○水野公述人 御紹介いただきました水野でございます。
医療費問題というのは大変難しいものでございまして、いわゆる一筋縄ではいかないテーマの
一つなのではないか、私は常日ごろそう考えているわけでございます。
一九五〇年より前には、だれでもが
医者にかかれる国というのは世界じゅうにどこにもなかったわけであります。それが五〇年以降、主として
健康保険制度の
導入によってだれでもが医師にかかれるという国がふえてきたわけで、今日先進国と言われているのは全部そうであるわけであります。最初の間は、
医療費というのはどうしても要るのだからということで、どこの国でも全部払ってきたわけであります。ところが、ある一定のところに来ると、
医療費ばかりそんなにかけたのでは困るという議論が必ず出てくるわけであります。
私は、もう数年前でございますけれども、スウェーデンに参りましたときに、例のノーベル経済学賞をもらいましたガンナー・ミュルダール先生にお目にかかることがございまして、そのときにその問題について聞いてみましたら、ミュルダールさんのおっしゃるのはこういう御説明で、なるほどと僕は思ったわけであります。それは、ヨーロッパの各国を見ていて、大体GNPの六%を超えたところから、主としてエコノミスト、大蔵官僚から、そんなに
医療費ばかり出してもいいかという議論が持ち上がって、それで
医療費抑制というものをやっていくようになる。先生方も御承知のように、日本よりはヨーロッパの方が
医療財政というのははるかによくないわけであります。そこで、各国でいろいろなことをやっているのは御承知のとおりだと思います。
ただ、そこで
一つ言えることは、私は、
医療費問題というのは、長期展望の上に立って、しかもタイミングというものがあるのではないだろうかということをかねがね思うわけであります。日本もこのまま放置いたしましたら、二十一世紀には大体三十兆円の
医療費になるわけであります。三十兆円というのは、口で言うのは易しいですけれども大変な
数字であるわけでございまして、いずれにしても、これは
国民が何らかの形で
負担しなければならないものであるわけであります。だとすれば、やはり早いうちからいろいろと対策を考えていかなければならないという
考え方には私は
賛成でございまして、この三十兆というのが今のままで絶対に持てるという保証は多分ないのではないだろうかと
一つ思うわけでございます。
負担の限度というのは、かつて私もメンバーの端くれでございましたけれども、社会保障長期計画懇談会でいろいろ議論をしたときに、これは四、五年前でございますが、当時の西ドイツが限界であろうと言われた。西ドイツは
国民所得の約五〇%というのがその当時のあれでございまして、そこら以上になって、例えばスウェーデンのように六五%も取るようになれば労働意欲が減退するではないかという議論が大変華々しく行われた結果、その辺に落ちついたということがかつてございましたが、やはり私はそういうこともあるのではないか、
つまり負担の限度という問題が
一つあるわけであります。
笑い話としては、東大のある先生がおやりになりましたのは、五百年先にはGNPイコール
医療費になるというのがあります。
計算上は確かにそうなるのかもしれませんが、僕は実際にはそうならないと思いますけれども、
つまり負担の限度ということを考えなければいけない。その場合には
医療費だけを考えたのではいけないわけで、やはり年金も所得税も地方税もひっくるめた形でどれくらいを
国民が持てるのか、そういう
考え方が
一つ必要であろうと思うのであります。
それからもう
一つは、これは俗に
国民の選択の問題と言われておりますけれども、
つまり要るものは全部
国民が
負担するという形でいくのか、そうではなくて、実際に
病気にかかった人もそう厳しい形でない
負担をするということの方がいいのか、これは私はむしろ
国民の選択の問題だろうと思うのであります。その選択をどうするかということをいろいろ考えられたのが今度の案の
一つではないかと思うのでございます。
スウェーデンは国会議員は初めから七五%引かれるわけでございますが、日本の場合には、そういうことよりは、
病気になったときには若干持つかわりに、保険税の方は下げる方がいいのではないかという選択を多分厚生省はおとりになったのだろう、僕はそう推察するわけでございますけれども、やはりその辺が
一つの問題点であろう。日本的なというのは、どう受けとめ、どう考えるか、あるいは将来との絡みをどう考えるかということはあると思いますけれども、私は、一応選択としてはこの辺がまあまあ妥当なところではないのだろうかという気がいたしておるわけでございます。
さて、ほかの先生方がいろいろおっしゃいましたから余り重複しない方がよろしいかと思いますので、今度の
健保改革案というのは幾つかの点があるのは既に申し述べられたとおりでございますけれども、その中で私が特に感じておりますことを二、三述べさしていただきますと、
一つは、監査の強化というのは評価できるのではないかと思うのであります。それはどうしてかと申しますと、大体支払請求書というのを見ますと、いわゆるレセプトでございますが、これは大学
病院のが一番多いわけであります。もちろん大学
病院は高度な診療をおやりになるところですからある
程度高いのは私はやむを得ないと思うのですけれども、その大学
病院の請求の中には、一番問題になりましたのは、ある医科大学で一カ月のレセプト五千万円というのが出てきた例があるのでございますけれども、どうもその中には、本来研究費であるべきものが保険に肩がわりしている
部分があるのではないかという気が若干するわけであります。そういう意味からいいまして、しかも、地方の支払基金審査
委員会というのは大体その大学の出身者が多いわけでございまして、なかなかそこになたを振るうことはできない。そこで今度考えられておりますのは、私はこれは
一つの方法だと思っておるのですが、
東京に全部持ってきて、どこの大学の出身者でも
文句の言えないというふうな大先生が監査の
委員を一応やるという形にして監査していくというのは、大変ユニークな方法なのではないだろうかというふうに私は思います。
それから二番目には、
健康保険そのものを眺めた場合、ヨーロッパの保険と日本の保険とで際立つた違いというのは実は二点あるわけであります。
一つは、保険が八種類にも分かれていて、しかもそれぞれが
給付内容も掛金も違う、そういう国はほとんどないわけであります。日本だけの特殊な現象であるわけであります。私はやはり、同じ日
本人と生まれたら、同じ掛金を払い、同じような
給付内容を受ける、この平等というものは、税金と同じことでございまして、平等でないと
国民は納得しないということもあると思うのであります。そういうことで、私は、幾種類にも分かれておるということに
一つの問題点があって、しかも公平でないということが
一つと思います。
それから二番目には、これは余り指摘される方はないのですが、
本人と
家族の
給付が違うというのもこれまた日本だけの現象でありまして、多くの国では
本人も
家族も同じであります。
負担を取る、取らないの問題は別としまして、それは同じであるわけであります。
それから、非常に話題になっております
退職者医療制度については、組合
健保に加入している若い間は原則
病気にならないわけですから、その原則
病気にならない人が会社をやめたら
国保にいかなければならないということ自体に、僕は非常に疑問を感じる一人でございまして、これから
病気になるというときになったら、
給付も悪いし掛金も高い
国保に入らなければならないというのは、ある種の矛盾なのではないだろうかと思います。
それから、一番焦点のようになっております
自己負担の
導入の問題でございますけれども、
自己負担の
導入は、せんじ詰めれば、日本には
高額療養費給付制度という大変妙味のある
制度がございますので、それの限度額が
国民にとって
負担にたえるか、たえないかという角度の議論が一番重要なのではないかと思うのであります。
つまり、五万四千円か五万一千円かは別としまして、その金額が果たして今の
国民にとって
負担し切れないものであるということなのか、いや、その
程度なら
負担できるということなのかということが議論の対象になるべきではないかと私は思うわけであります。
私は、個人的には一割
負担には
賛成であります。なぜかと申しますと、まず
一つは、一割
負担することによって
自分がかかった
医療費がわかるということであります。将来新幹線に乗ってもただ、飛行機に乗ってもただという時代になれば、当然
医療費はただでなければならないと私は思いますけれども、今のところは、新幹線に乗りましても、飛行機に乗りましてもちゃんと料金は取られるわけであります。だとすれば、私は、
自分がかかった
医療費が幾らかということがわからない
制度は、
制度としては必ずしも妥当ではないのではないかという気がするわけでございます。
それからもう
一つは、大変摩訶不思議なことだといえばそれまでなのでございますけれども、レセプトを見ますと、
本人の請求と
家族の請求とは、同一疾病と考えられるものでも、検査料とか投薬料とかが違うわけであります。それは
家族の場合と
本人の場合とは実際に違う場合も僕はあり得るとは思うのでございますけれども、厚生省あたりのデータによりますと押しなべて違うわけであります。ということは、何かほかの作用がそこに加わって請求額が違うのではないかということも、やや勘ぐりかもわかりませんけれどもするわけでございまして、そういう意味から、財政だけで考えるのなら、確かに一割
負担にするか初診時一部
負担を上げるかというのは私は並行した議論になると思いますけれども、私は、今申し上げました問題点から考えると、一割
自己負担の方がリーズナブルなのではないだろうかというふうに思っております。
それで、余り時間もありませんのであと簡単に申し上げたいのですが、私が考えておりますことの
一つは、この法案が仮に衆参両院を無修正で通ったといたしましても、
昭和六十五年ごろにはまたもう一度大
改革はやってくると思うのであります。そのときは今よりももっとドラスチックな案が出るであろう。例えば保険の一本化とか、償還制とか、
老人の管理
制度というものが多分出てくるのじゃないか。それはどうしてかといいますと、基本的には
老人増という問題が非常に根っこに強く大きく横たわっていること、医学・
医療技術の進歩によるもの、そういうものが両方合わさって、相当シビアな形になってあらわれるのではないだろうかという気がするわけであります、それだけに、今の
改革案が第一段階とするならば、第二段階はかくなる方向に行くという格好で、長期の展望を持って出てくるということがより
国民を納得させるのではないだろうかと思います。
最後に一言触れたいのは、私も非常に感じておりますことの
一つでございますが、なぜ
医療費がふえるのかという根本的な問題でございますけれども、それはいろいろなことがあります。検査が多いとか、薬がどうとか、
医療機器がたくさん入って日本はヨーロッパに比べると多過ぎるとかいうことがあると思いますが、私は一番大きな
原因は
老人がふえることだと思う。ふえた
老人はどうなっているのかというと、先生方はそういう御認識をお持ちかどうかわかりませんけれども、私どもが知っております範囲では、日本では
老人は決して健康な
国民ではないわけであります。おれは元気だと言う六十歳以上の方を集めて精密検査をしますと、大体七割は成人病であるわけであります。それから、六十五歳以上の人はほとんど九割弱が成人病を持っている。しかも、その成人病は何かと申しますと、実は
老人医療費三兆二千億円の内訳を見ると、皆さんはがんが多いと思われるかもわかりませんが、実際にはがんは二千七百億円しか使ってないわけであります。がんは死ぬか治るかのどっちかですから、死んだ人の請求書は出てくることは原則ないわけでございますから、結局はそういうことになるわけであります。そういうことを考えますと、心臓血管系の
病気で、死にはしないけれどもお
医者さんにかかっている方が圧倒的に多いわけであります。これは
老人医療費全体の四二%を使っておるわけであります。私は、本当に
医療費を減らすのだ、
つまりだれが
負担するかという問題じゃなくて、本当に
医療費そのものを減らすということをお考えになるとすれば、やはり三十五歳から年に一回チェックをして、非常に軽いうちに抑え込むということをやる以外には方法はない。これは
老人保健法絡みで保険局ではないのですが、公衆衛生局で鋭意専心努力しておられるのは私も知っておりますけれども、
国民に意識
改革を起こさしてみんなが受けるというふうにならなければならないのではないだろうか。そうやって、仮に一病息災に持ち込むとかになりましても、実際には、八十五歳を過ぎても生きている人は、実は千人生まれると五人しかいないわけです。まことに少ない。これは先生方といえども、中学校のときに千人中五番以内だったという方は多分いらっしゃらぬと思うのです。それくらい難しいことなんです。だからこれは恵まれた人だけなんです。多くの人は大体七十七から八十二くらいの間にいずれは死ぬわけですね。そこをできるだけ死ぬ前の日まで健康でいくということが、実は
医療費を減す唯一の方法なのではないだろうか、そういうふうに思います。
しかし私は、現段階で
健保改革案を出されたということについては、いろいろ問題はあるにしても、タイミングの面等から見ましてある
程度やむを得ないものなのではないか、言うなれば
賛成である、そういうことでございます。(拍手)