出てくる、そういうふうに考えましたら、例えば一つ考え方として、卒業時期と入学時期というものの間をもう少し考えて、間を置いてみるということも大事なのではないか。もちろんそのことによって、その間の学生たちの存在というのは一体どういうことになるのかとか、あるいは逆に、受験に対する苦しみが長く続くではないかとか、さまざまな考え方はございますが、国際社会の中との並び方もやはり考えてみる必要もあるでありましょうし、そしてまた日本におきますいろいろな制度というものも勘案してみて、そういう問題をこの際議論してみるということで、臨時教育審議会は、すべての面にわたって幅広い検討をしていただくということが適当ではないかというふうに私は考えるわけでありまして、私は今文部大臣をやっておりますので、文部大臣をやっている間に何か実績を、森文部大臣としてはこれだけは残しておけという大変ありがたい御示唆でございますが、そういう功を焦ることではなくて、やはり二十一世紀日本の国を背負っていく青少年のために、日本教育制度全般にわたってぜひ皆さんに御論議をいただくという、そのことを私はむしろ国民皆さんに総理とともどもに御提言を申し上げているということの方が、より日本教育にとって大切なことであるというふうに私自身は自覚をいたしておるところでございます。
  54. 渡部行雄

    渡部(行)委員 そこで、この間の五月九日、国立大学協会の入試改善特別委員会で、国語、数学、外国語の三教科は従前どおり受験者全員に課すが、選択制のある理科、社会科については各大学、学部が自主的に指定するアラカルト方式を導入する、こういう統一見解に到達したと言われておりますが、これに対して大臣はどのようにお考えなのか、簡単にお願いいたします。
  55. 宮地貫一

    ○宮地政府委員 御指摘の事柄が、さる新聞に報道されたことは私どもも承知をしておりますけれども、国立大学協会の入試改善特別委員会において、共通一次試験では国語、数学、外国語は従来どおり全員に課し、社会及び理科については、各大学が自主的に指定するアラカルト方式を導入すことの統一見解に達し、このことは先ほども申しました一月と三月に分けて実施をすると書かれておるのでございますけれども、私ども、国大協においていろいろの方法等について慎重に検討しているということは伺っておるわけでございますが、そういう国大協の見解が、報道されたような形で統一見解に達しているということはございません。  なお、それらについてのメリット、デメリット、それぞれ国大協においても十分検討されているところというぐあいに伺っております。
  56. 渡部行雄

    渡部(行)委員 時間がありませんので、この問題はこの程度でとどめます。  そこで、本当に日本教育がよくなるためには、もっともっと制度的に民主主義が受け入れられなければならないと思います。教育を権力が支配するというような形は決して望ましくありません。  そこで、教育の独立と自治を守るにはどうしたらいいか。これはやはり私は、教育権力の分散、そういう意味でもう一度教育委員の公選制というものを考えてみてはどうかと思うわけでありますが、この地方教育委員会委員の公選制をぜひひとつ今度の臨教審の中に持ち込んで審議し、実現していただきたいと思いますが、これに対する大臣考え方をお伺いいたします。
  57. 森喜朗

    森国務大臣 教育委員会制度につきましては、先生の御指摘もございますが、かって私たちが子供のころに公選制をしていたわけでございます。その公選制が選挙という形で行われる、そこにやはり政治的中立性の確保が困難であった、そういう過去の経験と反省に対しまして、昭和三十一年に現在のいわゆる任命制度を採用いたしたわけでございます。任命制にいたしましたけれども、これを任命いたします住民選出の長は当然住民の代表としての選挙を経ている。そしてまたこれを議会で同意を得る、その議会もまたそれぞれ地域社会の住民代表の意を得てその議会に参加をしている、こういう形をとっているわけでございますので、任命する方式によりましても民意は十分に反映されている、そのように私は考えているところであります。
  58. 渡部行雄

    渡部(行)委員 そこで、二十一世紀に対する対応としての日本教育制度のあり方についてでありますが、もう既にINS通信体制というものは実験段階に入って、間もなくその実用化が迫ってきておるわけでございます。こういう予測される高度情報化社会の中で、それに本当に機動的に対応できる教育制度とは一体どういうものだろうか、そしてその中に果たす文部省役割、政治の役割というものはどうあるべきか、こういうことを考えますと、私は今までのような学校教育の感覚ではとても対応できないと思うわけでございます。もう東大でなければ、あるいは早稲田や慶応でなければというような考え方は二十一世紀には通用しないのではないか。自分の好きな先生の講義を全国で聞くこともできるようになるし、あるいはいろいろな討論も今やテレビやパソコンの中でやることもできる。こういうふうになってまいりますと、何も殊さら入学試験というようなものを通して格差のある学校にそれぞれ行かなければならないという理由もなくなってくると思うのです。また、そういう拘束性も意味がなくなると思うわけですが、そういうことを考えますと、この二十一世紀に対する教育制度のあり方、教育体制といいますか、そういうものをどういうふうに考えておられますか、お伺いいたします。
  59. 森喜朗

    森国務大臣 新しい高度な情報社会に入ります。このことは、私どもはもう否定はできない時代に突入をしていくというふうに考えます。したがいまして、激しい社会変化あるいは文化進展、そういう中に対応でき得るような学校教育制度、あるいは社会、家庭、すべてにおきます教育制度を考えていかなければならぬという点がまずここにあるわけであります。  今先生から御指摘をいただきました点につきましては、二つのとらえ方があると思うのです。一つは、確かにそうした新しい高度情報の時代というものを考えますと、教育制度もそれをある程度取り入れていくということは当然否定できない現実でございます。したがいまして、例えば放送大学でありますとか視聴覚教育とか、そうしたいろいろな意味での新しい技術の発達によりまして、そのこと自体は制度教育の中に織り込むことは当然考えていかなければならぬというふうに思います。確かに先生が、そういう教育の中にあってこれからは学校、学歴というのもまた意味のないものになるというふうにおっしゃるのも、まさに一つ考え方だろうと思います。  ただ、教育というものは、そうした知識や技術を身につけるというだけではないはずでありまして、教育基本法で言ういわゆる人格の形成ということを考えます。先生からお話を聞くことも大事であります。あるいは学問を受け継ぐということも大事でありますが、先生の経験からくる、あるいは先生人格からくる人間的な触れ合いというものは私どもはより重視しなければなりませんし、学校におきますそれぞれの子供たちの触れ合い、そのことがヒューマンな面で一番大事なわけでございます。そういういろいろな機能をすべて含めて人格の形成を図っていくことが教育であるわけでございますので、単に情報の伝達やあるいは学問を受けるという手段としてだけで考えますと――確かに新しい制度に入りますと多種多様なやり方というのは必要でございましょう。ある意味では家庭でだって学ぼうと思えば学んでいけるわけでございますが、人間完成をさせていくための教育はそうした面だけではあり得ないわけでございます。人と人との触れ合いということが一番大事なわけでありますから、そういう面での対応というものを十分考えていかなければならぬと考えるわけであります。
  60. 渡部行雄

    渡部(行)委員 次に、教科書検定についてお伺いいたします。  「現代社会」の中の検定を見てみますと、「一九四五 ポツダム宣言受諾し、日本条件降伏」となっているのに対して、「条件を受け入れて降伏したのだから、無条件降伏ではない。」という指導をされておるのです。本当ならば、いっぱいあるので一つ一つやりたいのですけれども、時間がありませんのでまとめてやりますから、よろしくお願いいたします。  それからもう一つは、「広島に投下された一発の原爆は、一瞬のうちに十数万人の命をうばった」という原文に対して、「「広島・長崎の原爆災害」によれば、十一月初めまでで十三万人前後、一瞬なら八~九万人ではないか。」こういうことを指導しておりますね。その「一瞬」というのをどういうふうにとらえて、「八~九万人」というのはどこで調べたんでしょう。こういう、だれもわかりもしないことを、なぜこういうふうに事実を小さく小さく覆い隠そうとしておるのか。この辺が非常にわからない。  それからもう一つは、「(米ソ)両国はたえず新兵器を開発し、発展途上国などに兵器を輸出し、各地に軍事的緊張をつくりだしている。」これに対して、「兵器を輸出するのは政府ではない。教科書の記述としてはできるだけ押えてほしい。」こういうことを言っているのですね。どの国からどこに兵器を輸出したと言わないで、どの国の何々会社からどこどこにというようなことを一々言いますか、一般的に。そんなこと、教科書に書きますか。まずこういうこと。  それから非常に問題なのは、「「一九五〇年、ストックホルムで世界平和擁護者世界大会委員会がよびかけた……署名運動は、全世界で五億人の署名を集めた(ストックホルム-アピール)。」という文と、年表中の該当部分」、それが、「世界平和擁護運動は社会主義を支持する人が中心になった運動であるから党派性が強いので、教科書にのせるのは適切でない。削除せよ。」となっているんです。これはどういうことですか。     〔池田(行)委員長代理退席、委員長着席〕  この思想はまさに憲法違反ですよ。社会主義であろうと共産主義であろうと自由主義であろうと、戦争に反対して平和運動をするのがなぜ悪いのですか。この点を明確にしてください。  しかも、このポツダム宣言は降伏文書の中に、「無条件降伏」という文字がはっきりとしてあるのですよ。こういう歴史を改ざんすることを平然としてやる文部官僚は断じて許せないと思うのです。  大臣はその最高責任者として、このような思想、まさにヒトラーのような思想を持っている者に教科妻を検定させてどうなりますか。これから平和な国家をつくろうとしておるときに、しかも歴史を逆戻りさせるような検定官を次から次へつくってこういう教科書の指導をするということは断じて許せないと思うのです。これに対して答弁をお願いいたします。
  61. 森喜朗

    森国務大臣 御承知のように、教科書の検定は基準が設けられておりまして、その基準に従って適切な指導をいたしておるわけでございます。もちろん検定官一人の意見がそのまま教科書の改善あるいは修正意見になるわけではございませんで、委員会の議を経て、協議をした上で改善、修正をお願いしているところでございます。  具体的な点につきましては、その状況は私どもは知り得ないわけでございますので、政府委員から答弁をさせます。
  62. 高石邦男

    ○高石政府委員 具体的な事項についての突然の御質問でございますので、ここで細かいやりとりについてお答えできる段階ではございませんので、総括的に申し上げたいと思います。  まず、教科書でどういう事項をどういうふうに取り扱うかというのは、非常に慎重な対応をしているわけでございます。いろいろな考え方が、特に「現代社会」の記述についてはあるわけでございまして、少なくとも我々としては、一般的に学界の通説になっている、そういうような安定した状態になっているものを取り扱うというのを原則にしているわけでございます。したがいまして、時事問題的な内容についてはいろいろな見方考え方がありますので、それぞれの考え方一つ社会的に安定した学界等での通説になるというものを取り上げていくことが妥当であろう、こういう考え方を持っているわけでございます。  そこで、あくまで教科書については客観的な事実、客観性、それから公正性、それからどういう段階での教科書、小中高それぞれ段階がありますので、そういう子供たちに教える場合の教育的な配慮、こういう三点からいろいろ考えておりますので、検定官ないしは検定審議会が特定な立場に立って一つ考え方を押しつけるというような考え方では検定をしていないつもりでございます。
  63. 渡部行雄

    渡部(行)委員 何を言っているんだか、本当に私、腹が立つのですよ。  しかも無条件降伏の問題なんかは、かつて教科書になっているんですよ。「日本史」その中にあるのですよ。このポツダム宣言の中にも「吾等ハ日本政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ」と書いてある。そして、この教科書にも「軍隊の無条件降伏を勧告するポツダム宣言として発表した。」というふうになっているし、そうして、この降伏文書の中には、時間がないから読みませんけれども、「無条件降伏ヲ布告ス」となって、「千九百四十五年九月二日「アイ、タイム」午前九時四分日本国東京湾上ニ於テ署名ス 大日本帝国天皇陛下及日本政府ノ命ニ体リ且其ノ名ニ於テ 重光葵 日本帝国大本営ノ命ニ依リ且其ノ名ニ於テ 梅津美治郎」こういうふうにちゃんと公文書があるのですよ。  それをあなた方が、どうして消す権限ありますか。そういううそを教えるから、子供までうそつきになったり暴力を振るうのですよ。大体教科書の検定官の姿勢が物すごい反動なんです。これは一体どういうことですか。
  64. 高石邦男

    ○高石政府委員 具体的事項についてここでその経緯を答弁することはできませんけれども、少なくとも基本的には、先ほど申し上げましたように、客観的な事実、公正という観点で検定をしているつもりでございます。
  65. 渡部行雄

    渡部(行)委員 もう時間がありませんからこれ以上言っても、どうもこういう本当に良心のない答弁というのは、あとこれ以上聞きたくありません。  そこで、私はこれから大蔵省の方にも聞きますが、大蔵省では日本教育というものをどういうふうに考えておられるでしょうか。その重大な度合いについてひとつはっきりお聞かせ願いたいと思います。
  66. 的場順三

    ○的場政府委員 ただいまの御質問は大変難しい御質問でございますが、大蔵省は財政当局でございますので、それぞれの施策の重要性というものにつきましてはそれぞれ所管省庁のお考えを十分に拝聴して、それぞれの施策のバランスを考えながら財政的配分を行っているということでございます。  文教予算の重要性というのは十分承知をしておりまして、その結果、全体として、五十九年度予算におきましても四兆五千七百二十億円の予算を計上しているところでございます。
  67. 渡部行雄

    渡部(行)委員 私の聞いているのは、日本の国を立派にする上で教育というものはどういう重要な部門であるか、つまり、今いろいろな予算の分配がなされておりますけれども、その中で、あなたは教育は何番目ぐらいに置いておりますかということ。
  68. 的場順三

    ○的場政府委員 いわゆる国債費と地方交付税を除きました一般歳出の中に占める文教予算のシェアはかなり大きくなっておりまして、順番で申しますと、主要経費別分類で、社会保障費と公共事業費に次いで三番目に大きな費目でございます。
  69. 渡部行雄

    渡部(行)委員 これは答えになってませんよ。あなただって相当の学識持っておられる方ですからね。私は予算の順序を聞いているのじゃないのですよ。重要の度合いを聞いているのです。  日本が将来立っていくには、どうしても必要なのはまず人間づくりですよ。一番大事なのはこの教育です。その次が科学技術ですよ。それから貿易です。この三つが三位一体となって発展しない限り、日本の将来は非常に暗たんたるものを感じざるを得ない。だとすれば、この教育のために予算を考えるのは当然でしょう。あなたは予算の順番を言ったけれども、実際にどうですか、四十人学級もまだ実現していないし、私学助成も非常に足りないし、義務教育の教科書代までどうも不安定になってきておる。これでいいでしょうか。しかも、文部省関係の科学技術というのは、大学関係の科学技術科学技術の基礎分野を主として担当しておるわけでございます。今日本の科学に一番欠落しておるのはその基礎科学でございますから、そういう点ではまだまだこの予算では足りないわけですよ。七千百四十七億六千万円が科学全般の関係費としてありますけれども、こんなことではとても足りるものではありません。これ一つとってもそうです。  それから、先ほど言ったようなものを考えますと、今度はマイナスシーリングなどということをそうのんびり言っていられないのじゃないですか。あなたは、もし自分の子供が将来よくなるために何とか大学に行きたい、そのときに、学資がないからおまえは大学をあきらめなさいと言い切れるかどうか。私が親ならば、借金してでもその能力を伸ばしてやるというのが、本当に考えている者の行動ではないでしょうか。  今日本教育が、この変転きわまりない世の中の変化に対応していくために、そして各国との競争の中にあって日本が将来とも生き延びていくにはどうあるべきかを考えた際に、財政が赤字だから我慢しなければならないと言って出すものも出さないで、そうして今度は借金も余りしないようにするということで、今必要なものを、船が今ブクブク沈みかかっているときに沈まないように穴をふさぐ道具すら買わないで沈んでいくことが許されるだろうか、私はそういうふうに考えるのです。防衛費としてアメリカからあのF15やその他の飛行機を、せめて五機くらい買い控えしたらどうでしょうか。そうすれば幾らでも教育予算なんか取れるんじゃないでしょうか。しかも外国に出すときは、その兵器はもう古くなっているのですよ。次の兵器が用意されているから外国に出せるんです。軍備というものはそういう性格のものなんですよ。そんな古物ばっかり買っていたら、日本はいつまでも従属国家の域を脱することはできない。今必要なのは、本当に独立心を持って世界の平和のために行動する人間をどうつくるかでありましょう。そうした際に、私は教育にもっと真剣に予算を考えなければならないと思うのです。  その点について文部大臣、少し腹を据えてこの予算獲得に頑張っていただきたい、その決意のほどをお伺いし、また大蔵省もそのことを子として大いに頑張ってもらいたい、決断をしていただきたいと思いますが、その点についてお伺いいたします。
  70. 森喜朗

    森国務大臣 いろいろと御指摘をいただきました点、私ども教育を大事にしていくという基本的な考え方、そして先生が御心配いただきました点、私どもは大変ありがたく承らせていただきました。  私は、常日ごろ国会答弁でも申し上げておりますように、行政改革あるいは財政改革はすべてを合理的に、そしていろいろな意味で身ぎれいにして精査をしていくのだということだけではないわけでありまして、ある意味ではもう不要のものもあるはずでありましょうし、総理はよく「あか」というような言葉で表現される、これは正しいかどうかわかりませんが、やはり将来に向かって躍動的な日本をつくり上げる、構築していくということであろうと思うのです。したがって、教育改革もまさに行政改革や財政再建を進めて、そして二十一世紀に向けて新しい躍動的な日本の人づくりの体制を固めていこう、こういう、より建設的なものであると私どもは考えているわけでございます。そのために今財政計画を進めているわけでございますから、政府全体といたしまして財政改革努力が続けられているというこの大事な時期に、やはり私どもとしてもこの基本的な考え方に従って、その中で文教予算についても、全体の枠組みの中で重要な、所要な経費の確保に最大限の努力をしてきているところでございます。  防衛との関係とかいろいろお話がございましたが、日本の国はまさに諸外国の協力、そうした中に国際社会の中の一員としていろいろな役割を果たしていく、それで日本の国が今日の諸外国との友好を進め、その中にまた経済活動も営まれているわけでございます。問題のとらえ方にいろいろな角度はあろうかと思いますが、日本の国が将来ともに多くの国々との友好関係を深めながら、また独立国家としての体制を固めて、そして多くの国々から信頼を受けていくということがまた基本的には大事でございまして、この基本的な構えがしっかりして初めて教育充実もなし遂げられることであるし、そしてその中でできました教育の完成によって、また国際社会におきます日本地位がさらに評価をされていくというふうに考えているわけでございます。  大臣の基本的な決意はどうかということでございますが、こうした基本的な考え方に立ち返って、厳しい中ではございますが、教育のいろいろな予算の充実につきましては、私自身大臣としての立場だけではございませんで、私は当選以来ずっと文教政策の中に関心を持って政治活動をしてきた一人でございますので、今後ともなお一層教育予算の確保に対しましては最大限の努力をしていきたい、こう申し上げてお答えといたしたいと思います。
  71. 的場順三

    ○的場政府委員 尊敬する文部大臣のお考え方と全く同じでございます。  ただ、一言弁明をいたしますと、渡部先生のお話を伺っておりますと、大蔵省は文教予算について血も涙もないようなことばかりやっているというふうに私にとってはうかがわれるのでございますが、それはやや事実に反するのではないか。与えられた条件のもとで、私たちとしては、文部当局の意見も聞きながら最大限努力しているつもりでございます。  いわゆる「増税なき財政再建」という旗印のもとに、六十五年度までに赤字公債に依存しない財政体質にするという命題のもとということは、これは釈迦に説法になりますが、公債というのは結局、将来の子供たちの税金を担保にして金を借りているわけでございますので、そういったことをできるだけ身軽にするというのも重要な施策でございます。その中で、今後文部当局の意見も十分聞き、重要な部分について十分にお話し合いをして、節減合理化すべきところもあろうかと思います。節減をお願いするところもあろうかと思いますが、また施策について考慮すべきところもあろうかと思いますので、今後よく検討していきたいと思います。
  72. 渡部行雄

    渡部(行)委員 時間も参りましたので、最後に一言申し上げて、終わりたいと思います。  私は今、赤字財政のもとにおけるいわゆる財政運用という考え方を非常に重要であると思っているわけです。一般的に言うならば、赤字だからなるべく使わないようにして、そして借金しないようにしてだんだんと赤字を減らしていこうというのは、一般的な非常に単純な考え方だと思います。しかし、本当にそれでいいのかということを考えますときに、私は、金というものは投資してどれだけの果実にしていくか、どれだけの収穫を得ていくかという使い方でないと、余り利口な使い方だとは言えないと思うのです。ですから、例えばある会社が、今赤字だけれども先端技術にもっと金をかければやがて大きな黒字に転化していくのだ、こういうときに、その赤字に加えてさらに借金して投資をしてそれがやがてすばらしい成果になって返ってくる、これは当然あることなんです。そういう点で、私は今、日本の未来を支える子供たち、青少年たちに投資をしておけば、今の財政赤字という問題以上の成果がやがて返ってくる、こう思っておるわけであります。  ひとつ大蔵省も、余りマイナスシーリングなどとばかり言わないで、思い切ってやるところはやる。これはタイミングの問題もあるわけですが、しかし、むだなところに金を使う必要はありません。有用な使い方をしなければならないわけで、そのために赤字ということは、私は一向恥ずべきことではないと思います。  しかし、今日の赤字は、これは決して政策的に赤字というよりは、私は税金のかけ方その他の問題に原因があると思います。この議論はやめますけれども、いずれにいたしましても、日本は世界から金持ちの国と言われており、貿易黒字が三百億ドルも超さんとしておるこのような中で、なぜ政府がそんなにぴいぴいがらがらしていなくちゃならぬのでしょうか、私はおかしいと思うのです。持たない方にばっかりしわ寄せをしないで、もっと持っているところから金を取ればいいじゃないですか。そうして、教科書なんかは義務教育だから将来無償を続ける。物すごい金持ち、財界の人は別ですよ。財界の人にはうんと負担してもらっても私は構いません。しかし、それ以外の一般の国民に対しては、安心して義務教育を信用しなさいと胸を張って言えるくらいの大臣の決意も必要じゃないかと私は思います。  以上で私の質問を終わります。
  73. 片岡清一

    片岡委員長 午後一時から再開することとし、この際、休憩いたします。     午後零時四十九分休憩      ――――◇―――――     午後一時五分開議
  74. 片岡清一

    片岡委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  質疑を続行いたします。石原健太郎君。
  75. 石原健太郎

    ○石原(健)委員 大臣には極めて短時間の昼食時間で恐縮しております。  私は、昨今の社会の急激な変化の波が教育とか青少年にも押し寄せてきて、そこにいろいろ教育上の問題を引き起こした、そして多くの人が心を痛めているのが現状であると認識しております。また、最近の青少年というものは、そうした社会の大きな変動の犠牲者である、あるいはまた被害者であるというふうにも感じておるのでありますけれども、そうしたときに、今回単に教育のことだけではなく、それを取り巻くいろいろな問題についても幅広く、自由濶達に討議をしていただくという審議会が発足されようとしていることは大変喜ばしく、心から賛成をするものであります。ただ、二、三疑問に思う点とか、また幾つか私がこれからの教育改革に期待すること等をこれから発言させていただきたいと思いますので、どうかよろしくお願いします。  その第一は、審議会がまさに発足されようとしてこの委員会でも審議が進んでいる、そういったときに、ここ十日間ぐらいの間に文部省関係の幾つかの審議会が、今後の大学の設置のことであるとか高校入試の改革、また職業教育改善、そういったことに対する答申とか報告等を出されたわけであります。しかし、これはある面から見ますと、今後発足する臨教審の自由をある程度束縛するようなことになるのではないか。また、仮に臨教審がそういったことに別な考えを示された場合には、朝令暮改といったようなことにもなってぐあいが悪いのではないか。臨教審が発足しまして三カ月なり半年なり経過しますと、そこでいろいろ問題点が議論されて命題もはっきりしてくるのでありましょうから、どうしてその数カ月の間待てないのか。ちょっと礼を失しているような格好ではないか。ここしばらくは、ほかの文部省関係の審議会あるいは協力会等はちょっと活動を控えられるのが筋ではないかというふうに感じておるのでありますけれども、その点に対する大臣のお考えをお聞かせいただけたらと思います。
  76. 森喜朗

    森国務大臣 臨時教育審議会は、先生も御承知だと思いますし、また先生も私は御賛成をいただけると思いますが、長期的に日本教育の諸制度全体を見直してみよう、総合的にいろいろな機能を全般にわたりまして検討してみよう、こういうことでございます。したがいまして、どのような制度をどのように変えていくかというような事柄については審議会の皆さんで御判断をいただくことでございまして、今からどの制度をどう変えるというようなことは、私どもとしては期待だとか希望を持って議論することはできますが、審議会自身判断をしていただくということがまず第一の前提であろうというふうに思います。  一方、教育行政は今、日々これどんどん進めていかなければならない。今先生から、臨時教育審議会が間もなく発足するではないか、それなのにどんどんいろんなことをやっていくということはかえって失礼ではないかということを御指摘いただきましたが、それぐらい今の教育を取り巻くいろいろな変化というものはあるし、それから臨時教育審議会がこれから長期にわたっていろいろなことを議論いたしますが、それを待ってすぐ、その答えが出てきたから、例えば六・三・三・四制がこういうふうに変わるんだ、変えた方がいいという提言があったからといって、答申があってその日にすぐ変えられるものでもない。当然それに関連をして、それを政府は受けてどうするか、あるいはそれによって法律の改正というものは当然出てくるでありましょう。では具体的にどういうふうにやっていこうかということについては、当然また専門的な御意見をちょうだいしなければならぬでしょう、あるいは法律をつくれば当然国会での御審議もいただかなければならぬでしょう。答申が出たからといって制度はすぐ変えられるものではないわけでありまして、したがいまして、今臨時教育審議会がお考えいただくことは、もちろん短期的な面もあるかもしれません。しかし、概して長期的な展望に立つということがやはり大事ではないかというふうに私どもは考えます。その間、すべて文部行政はストップしておけというものでもないわけなので、現実には、今ございましたけれども先生幾つかの例を踏まえておっしゃったのだと思いますが、「昭和六十一年度以降の高等教育の計画的整備について」という、いわゆる六十七年の十八歳人口ピーク時に対する大学受け入れをどうするのかということ、こういう問題も、長期的な臨時教育審議会の答えが出るまでほっといていいというものではないわけで、六十七年には学生たち、生徒たちがどんどんふえていく、二百五万に達していく、そのことについて行政は何も手当てができないということであってはならぬわけでございますから、そういう意味で、先生も十分そのことを御承知であろうと思いますが、文部省にございます幾つかの審議会あるいは協力者会議等は、日々これ進めていきます文部行政につきまして適宜な提言あるいはお考え方をまとめていただいて、それに基づいて文部省はそれそれ適切な対応をしていくということでございますので、そういう意味では、臨時教育審議会の皆さんに非礼になるとか、そのことが全く無意味なものであるということにはならないというふうに私どもは考えているわけでございます。
  77. 石原健太郎

    ○石原(健)委員 次に、臨調答申の趣旨と教育基本法の精神との兼ね合いについてお伺いしたいのでありますけれども、臨調答申では、今後の高等教育は量の拡大よりもむしろ質の充実に力を入れるべきだ、こういうふうに言っております。  ところが、私の地元福島の例なんかを考えますと、福島大学では学部が二つしかなくて、もう十何年も学部増設が悲願のようなことになっております。また、いわき市の方であるとか白河市、山を越えた会津、県内それぞれの地域で大学の設置の要望が大変強いわけであります。都会と地方との一般的な所得を比較した場合、どうしても地方の家庭の所得の方が低いわけであります。地方の人たちが自分の地元の方の大学に進学しようと思っても定員が限られていて、自宅からなかなか通うことができない、そして東京とか仙台あるいは大阪の方の大学に下宿をしながら進学するわけでありますけれども、下宿も最近なかなか費用がかかるような実態であります。一方、比較的裕福な都会の方の子弟の方たちは、そのまま自宅から大学に通っていける。こういった点を考えますと、見方によっては、教育基本法の言う機会均等というところからはちょっと離れているようにも思うのでありますけれども、こういった点、臨調答申と基本法のそういったものと、どちらが今後尊重されるようになっていくのか、その辺のお考え等をお聞かせいただきたいと思います。
  78. 森喜朗

    森国務大臣 臨調答申は、変化に対応いたしました適正な、合理的な行政の実現を目指して、いろいろな指摘をしているわけであります。今先生一つ具体的に例として取り上げられましたが、それも含めまして学校教育多様化あるいは弾力化の推進、それから今お話しになりました高等教育の質的充実、費用負担の適正化等、こういう指摘を受けているわけであります。文部省といたしましては、答申の趣旨を踏まえまして、行政の簡素化あるいは効率化を進めるという政府の方針に従って所要の改革を実施していきたい、こう思っているわけでございます。  臨時教育審議会は、さっきのお尋ねに対しても申し上げましたように、どのようなことを審議するかというのは審議会自身でお決めをいただくことになるわけでございますが、長期的な展望に立って我が国社会におきます教育のいろいろな機能を全般にわたって総合的な検討をお願いしたい、こういうふうに私どもは考えているわけでございます。  一方におきましては、先生がおっしゃったように、大学の例えば地方からの新設の要求等は非常にございます。一方におきましては、量的には抑えて質的な充実をしなさいという臨調の答申もございます。しかし、日本じゅうにあります国立大学を例えに挙げてみますと、それぞれの大学にすべての学部を備えることが本当に大切なことなのかどうかということは、検討をしてみなければならぬことだと思うのです。例を申し上げるとしかられるかもしれませんが、例えば九州地区にも非常に偏在をいたしております畜産関係の学部や学科は、本当に現実の問題としてあれだけ必要なのかどうかなということも考えなければならぬ一つの点だろうと思いますし、たしか国会での御質問もございましたが、琉球大学を特徴のある、沖縄という地域あるいは気候条件、地理的条件を考えて、もっともっとアジアの中心に据えた大学にしなければならぬという御意見もございます。しかし、沖縄県に住んでいらっしゃる生徒さんたちにとっては、他のいろいろな学問を学びたい、それには本土まで行くことがいろいろな意味で負担が多いということになれば、琉球大学は特徴ある大学にもしなければならぬという説と、もう一つ沖縄県民の立場を考えれば、総合的なバラエティーに富んだ学部や学科を持っていなければならぬという説も出てくるわけで、さあどっちを選択するのかということになってくると、非常にここは難しいところだと思うのです。  本土におきましても当然そうでありまして、先生の福島などは広い県ではございますけれども、例えば新幹線が通っているときは、端的に言えば東京の通勤圏と考えてもいいぐらいの高速交通時代に入ってきている。ますますこれから、先ほど渡部さんの御質問にもございましたけれども、いわゆる情報化社会を考えますと、教育機会は別の意味でどんどん変わっていくという而もございます。そういうことを考えてまいりますと、これ以上学部を総花的にいろいろな大学でどんどんつくっていくというやり方ではなくて、必要なもの、必要でないもの、日本の学問としてさらに探求を深めていかなければならぬものもありますし、学問としては存在をするけれども、果たしてすべての国立大学にそうした学部を設けてみんなに学んでもらうことが必要なのかどうかというような学問だって、よく調べてみればあるのじゃないだろうか。そういう意味で、質的な変化というのは、質を充実させて量は全部抑えてしまいなさいよという意味ではないと思うのです。  そういうような高等教育機関は、私どものような素人にはなかなか議論はしにくいところがございますが、専門的なお立場で、将来の日本の学術振興あるいは大学のあり方や学部というものはどうあるべきなのか、考え方によっては、例えば筑波大学のように学部を設けない、総合的にいろいろなグループに分けていろいろな角度で単位を取っていく、あるいは自分の学びたいほかの大学の単位を取る、それは単位の互換性という意味で認められるという制度、いろいろなことが考えられるだろうと思いますので、そういう意味での質的な充実というふうに御判断をいただけたらいいのではないか。  いわき市や福島県には、もう大学などは臨調答申で一切できないということではないわけでありまして、たびたび前の大学局長、今の高等教育局長ども申し上げておりますように、その地域の実情に応じて、民間活力を上手に活用させながらいろいろな仕組みを考えていく時代が来ているのではないか。そういう面で基本的な大学教育高等教育のあり方というものは、できればこの臨時教育審議会で一つ方向づけみたいなものを国民の前に明らかにしていただくことが、将来にとってとても大事なことじゃないかなと思うわけでございます。
  79. 石原健太郎

    ○石原(健)委員 審議会に事務局が置かれまして文部省の方で担当すると聞いておりますけれども、これは行政改革に際して果たしました行管庁のような役割をするのか。具体的に申しますと、各省にわたる問題につきましては文部省改革の推進役、働きかけ役になってあちこちやっていくのか、その点についてお伺いしたいと思います。
  80. 齊藤尚夫

    ○齊藤(尚)政府委員 事務局の構成をどうするかということはこれからの検討課題でございますが、現在この法案の御審議に当たりまして内閣に審議会設置の準備室を設けておるわけでございます。この準備室の構成は全体で十八名でございますが、そのうち四名は他省庁ということでございますので、事務局ができました暁にはその省庁の数ももう少しふえていくのではないか、こういうふうに考えております。
  81. 石原健太郎

    ○石原(健)委員 次に、文部大臣は、教育改革の一番大切な視点として人間形成の基礎を確実に身につけられるようにすることだ、こう言われておりますが、昔から、三つ子の魂百までといいますか、人間形成の基礎はゼロ歳から三歳までの間になされるというふうに言われておりますし、最近の精神科の学説なんかによりますと、精神病の原因も遠くたどるとゼロ歳から三歳までの間に芽生えがあるのだというふうに聞いております。ゼロ歳から三歳までの幼児期人格形成上一番大切な時期だと思うわけでありまして、そうしたときに子供が保育所のようなところで、保母さんが一遍に十人とか二十人とか見るというような環境で育つのではなくて、やはりお母さんと赤ん坊が一対一、そういった形で成長していくのが一番望ましい姿じゃないか、こういうふうに思うのであります。  しかし、労働省の統計を見てもわかりますけれども、女性、母親が育児のために一たん仕事をやめたりしまして再び就職しようとすると、いつもまた初任給といいますか最低賃金、そういうところから再出発しなくてはならない。また、仕事がない場合にはパートとか家庭内職、そういうことをせざるを得ない、こんな現実でありますから、やむを得ず子供を保育所に預けてお母さんは仕事を続ける、こういう実態があるのだと思うわけであります。  この間も本会議で育児休業制度重要性が言われまして、総理大臣も、それについては今後前向きに取り組んでいきたいというふうに言っておられました。この人格の形成の担当を主管するといいますか、文部省としましても、人間形成を本当に大切にする、幼児の教育を大切にするという観点から、育児休業制度につきましては他省庁あるいは国民世論の形成、そういったことに力こぶを入れていただきたい。また、今回の審議会等におかれましてもこういった問題についても議論をしていただければ、こう期待するわけでありますけれども、その点に対するお考えをお聞かせいただきたいと思います。
  82. 森喜朗

    森国務大臣 石原さんの今のお考えは、一つの御見識として拝聴いたしておきます。必ずしもそのことが間違っているとかいないとかいうことではないわけでありまして……。  今の育児休業制度というのは育児休業法に基づいて、先生も今おっしゃったように、女子職員の継続的な勤務を促進させる、そして円滑な業務の確保を目的としてこの制度が法律によって定められているわけでございますから、いわゆる乳幼児の教育的な見地というか、そういうことが直接の目的ではないというふうに私どもは承知をいたしております。  ただ、これから臨時教育審議会で、長期的な展望で各行政諸部にわたります教育制度全般にわたりまして見直しをしていただきたいと私どもは願っているわけでございますが、確かに子供たちの直接の影響力というのは母親にあることは間違いがない、だから子供としての一番大事なところは家庭にあると考えます。  しかし、最近の家庭は、先ほど渡部さんのときにも私は少し申し上げたように、昔のような三世代同居ではございませんし、兄弟がたくさんいて、いつの間にかお兄さんが指導して、兄弟がお互いにはぐくみ合いながら人間関係を醸成していくというような家庭でもないし、それから御婦人が社会に参加をされることがとても積極的な時代、またそのこと自体は大変好ましいことだ、こう考えます。しかし、一方では、保育に欠けるという立場で、どうしても働かなければならぬという御家庭も多いわけです。そういう人たちのために保育所というものが設けられているのでありますが、逆に言えば、保育所や幼稚園があるから働きに出るという面もないわけではない。いい悪いということではないのですね。やはり多様な面があるわけであります。  そういうように考えますと、六・三・三・四制の制度についても午前中渡部さんと御論議をいたしましたが、昔のように人生五十年という時代制度と違って、今はもう日本は長寿国、八十歳というふうに考えますと、八十歳の生涯というものを考えたときの子供たちの就学の年齢がこれでいいのか、あるいは就学前の教育が今のような形で保育所と幼稚園が分かれておることがいいのか。お互いに同じようなことをやっている。受ける立場が、行くところが、それによって社会評価が違うのではないか、そういう気持ちで見ておられる人がかなりある。そういうようなことを考えますと、乳幼児を含めてそうした就学前の教育はどういうふうにあるべきかということなども臨時教育審議会で十分検討していただく課題ではないだろうか、こういうふうに私も予算委員会等を通じて申し上げてきたわけでございます。  そのことがすぐに、保育所と幼稚園と一本化になるんだとか、保育所を幼稚園に吸収していくのでけしからぬというようなことを、私もよくおしかりをいただくわけでありますが、そういう意味ではなくて、そういうようなことも含めながら考えていくということが大事でございまして、先生の基本的な理念の中にある、子供と親との関係というのはとても大事にしていかなければならぬということは言うまでもございませんが、教育立場の中でこの育児休業というものを制度としてやっていくというとらえ方は、私は適当ではないのではないかと考えております。
  83. 石原健太郎

    ○石原(健)委員 次に、人格の形成には知徳体の三方面から取り組んでいかなければならないと大臣は再三おっしゃっておりますが、これまでの学校教育では徳といいますか、子供の情操とか精神面に対する取り組みがちょっと欠けていたのではないか。こう思うのであります。  今度の審議会には、哲学とかあるいは心理学といった関係の方も入っていただきたいという御意向もこの間大臣、おっしゃっておられたように思うので、大変いいことだと私は思っているのでありますけれども、そういった子供の悩みとか苦しみを直接相談する専門的な立場のカウンセラーというのですか、こういった方たちの学校への配置ということも考えていただけたらと思うのであります。大学でさえ五〇%の大学がそういった相談室を置いてあるわけでありますし、今の子供の置かれている環境、父子家庭であるとか母子家庭、そういうふうになるまでの家庭内のいざこざ、あるいはまた受験戦争に駆り立てられている子供たちというのはストレスも大変多いと思うので、これはぜひお願いしたいと思うところであります。  カウンセラーの資格というものが今のところはっきり決められていないわけで、三週間程度講習を受けた人がカウンセラーだといって相談員になっておったり、あるいはまた大学院を出てさらに二年も三年もインターンのようなことをやった、そういうカウンセラーもいるわけで、その辺の制度というものが、どういうカリキュラムを学んだ人がカウンセラーになるか、そういったところもはっきりしていただきたいと思うのでありますけれども、いかがでありましょうか。
  84. 森喜朗

    森国務大臣 カウンセラーの配置、これは大変大事な御指摘だろうと思います。  しかし、私は、学校教育というのは、子供たちにとってすべての責任は校長と先生方みんなでやはり対応すべきだと思うのです。最近では分極化してしまって、それぞれ皆専門化してしまいます。問題のような行動が出てくる、私は知りません、それはもうカウンセラーの担当の先生にお任せしなさいということであってはならないのではないだろうか。やはり教室を持っている先生が教室の子供たち全体に対するいろいろな意味での、勉強も教えなければなりませんが、児童生徒のいろいろな相談に乗ってあげるということが大切ではないか、そういうふうに考えますから、こうした問題行動への対応というのは、校長のリーダーシップのもとに、生徒指導主事を初めといたしまして全教職員一致した協力で指導体制を整えるということが学校教育の中では不可欠ではないかというふうに考えているわけであります。専任のカウンセラーを置くということも一つ考え方ですからこれも大切だと思いますが、今文部省としてとるべきことは、すべての教員がすべての教育相談に乗ってあげられるように、専門的な知識や技術を身につけるということの方がより大切だと私ども考えておりまして、そういう意味では、各種のいろいろな技術が進むように指導したり、講座を開設したり、いろいろな機能を果たせるような事業を文部省としては進めていきたい、こう思っているわけでございます。
  85. 石原健太郎

    ○石原(健)委員 カウンセラーを置くということになりますとまた財政的な負担等も出てまいりまして、いろいろ大変な面もあろうかと思うのですけれども、肉体的なちょっとした傷を治すとか、あるいは熱が出たら薬を飲めば治るわけでございますけれども、そういったことに対しては養護の先生――養護の先生は看護婦さんの資格を持ってさらに何か勉強されるのであろうと思いますけれども、こういった肉体的な傷よりは精神に受けた痛手、心の傷というのははるかに治療が難しいと思うのですよ。現に医学が進んできまして、そういった一般的な病気は、入院してちょっとした手術をして三週間とか一カ月たてば退院できるわけでありますけれども、精神の病気の場合には、宇都宮病院など見てもわかりますが、一たん入ると死ぬまで出られないようなケースもありますし、三年も五年もかかるケースが多いというふうに聞いているわけであります。昔は確かに家庭環境社会環境、いろいろ子供にとって、子供は国の宝などという思想のもとに大切にされておりましたけれども、今は子供環境も随分悪化しているので、前の考えだけで対応するのは無理だというふうな気持ちも私は持つわけであります。この点につきましては、なお一層研究をしてみていただければ、こうお願いするところであります。  次に、社会教育も随分と進んでまいりまして、公民館の講座とかPTAの両親学級なんかで、幼児の教育をいかにしていくかというような講義も随分あって充実はしているのですけれども、そこに出席をする人の顔ぶれを見ますと、子供教育に熱心な御父兄の方でいつも大体顔ぶれは決まってきてしまう。そういうところに本当に出席してもらいたいというような方々はさっぱり顔を出さなくて、子供たちは相変わらずというのが現実であります。かつては、今大臣もおっしゃいましたけれども、三世代一世帯あるいは隣近所の人から子供の問題等についていろいろな助言もあったと思うのです。実際に私は自分の例を考えてみましても、子供ができたときに育児の知識は何もありませんでした。しっけ方というのも、どうしていいか、何もなかったわけであります。性に関する教育もまだまだ不十分だという声も聞かれるわけでありますけれども、こういった育児とかしっけのやり方あるいは幼児教育に対する重要性教育、そういったことについては子供ができてからでは遅いので、今九五%くらいの人が高等学校に進んでいるわけですから、せめて高等学校でみっちりこうした面への教育も配慮してほしい、こんなふうに考えるのでありますけれども文部省の方のお考え等もお聞かせいただきたいと思います。
  86. 高石邦男

    ○高石政府委員 御指摘のように、子供を生んでからではなかなかこういう面の教育というのは徹底して行うことができないということで、まず一つは、高等学校段階で、そうした育児や幼児教育に対する教育充実することが必要であろうということで、家庭一般、社会科、保健体育、こういう教科でそういう面の教育を展開しているわけでございます。それから、今度は社会教育の面で、子供を生む前の「明日の親の学級」という学級講座を三年ぐらい前から開設するというような形で、要するに具体的に子供を生む前に育児、幼児教育についての教育の徹底が必要であろうということで、そういう面の施策を充実、展開してきているわけでございます。
  87. 石原健太郎

    ○石原(健)委員 次に、この前もこの委員会委員の方から御指摘があったわけでありますけれども、よい教育のためにはよい先生の実現が一番大切だ。今子供の気持ちがなかなかわからない。大学出て一生懸命勉強して先生になるわけですから知識は大変豊富ですけれども子供の気持ちがわからない先生とか、子供となかなか話し合いのできないそういった先生があらわれつつあるというふうにも聞いております。  それで、先生になる過程での教育なんですけれども、カウンセリングにこだわるようでありますけれども、その間にカウンセリングの心理学であるとか人間関係学というんですか、子供とのつき合いのそういった勉強、それからまた話し方の勉強、こういったことももっと重視していただけたらと思うわけであります。それからまた、一たん先生になってしまうとずっと先生ということでやるわけでありますけれども先生によっては、無給でもいいから十年間ぐらい経過したところで一年間ぐらいまた研修のできるような機会を与えてほしいと言っている人もおります。それから、ずっと先生でいられるからということで決して気がたるんでいるんではないのでしょうけれども、責任を持続するといいますか、そういった考え方からも裁判官が再任制度のもとにあるというような、再任制度と言うんですか、そういったことも検討してみていただけたら、こんなふうに感ずるところでありますけれども、この点に関しましてはいかがでありましょうか。
  88. 森喜朗

    森国務大臣 昨年十一月の教養審の答申におきましても、生徒指導に関する科目を必修とするような提案がなされておりました。これも石原さん御承知だと思うのであります。先ほどからカウンセラーのことに関しまして先生のいろいろな御指摘がございましたが、どうもそういう道徳教育、徳育の問題も最近は、いろいろなアンケートを見ましても、もっと重要視をしろ、あるいはもっと重点を置くようにという国民意見がそこにあらわれています。  文部省といたしましても、道徳教育については随分指導をしているわけでありますが、どうも実効が上がらないのではないかという意見がある。それにはさまざまな理由があるんだろうと思いますが、どうも先生自身がもう世代が変わってきておりまして、私や石原さんなんかの世代よりはもっともっと若い人たちが、今学校の直接の現場の先生になっていらっしゃる。むしろそういう先生方自身が、今までの教育を受けている過程の中で道徳教育などはどうも学んでなかったという方たちもかなりある。私どもの経験からいえば、確かに小学校二年生で終戦でしたから、私たちの小学校、中学校の間は全く修身教育といいましょうか、道徳教育というのはなかったわけですね。ですから、そういう教育を受けてきた環境、そのことのめぐり合わせみたいなものが今の社会のいろいろな問題として出てきておるのではないか。  そういうふうに考えますと、確かに先生を採用する一つ条件と言うと言葉はよくありませんが、先生になられる資質を高める上において、今先生からお話がございました生徒指導、カウンセラー的なことができるように、子供たちの気持ちになっていろいろな物事の相談ができるようなことも十分先生の資格として持つことが大事だろう、教育上の学問、知識を植えるだけなら確かに頭のいいのはすぐ先生になれるのかもしれませんが、人間的な面で本当に子供たち指導していけるのかどうか。あるいは中学、高等学校というそういう教育を受けてきた過程の中において、例えば運動部などのスポーツの経験をしておれば、人心を掌握していくということについて割と体で覚えておられる。勉強だけをしていって、学力だけで先生の試験が行われることが、ややもすれば今まで強かった。そうすると、勉強だけやっているわけでありますから頭はいい、学問、学術、数学、何でも教えることはすばらしいかもしれませんが、どうも子供たちの中に入っていって、いじめっ子がいても、子供たちの中に入って助けてあげようという気持ちにはならないで、ついつい避けて通って帰ってしまうということがあるんじゃないか。そういう面では、そういう生徒指導に関する勉強をよくしていただくということが、これからの先生になる資格の上において私は極めて大事なことだというふうに考えるわけです。  そういう意味で、今国会にお願いしております免許法につきましても、今のような科目を必修とすることなども含めながら、改正について別途に御審議をお願いしたい、こう思っているわけでございます。もちろん文部省といたしましては、今後とも、教員養成の方の仕組みとしてはそういうところに重点を置くように大学当局などにも十分指導していかなければならぬというふうに思います。  それから、教員資格の見直しというような問題は大変重要な問題でございまして、基本的に、結論から申し上げれば、慎重に検討を要する問題であろうというように思いますが、先生もお尋ねの中に例として取り上げられましたけれども我が国の職業資格の場合の雇用の慣行というものもございますし、公務員の法制上の問題もございまして、十年だったから再免許を与えるんだ、場合によるとそれで先生が失格するということになることが実際の公務員制度の中でうまくかみ合っていくのかどうかというようなことも大変難しいところだと思いますが、だからといって、一遍先生になったから一切それで、いつまでも先生の資格を持っていっていいんだということをすべて容認をしていくということはいかがなものかというふうな感じを私自身も持っております。ただ、講習をするために先生方お休みいただいたり、石原さんから御指摘いただいたように再教育をしていくということは大事でございますが、例えばそれに対する代替の人的な要員をどういうように予算措置をしていくのか。かつて元信さんが、自然と親しむ授業をできるだけ推進をしたい、渡部さんもさっき午前中の御質問で、自然との触れ合いをもっと高めなければならぬ、こうおっしゃいました。この間は、そういうふうなことをやると先生の二十四時間勤務体制は一体どうなるのか、あるいは代替要員はどうなるのかというような御指摘もあったわけでございますが、そういうようなもので考えてしまえば、これは先生に何もさせないでおくということになるのかもしれませんが、子供の全人格教育ということを最大に考えていくということが大事で、そのことをどう判断するかは教育委員会学校が考えていくということでなければならぬというふうに思います。そういう意味先生方の再教育というのはとても大事なことでございます。  もう一つは、再任制度というのはどうなのかというようなことの御指摘もございましたが、私は個人的な考えとしていつも頭に置くのは、経験が豊富ですばらしい先生方が停年になってやめてしまわれるというのはもったいないなという気がするのですね。もうちょっと経験を持っておられる先生方に上手な仕組みとして肩本の教育の中に携わっていただきたい、そういうようなことが考えられないものなんだろうか、こんなことも常々頭の中に置いているわけでございますが、今先生から幾つ指摘をしていただきましたことなどもこの問題と合致していくのではないか、今後ともそういうふうなことも十分検討していかなければならぬというふうに考えます。
  89. 石原健太郎

    ○石原(健)委員 お考え、よくわかりました。  年々、せっかく高等学校に入学しながら、入ってすぐやめてしまうとか中途退学する人もかなりの数が出ておるようであります。これが原因かどうか、私、個々に聞いてみたわけじゃないのでよくわからないのですけれども、私が想定しますに、例えば福島なんかの場合、昔は農家が非常に多くて、農家の子弟も大体農業を継ぐということで、農業高校なんというのは大きな役割を果たしてきた。ところが最近、産業構造の変換といいますか、これも社会の変換なんでしょうけれども、農村地帯にもどんどん工場ができてきて、工場なんかでは工業系の卒業生をうんと求めているわけですね。ところが、じゃ社会が変わったからそういった学校中身なんかも農業系から工業系に幾らか変わっているかなと思って調べてみますと、これも福島県の例で恐縮ですけれども、科の転換はあくまでも農業なら農業の中で、畜産から農学科にされているとか、あるいは農業から農業工学に変わっているというふうに、農業の中でしか変わってないわけであります。一遍に農業から工業だということは先生の確保の面からいっても無理でしょうし、今まで農業を担当していた方が急に工業を教えるわけにいかないし、やめるわけにもいかないということで、徐々に変わらざるを得ないということはよくわかるのですけれども、全然そういった転換がないということにちょっと疑問を感じるわけなんです。そういう転換を進めていけば産業界も喜ぶし、またその子供も、せっかく工業に行きたいと思っているのに農学校にしか入れてもらえなかったというようなことで、途中でやめたり学問に興味を失ったりするということもなかろうと思うわけであります。  それから、中途退学されてその後専門学校なんかに進みまして、専修学校と言うのですか、そういった実地のことを学んでいくうちに学問に対する興味がまたわいてきて、そこを卒業したら今度はでは大学に行ってみたいというような子供も出てくるようでして、そういった学校の協会の方から、専修学校の、専門学校の卒業生にも大学の受験資格を与えてほしいというような要請も大分出ておるというように聞いておりますけれども、この辺に対する文部省のお考えをお伺いしたいと思います。
  90. 高石邦男

    ○高石政府委員 御指摘のように高等学校の職業学科、農業、商業、水産とかいろいろありますが、そういうものをもう少し時代の趨勢に対応するように転換していくべきだということで、ついこの間、理科教育及び産業教育審議会の審議のまとめでもそういう指摘を受けたわけでございます。したがいまして、文部省としては、そういう線に沿ってできるだけ時代進展に対応するような転換を図ってもらうように各県を指導したいと思っております。各県もそれぞれ工夫しておりまして、農業を農業だけというんじゃなくして、農業と食品、そういうものとの接点で少しずつ弾力的に移行させていく。一気に農業を工業というわけにいかないのでございますので、そういうような経過措置をとりながら転換に努力している県がかなりございますので、一層推進するように努めてまいりたいと思っております。
  91. 宮地貫一

    ○宮地政府委員 専修学校卒業生に対する大学受験資格の問題についてのお尋ねでございますけれども、現行制度では、大学入学資格は高等学校を卒業した者及びこれと同等以上の学力があると認められる者に対して認められているわけでございます。したがって、高等専修学校卒業者には認められていないというのが現状でございます。  専修学校そのものの目的等については、先生御存じのとおり、「職業若しくは実際生活に必要な能力を育成し、又は教養の向上を図ることを目的として」「組織的な教育を行うもの」ということで、内容的には修業年限一年以上、授業時間数が年間八百時間以上というようなごく基本的な事柄が決められておりまして、それ以外の具体的な内容については、それぞれ社会要請なり生徒の興味、関心等に応じて各学校が内容的に決め得る、そういうような意味でむしろ極めて自由な形で、ある意味では社会要請に対応し得るような形での運用というものが専修学校制度の仕組みそのものに本来的にあるわけでございます。したがって、現在直ちに大学入学資格を付与するということについては、専修学校がそういう多様な実態を持っておりますものですから、なお慎重に検討すべき課題ではないかというぐあいに考えております。  しかしながら、この問題についても、例えば通信教育を行う場合の入学資格の問題、放送大学も同様の問題があるわけでございまして、それらについては、現在でも聴講生として必要な単位数を取れば高等学校卒業資格がなくても後で認定し得るというような道も、現在通信教育については認めているというような問題もございます。  今後、これらの点についてもより弾力的に対応するような考え方は必要ではないかというぐあいに考えておりまして、私どもも今後の検討課題として取り組みたい、かように考えております。
  92. 石原健太郎

    ○石原(健)委員 どうかよろしくお願いいたします。  次に、学校教育環境のことについてお伺いしたいのでありますけれども言葉で言うより写真を見ていただくと一番わかりやすいので、委員長、写真を見ていただきたいと思います。
  93. 片岡清一

    片岡委員長 はい。
  94. 石原健太郎

    ○石原(健)委員 具体的な例を挙げて失礼かもしれないのですけれども、奈良県がつくろうとしている食肉処理センター、いわゆる屠殺場ですけれども、これが県の盲・聾学校の直接隣につくられるような計画になっております。また二、三百メートル離れたところには女子高校があるということで、そういったところに食肉センターができることを地元の人たちは大変心配しているのです。私自身は年とか羊を飼っておりますから、そういったセンターの重要性などについては十分認識しているつもりでありますけれども、この現状はどうなっているか、農林水産省の方にちょっとお尋ねをして、あと今後どう対処されるおつもりかをお聞きしておきたいと思います。
  95. 鎭西迪雄

    ○鎭西説明員 ただいま先生お話しございましたように、奈良県の大和郡山市におきまして食肉流通センターの設置計画がございまして、このことについて学校関係者あるいは近隣の住民等の間の設置反対の動きというようなことは、私どもも県庁あるいは地方農政局を通じて承知しております。  この設置計画については奈良県からまだ事業の申請が出されてきていませんので、現段階で農林水産省といたしまして具体的にどうこう申し上げる立場にございませんけれども、私どもが行っております総合食肉流通体系整備促進事業、これに乗って事業申請されます場合には、これは地元からの申請に基づく事業ということになっておりますので、申請が行われる間、当然、地域住民と関係者の意見調整が行われるものであろう、かように考えております。
  96. 石原健太郎

    ○石原(健)委員 私もちょいちょいそういったセンターなんか利用さしてもらってはおりますけれども教育環境上やはり学校の隣にできるということはちょっとどうかなという感じもしておりますので、文部省の方でも、今後学校あるいは県の方からそういった話などありましたときには慎重に対処していただきたい、こう思うわけであります。それで、現に機動隊が出動したりしてどんどん工事も進みつつあるようでありますから、ひとつその辺よろしくお願いしたいと思います。  本日これから委員長初め理事皆さん、大阪の方の公聴会に行かれるようで、ひとつ大きな成果を上げられることを期待しつつ、きょうは質問を終わらせていただきます。  ありがとうございました。
  97. 片岡清一

    片岡委員長 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は寸これにて散会いたします。     午後一時五十四分散会