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深谷委員 同時に、徳育の問題で言うと、
社会全体がその
責任を負わなければならぬと思いますね。非行化の問題
一つ取り上げましても、
社会全体が包んですくすくと直して差し上げる、伸ばしてあげる、そういう仕組みが大事でありますが、非行防止の声はかなり大きく出ておりますが、
現実にはその原因となるものを除去したり解決しようとはしておらないという現状であります。
私は、秘書に中学生、高校生が読んでいる本を買ってこいと言って何冊か買わして、中を見て愕然といたしました。とても説明できるような内容ではありません。こういうものがはんらんをしているのが
現実です。もちろん、言論の弾圧とか言論の自由とかいうことを考えると容易なことではないと思いますが、目に余るようなものが放置されていて
社会の中で徳育ができるというふうに考えることは大いに誤りだと思います。きょうせっかく総理府においでをいただきましたが、時間がありませんから、どうぞそういう問題も深く検討して、どうやったらそういう問題を排除して立派な青少年が育成できるかということに四つに取り組んで頑張っていただきたいということだけ申し上げさせていただきたいと存じます。
知育、徳育いろいろな問題がありました。体育も同様であります。
だんだんに戦前と比べると、例えば今の子供たちは筋力がない、頭でっかちのもやしっ子が多い、
大臣や我々は体力には
自信がありますけれども。高校野球、今大いにはやっております。しかし、その野球でも選手の集め方など、多くの問題があるわけでございます。調和のとれた体育の指導、本当に心身ともに健全な子供たちを育てるための新しい体育の
あり方、ここいらもこれから
設置される
審議会で大いに検討していただいて、具体的な成果が上がるような御
努力を文部省を中心にやっていただきたいと思います。
時間がありませんので、先ほど説明のございました事柄について、もう
一つ伺います。
法案の趣旨説明の中で、二十一世紀の我が国を担う青少年の育成を目指して
教育全般の改革を
推進していくんだ、こういう
お話をなさいました。二十一世紀というのは我々がかつて経験しない、予想できない不確実な
時代だと思うのです。一体どのような
時代になるのか、これを想定することは容易なことではございませんが、例えば
一つ私なりに考えてみますと、二十一世紀というのは科学技術が猛烈に驚くほど進歩した、そういう
時代になるであろうことは確かだと思うのですね。実験の段階でありましょうが既に始まっている、会社に出勤しなくてもコンピューターを利用して自宅でボタンを押せば
仕事になる、そういうような
時代も来るでありましょうし、ロボットで代表されるような、省力化ということから起こってくる
機械効率性を追求した
人間疎外の
時代に入っていくのではないかというおそれを私は抱いているわけでございます。
例えば
一つの品物をつくる場合に、かつてであれば何年もかけて、しかも全工程を勉強しながら頭で考えて
一つの品物をつくってきたのであります。これからの
時代というのは、例えば自動車一台つくるのでも、今でもそうでありますけれども、ボルトをつくるのはボルトの係だけ、タイヤはタイヤだけ、全部ばらばらに工程が区分せられて、その部分だけで
仕事をしていくということが二十一世紀の労働ということになってまいりますと、全体を考えていくという、
人間は考える葦だと言いましたが、そういうものがなくなって、生きがいのない、働きがいのない、
人間疎外の
時代が起こってくるのではないだろうか、そういうふうに心配するのであります。同時に、家庭も核家族に分かれて、だんだんに人と人が寄り添うように生きるという
時代から、うら寂しい、砂漠のような精神
状態の
時代に変わっていくおそれがある、そういう
時代が二十一世紀の
一つの特徴ではないだろうかというふうに私は思えてならないのであります。
そういう二十一世紀を担う青少年の
教育とは一体何だろうか。言いかえれば、まさに今までやってきた
人間教育をどう継続させてこれを完成させるかということではないだろうか、私はこう思うのであります。いたずらに、二十一世紀というのは科学万能の
時代だから、それに対応できるような目先の技術を身につけさせるような
教育をもしやっていったとするならば、先ほどの受験戦争のような大きな禍根を残すことは明白であります。知育、徳育、体育、三位一体の
人間を中心とした
教育をどう継続させ、これを完成させるかがまさに二十一世紀の
教育の課題ではないかと考えるときに、今まで
大臣と議論をしてきたさまざまな問題の中からその欠点を明らかにし、それに改良を加えていくということにこれからの力を注いでいくべきではないだろうか、私はこう思うわけであります。
全体を考えて
人間中心の二十一世紀の
社会をどうつくっていくか、いわば哲学ともいうべきこれからの
教育の重要な課題があるわけで、そういう問題をじっくり考えていただくというのが臨教審のありようでなければならない、こう思うのですが、いかがでありましょうか。