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森国務大臣 総理も過般の選挙に際しまして、
教育改革に対します構想を述べておられるわけでございます。その中で、やはり今日の六・三・三・四制、これが私
どもが今日まで
教育を展開してまいりましたときの基本的な
学校教育の
制度でございます。しかし、
先ほどからも申し上げておりますように、
教育は
時代の
変化等に対応し得るように、また
子供の発達に即応できますように、常に
改善を加えていくことが必要であろうというふうに思います。
例えば、私はよく申し上げるのですが、就学前の
教育を
一つ考えてまいりましても、もちろん今では就学前
教育としては、保育所、幼稚園を含めて九五%くらいは
教育を受けているわけでございますが、基本的に
教育というのは小
学校からというふうに
義務教育では定めているわけでございます。
先生もそうだと思いますが、例えば私
どもの
時代の就学前というものの家庭
環境おるいは家庭の家族構成を考えてみましても、私
どものときにはやはり祖父祖母という三世代があった、あるいはまた母親というのはある程度家庭の中にしっかりと位置を定めていた、こういう
時代の中で、就学前
教育というのは
家庭教育というものが
充実をした形の中で
子供が
義務教育に加わっていくという経過を経るわけでありますが、今日では端的に申し上げて核家族化
時代、いわゆる祖父祖母三世代住んでいるという家庭は非常に少なくなってきているという面がございます。あるいは、家庭婦人が
社会に参加しておられることも最近では非常に顕著でございます。そういう
意味では就学前の
家庭教育というのは、どっちがいいとか悪いとかというのではなくて、ある
意味では、我々の
時代と今の
子供たちでは大分大きな差異がある。また、私
どもの
時代には兄弟が大変多うございました。しかし、最近ではもうほとんど一人ないし二人っ子です。そういう中で、兄弟同士で人間的な触れ合い、人間同士の約束事のようなものがわからないままに、いつの間にか
学校に入ってしまうという傾向もあるのではないだろうか。
こういうふうに考えますと、
制度そのものは昭和二十年代、あるいは小
学校教育におきましては戦前と同じ
制度をとっておって、そして今日では、就学前の
教育は当時と今とは大きなさま変わりをしているということでも明らかなように、そういう
社会の
変化あるいは家族構成、いろいろな
意味で変わってくる。変わってくるが、
学校の義務
教育制度はそのままに残っておるというようなことも、やはり私
どもは検討してみなければならぬ点があるのではないか。
一つの六・三・三・四という
制度を考えてまいります場合に、
社会の
変化というものを具体的に例を申し上げると、こういうようなことも考えられ得るわけでございます。
もう
一つは、偏差値
教育の是正ということを総理も述べておりますし、私
どももそのことは常に願っておるわけでございます。この
委員会でも私は先般申し上げた記憶がございますけれ
ども、やはり今の
学校の
先生方にとっては、中学から高校にあるいは高校から大学に移る場合に、自分たちの
学校と他校とのいわゆるレベルの比較というのは非常に難しゅうございます。その中で
子供たちが、Aの
学校から東京大学に何人入るのか、Bの高校からは何人入るのか、Aの高校で十番目だったらBの高校では何番目に位置するのか、こういうことがなかなかわかりにくい。
先生が
子供たちの将来の進路をできるだけ適切に
指導してあげたいということから、やはり
先生方がその資料としてどうしても参考にしなければならぬということで、偏差値を利用しておられるというのが
現状だろうと思います。ただ、そのことが非常に過度にわたったり、
学校教育全体の中に偏差値そのものを入れてしまうというようなことがあってはならない。こういうようなことから、たびたび
文部省といたしましては、偏差値を余り
教育の中で用いるということについては十分配慮しなければならぬ、改めなければならぬ、こうしたことをいろいろな
角度で通達もして今日まで来たわけでございます。
しかし、
先生の
立場から見れば、それぞれの
子供たちを、できるだけ望む高等
学校あるいは大学にぜひ進学をさせてあげたいというのが、これはお父さんやお母さんの願い以上に
学校の
先生はそのことを願っておられるであろうし、このことがある
意味では、過度になってまいりますと、
学校の
先生のよしあしというのは
生徒をどれだけ上の
学校へ進ませるか、もっとわかりやすく言えば、どれだけ浪人を出さないでおくか、そのことがあたかもいい
先生であるかないかということの
基準にまでなっているというような傾向もなきにしもあらずでございます。
学校の
先生が偏差値をつい利用せざるを得ないという、今日のこうした過熱な
受験競争を何としても解消していくことがやはり当面の緊急の課題であるというふうに、私も総理も受けとめているわけでございます。
朝日新聞の御
指摘いただきました、偏差値は簡単だと申し上げたのは私なりの個人的な
考え方でございまして、偏差値を全く使うなということも非常に難しいことだけれ
ども、仮に偏差値を全くなくする、無にしてしまうということならやりようによってはできるんだ。それは、学力中心で人をはからなければいいわけであって、学力で見るから
先生もついつい偏差値に頼らざるを得なくなるわけです。例えば高等
学校あるいは大学を選抜するに際しまして、学力で見る面は三分の一だけですよということであれば、最高の点を取ったって三十点でございます。あとの三分の一は、例えば
文化やスポーツを通じて活動した面を見てあげてください、こういうふうに最初からはっきりと約束をすれば、僕は学問幾らやってもだめなんだから跳び箱を一生懸命やろう、水泳は少なくとも百メートルだけ泳げばいいんだという
一つの
水準があるならば、一生懸命水泳の練習をされる。それだっていいのではないか。ただし、やはりその面は選抜の中で選んであげる、そのことを見てあげるという
制度がなければ、幾ら泳げ、走れと言ったってするわけないのです。
文化活動もそうでしょう。別の
意味では、高等
学校時代の調査書な
ども十分に見ながら人物を審査する、そしてその
生徒との間の面接な
ども十分手間暇をかけてやるということであれば、その面で三〇%、端的に言えば、仮に学力の面で一〇%しか取れないといたしましても、そうした
文化活動、サークル活動の面で三十点取る。その総合的なバランスから見れば、私は選抜方式というのは改められるのではないか。そういう
制度を
学校が本当に完全にやってくれたら偏差値なんか吹っ飛んでしまいますよ。そんなこと業者はやらなくなってしまいますよ。偏差値はあくまでも民間の業者が編み出した
一つの方途でございますから、それを利用しないように持っていくことで、いわゆる
教育産業といいましょうか、そういう人たちが、偏差値をやってもしょうがない、そんなものをつくり上げてもしょうがないというように、自然に考え直してくれるだろうという期待感を持って私は申し上げたわけでありまして、そういう
制度をこの
教育改革で取り入れるということを申し上げているわけではございません。そういうやり方をすれば案外偏差値なんて吹っ飛んでしまいますよということを申し上げたわけでございます。
あくまでも個人的な問題として申し上げたわけでございますので、御理解をいただきたいと思います。