○
森井委員 これ以上言いません。
もう
一つ問題があるのは、
陸海軍の
雇傭人の
皆さんの例を挙げてみますと、奇妙なことに、
陸海軍の
雇傭人であられた方はそれぞれ
共済組合に入っておられました。そして
戦争が終わりまして、それぞれ新たな分野に就職をなさったという
経過があるわけでございますが、
公務員関係の仕事におつきになった人は、そのまま
陸海軍雇傭人の
期間の
通算をしていただいて
共済年金等に継続をされている。ところが、民間の
会社に入られた方は、これは
厚生年金ですから、
厚生年金は
陸海軍雇傭人の
期間を
通算をしない、
共済組合員の
期間を
通算をしないという形になっておるわけでございます。これは
年金に関する問題ですから、
援護局長に聞くのはちょっと問題があるような気がいたしますが、
援護法を所管をする局としては何をしておったのかと言いたいわけでありまして、同じように
軍属、準
軍属であった
皆さんに対して私は片手落ちじゃないか、こういう
感じがするわけでございます。
年金に関しては私も知らぬわけじゃありません。それから
共済組合の掛金を掛けた人と掛けない人というような問題があるでしょうけれ
ども掛けた人というサイドでいけば、これは
法律の
制定の仕方によっては
厚生年金にも継続できたという問題があるわけでございます。
大ざっぱに申し上げまして、戦後
処理を一手に引き受けておるとは申し上げませんけれ
ども、かなりな
部分を担っておる
厚生省援護局としては、やはりその点についても着目をしなければならぬ。これは去年もおととしもだめですという
返事が返ってきております。しかし、この際でありますから、この問題についても、やはり本
委員会で
発言をせざるを得ないというやむにやまれない気持ちを私は持っております。これは
答弁は要りません。
答弁は要りませんが、先ほどの
国籍要件とあわせてこの問題があるということについても、この際、明確に
問題提起だけはしておきたいというふうに思うわけでございます。
さて、次の質問でありますが、これもここ二、三年、私が取り上げております旧
三菱徴用工の問題でございます。
若干の概要を御説明しておかなければならぬわけでありますが、先ほど申し上げましたような
日本の
軍国主義政策の一環といたしまして、
戦争中、なかんずく
戦争末期になりまして、
朝鮮半島から
徴用工を随分
日本の
国内に送り込んできたわけでございます。これは私といたしましても本当に胸の痛む話でありますけれ
ども。大体二十二、三歳、一家の支柱で働き盛りというころに一通の
徴用令書を出しまして、そして
日本の内地に送り込んできた。
広島には
三菱重工という
会社がございまして、これは
軍需充足会社でありますが、約三千人ぐらいの
方々が
徴用工として働いておられた。八月六日になりまして原爆が投下されました。そのほとんどの
方々が
被爆者になられたわけであります。
戦争が終わりましたから、当然のことでありますが、
日本政府が
マッカーサー司令部とも相談をした上で、これは丁重に
朝鮮半島にお帰りをいただかなければならぬ、こういうことになりまして、それぞれ
責任者をつけて釜山までお送りするということになっておりました。送還は順調にいったのでありますが、
最後の一便が今もって着いていない。これは
昭和二十年、一九四五年の一応九月十五日
広島を出発したとなっておるわけでありますが、記録その他正確な出発をされたという日にちについては、残念ながらそれを証明するものはございません。
私の手元に持っております資料でも
一つあるわけでございますけれ
ども、これは「
三菱重工業株式会社広島機械製作所」という用せんを使って
韓国の人に
返事を出された
文書がございます。
というのは、うちの肉親が帰ってきていない。多分
息子だと思うのですが、
息子が帰っていない、どうなっているのでしょうかということで、今申し上げましたこの
会社に
問い合わせをした。
問い合わせをいたしましたところ、
問い合わせの
返事を出しておるわけでありますが、
昭和二十二年四月十七日、二十年が終戦でありますから、二年ばかりたっておるわけでありますが、まだ帰っていないということで
問い合わせをいたしております。それに対する
三菱重工側の回答の
文書であります。たまたま私が手に入れました。
〔
委員長退席、
愛知委員長代理着席〕
それによりますと、
趣旨は、あなたの
問い合わせに対して御回
答申し上げますという形になっておるわけでありますが、徴用解除が
昭和二十年の八月三十一日、それから帰還の日が九月二十五日
広島発、こうなっております。
当時の記憶ですからはっきりしない。もう二年ほどたっていますから定かでない点もあるかもしれませんけれ
ども、いずれにしても家族が帰っていないということについては、
三菱重工からのこの
文書によります
返事でも明らかになっておるわけでございます。胸の痛む話でありまして、結局、
広島を立ったけれ
ども釜山まで着いていない。これはその後一人じゃありませんで、相当数の人が帰っていないということが明らかになりました。
韓国では、今そういった遺族の
方々五十名弱でありますが、遺族会をつくっていらっしゃいます。伝え聞きますと、年とった老母が村外れにまで、きょうは
息子が帰ってくるんじゃないかと言って出迎えに出る。まだ帰っていない。しょぼしょぼとまた自分のうちに帰る。その繰り返しがあるというふうにすら私は聞いておりまして、本当に胸の痛む話でございます。
事実として明らかになってまいりましたのが、約二百四十名、これは
広島を立って、そしてどういうわけかわからないんでありますが、戸畑港からその当時の木船をチャーターしてそして出帆をした。運悪くその後で枕崎台風あるいは阿久根台風というものが襲っておるわけでございます。先ほど言いましたように、いずれにしても帰っていないということだけがはっきりしておるものですから、特にその当時、そういった
朝鮮人の
徴用工の
皆さんを、指導員といっていろいろ指導しておられた方が、実際は過酷な労働を強いたということもあったんでしょう、反省の念に駆られまして、その有志がいろいろ捜索をされた。その結果、壱岐か対馬が、とにかくあの辺の島々で遭難をされたに違いない、そういうことで自費で調査をされました。もちろん
韓国の
関係団体の御協力もいただきました、御理解もいただきまして捜査をいたしました結果、壱岐の島に相当数の遺体が埋葬されておるということが明らかになって、発掘が始まったわけでございます。
そういう
経過でありまして、いずれにいたしましても、問題なのは、どういう
経過かわかりませんけれ
ども、正規のルートであります送還の方法がとられていない。例えば
責任者が釜山まで行ってちゃんと送り届けるというようなこともしていないわけでありまして、その意味では手続上相当欠陥があったことはもう間違いがないわけでございます。第一、戸畑港というのもこれも送還のための指定をされた港じゃなかったというふうなこともあるわけでございます。
そういうことで、私も本
委員会で
問題提起をいたしまして、去年大変御苦労なことでございましたけれ
ども、
厚生省は遺骨の調査団を出していただきました。そして去年に続きまして、ことしもまた六月に入りまして現地に出向いていただきました。簡潔でよろしゅうございますから、時間の
関係もございますから、
状況についてお聞かせをいただきたいと思うんです。