○
土井委員 その人道的な配慮ということで当外務
委員会で私が取り上げまして、幾たびとなくそういう御返答を私も耳にし、そして
韓国当局に対してもその
立場でお骨折りをいただいてきて、いまだに大変深刻なありさまのままで、一向によい
方向で進展を見ていないという問題がここにございます。
それは京都で生まれ育って、そして在日
韓国人二世として母国のソウル大学の法学部に入学をして勉強をされていたところ、一九七一年春に二人の兄弟がともに
韓国当局に検挙されて、国家保安法等に違反したということで学園浸透スパイ団事件で懲役七年を宣告された。一九七一年当時に七年ですから、とっくの昔の話なんですが、いまだにこの問題の、特に弟の徐俊植さんは七年の刑が一九七一年に確定してから後今日に至るまで収監されたままであります。その事情は、その都度私は外務
委員会で、一九七八年、昭和五十三年五月園田
外務大臣当時にもお尋ねをし、一九八○年、昭和五十五年当時には大来
外務大臣にお尋ねをし、次いで一九八二年、昭和五十七年当時には櫻内
外務大臣に数だびお尋ねをしてきたわけなんです。御案内のとおりで、この刑期が満了いたしました昭和五十三年、一九七八年五月二十七日という当日を
考えまして、私たちは刑期が満了して出てこられたときに
日本では温かく迎える用意をぜひお願いしたいというふうな気持ちを込めての
質問をいたしましたそのときには、私たちの
期待を大きく裏切られまして、社会安全法によって保安監護処分を受けて清洲矯導所に収容されて、二年ごとにこの保安監護処分というのは更新をされますから、昭和五十三年以後二年ごとに更新されて今日に及んでいるのです。通算しますともう十三年にも及ぶ監獄生活が続いているわけでありまして、私は
考えるだに人ごとではないという気が実はいたします。
大臣、御
承知でいてくださるに違いないと私は思うのですけれ
ども、この徐兄弟の御両親というのは小さいときから大変な苦労を積み重ねてこられまして、特にお母さんの場合なんかは十歳にもならぬうちから京都の西陣の織物問屋などに子守に出て、奉公に出なければならなかったというふうな苦労から始まりまして、父母とも大変な商売上の苦難と闘いながら、子供たちが高等教育を受けて成長していくことを最大の喜びとして懸命に生きてきたという御両親だったわけなんです。この二人の兄弟が
日本の高等学校を終えた後、母国の大学に進みたいと言ったときには毅然としてこれを許した御両親でもあったわけなんですが、ちょうど大来
外務大臣当時に、この徐俊植さんが収監をされて九年もたって、そしてその間傍聴や面会の数を数えてみると何と六十回以上も大変つらい思いで足を運ばれたお母さんが重病の床にあってあしたも知れない
状況になっている、何とかこの問題に対して明るい
方向での
解決をということを申し上げたそのお母さんも残念ながら既に亡くなられてしまったわけです。
考えてみると本当にいたたまれないような気が私はするのです。五月の二十七日がもう目の前に参ります。
外務大臣、今度という今度は何とかしていただきたい、こういう切なる気持ちでございますけれ
ども、これに対してどのようなお気持ちでお取り組みをいただけるでしょうか。