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参考人(
鎌形寛之君) まず、
意見を申し上げます前に、私のこの問題に対する
立場といいますか、それを明らかにしておきたいと思うのですが、私、現在まで約三十年間
弁護士の
仕事をしてまいりました。その間、
かなりの数の
選挙違反事件を扱った
経験がございます。そういう
意味で、実際の
選挙運動はどういうふうに行われているのか、その辺の事情については一応知っているつもりでございます。そういうような私の
経験と、それからもう
一つは、私が一
有権者であるというような
立場、その
二つの
立場から
意見を申し上げたいと思います。
私は
弁護士として幾つかの
事件に立ち会ってはきましたが、それらの
事件は大
部分は、いわば
選挙運動の末端で直接
有権者の方に働きかけるという
立場の方の
事件が大
部分でございます。したがいまして、
選挙運動の
主体である
候補者自身のお
立場とかあるいは
選挙を
管理、
執行する
立場とか、そういう
立場に立って
選挙運動を見た
経験はございませんので、私がこれから申し上げることは、大体
一般国民の
立場、あるいは第一線で
選挙運動に取り組んでいる方の
立場、そういう
立場から
意見を申し上げたいというふうに思います。
今度の
改正案について御
意見を申し上げる前にはっきりさしておかなければならない重要な問題が
二つあると思います。
まず第一は、現在の
わが国の
議会制民主主義のもとにおいて、
選挙というのは一体どういう位置、
意味を持っているものなのかということをはっきりさせておくことが
一つでございます。それから、そのためにはどういう
選挙が要求されるのかということです。それからさらには、現在の
公職選挙法は、そういう
立場から見て果たして適当な
法律であるのかないのかという問題を避けて今度の
改正案そのものについて論評することはできないことではないかというふうに思っております。
それで、まず
選挙の持っている
意味ですが、御承知のように、
わが国の
議会制民主主義制度においては、まず
選挙があって、
選挙によって選出されました
議員さん方が
法律をつくる、その
法律の枠内で
行政が
執行される、不当な
行政の
執行があればそれを
司法機関が救済する、そういう
仕組みになっております。こういう
仕組みのもとにおいては
選挙がまず一番
出発点になっている。たとえて言えば、
選挙は
議会制民主主義の
土台であるんじゃないかというふうに思っております。この
土台が正しくない、あるいはしっかりしていないということになりますと、その
土台の上に立っている
議会制民主主義それ
自身もゆがめられる
可能性があるんじゃないかというふうに考えられます。そういうことで、
選挙は非常に重要な
意味を持っているということがまず言えると思います。
次には、
選挙というのはどういう姿であるべきものなのかということでありますが、これについては、私ここに
裁判所の判例の一部を持ってきましたので、その要点だけちょっと読ませていただきたいと思います。これは
昭和五十五年に
広島高等裁判所の
松江支部というところで出された
判決の一部でございますが、
選挙問題に関連しましてこういうことを言っております。「
主権者としての
国民の
政治的活動の
自由——すなわち、
国民が国の
基本的政策決定に直接・間接に関与する
機会を持ち、かつそのための
積極的活動を行う
自由——は、これなくしては発展した
民主主義国家における
政治的支配を正当づける根拠を欠くものであるから、
憲法は一五条、一六条、二一条の各規定でこれを保障していると解される。ことに、
憲法二一条の定める表現の自由の保障は
民主主義国家の不可欠の要件であって、
国民の
基本的人権のうちでもとりわけ重要なものであることには異論の余地がない。」というようなことを言っております。こういうような
議論は
裁判所が考えているだけではなくて、通説的、一般的に承認されている
意見ではないかと思います。
私もこのような
考え方とほぼ同じ
考え方をとっているわけでありますが、あるべき
選挙の姿としては、そういうような
考え方の上に立って、まず
有権者に必要な
情報、
有権者が
判断するために必要であり、十分な
情報が
有権者に届けられなければならないというのが第一点でございます。それから第二点は、
有権者は、消極的に与えられた
情報を受け入れるという
立場だけではなくて、
有権者みずからが何らかの形で
選挙に
参加できること。そういうような
二つの自由が認められなければ、本当の
意味の
国民が
主体となった
選挙とは言えないのではなかろうかというふうに考えております。
こういうような観点に立って現在の
公職選挙法を見てみますと、私は
弁護士という
仕事をやっておりますので、一応
法律の
専門家ということにはなっておりますが、私たちが
公職選挙法をずらっと読んだだけではなかなか理解できません。非常に
制限規定が複雑多岐にわたっております。一体こういう行為をやって果たして公選法に触れるのか触れないのかというような質問をよく一般の
方々から私たち受けます。しかし、即座にその場で答えることがむずかしい質問が非常にたくさんあるわけです。その都度公選法をひっくり返してみて、幾つかの条文の関連を考えて、その上でこれはこうなるのじゃなかろうかという程度の回答しかできない。そのようにいまの
公職選挙法は複雑難解で、
国民には非常にわかりづらいものになっております。
国民が安心してここまではできるんだと、そういうような形の公選法にはなっておりません。
それからもう
一つは、公選法の
選挙運動に関する規定でありますが、非常に
制限規定が多い。
選挙法を読んでみますと、これもだめだ、あれもだめだ、これは
制限される、これは禁止される、そういうような禁止規定の羅列であります。私の友人で、ある
弁護士が、一部の
有権者の方から
公職選挙法について解説書を書いてくれ、そしてわかりやすい解説書、何ができて何ができないのか、だれが見てもわかるような簡単明瞭なものを書いてくれと言われて、非常に苦心惨たんして解説書を書いたということがございますが、そのでき上がったものを見ましたところ、これじゃ結局何もできないんじゃないか、こんな解説書をもらっても何の
意味もないんじゃないかという批判が出まして、結局その解説書は日の目を見なかった、そういうような実例もございます。そういうことで、現在の
公職選挙法の
制限、禁止規定は非常に複雑多岐にわたりかつ広範囲であるということで、
国民の
参加できる自由な
選挙というものを非常に阻害しているのではないかというふうに考えられます。
そのような公選法が施行されているためにその結果どういう現象が起きているかと申し上げますと、
一つは
国民の
選挙離れであります。
選挙にかかわるとろくなことはない、警察から事情を聞かれたりあるいは呼び
出しされたりいろいろな厄介なことが起きる
可能性がある、そういうのは御免だ、なるべく
選挙にはかかわらないようにしようということで、
選挙離れという風潮が一部では起きております。
それからもう
一つは、
公職選挙法の規定が余りにも
制限規定が多いために、いわば潜行した
選挙運動、警察の目を気にしながら行う
選挙運動というものが非常に横行しております。現在の
公職選挙法を見ますと、
選挙運動は
選挙の告示ないし公示
期間中でなければできない。事前には一切できないという
仕組みになっております。ところが、
公職選挙法が告示
期間中の
選挙運動についても大幅な
制限を加えているために、現実には告示の前から、告示中も当然ですが、告示の前から潜行した
選挙運動が横行するというようなことになっているのが実態じゃなかろうかと思います。人によっては、
選挙運動というのは告示になったらもう終盤戦なんだ、すでに事前
期間中に山は越しているんだ、そういうような声さえ聞かれている
実情じゃないかと思います。これも、
公職選挙法の
制限規定が非常に多過ぎて自由な明るい
選挙ができないための結果ではなかろうかというふうに考えております。
それからもう
一つは、こういうような
公職選挙法が施行せられて、私たちが
選挙違反事件を取り扱うわけですが、ほとんどの
選挙違反事件で捜査の対象になった
方々は、仮に有罪
判決が出ても、自分は悪いことをしたなということで心から反省するという人は、私の
経験から申し上げるとほとんどおりません。たまたまつかまったのは運が悪かったんだ、自分がやったことは悪いことでも何でもない、当然のことをやったんだけれ
ども、
公職選挙法が悪いためにたまたま私はひっかかってしまった、よその人たちもみんなやっているのに自分だけがひっかかった、これは運が悪かったんだ、そういうような受けとめ方をする人が非常にたくさんおります。こういうことも、現在の
公職選挙法が本来のあるべき
選挙運動というものから
かなり離れていった結果ではなかろうかというふうに私は考えております。
そういうようないままで申し上げましたことは、いわば今度の
改正案に対する私の
意見を申し上げる前提の
議論でございます。そこで今度は、
改正案そのものについて簡単に私の
意見を申し上げます。
主な
改正点は、
一つは
選挙運動期間の
短縮の問題、それから
選挙運動時間の
短縮の問題と
立会演説会の
廃止の問題だろうと思っております。
まず
期間の
短縮の問題ですが、現在の
選挙運動期間も、いまの
公職選挙法の
選挙運動規定を前提とする限りは十分なものではないんじゃなかろうか。もっと自由に
選挙運動ができるということになれば、これはおのずから
期間はまた別の観点から考えてもいいのではなかろうかと思いますが、現在の
公職選挙法の
選挙運動の
制限、禁止規定、そういうものを考えますと、
選挙運動のできる場というものは非常にわずかであります。そのわずかな
運動を現在の
期間中にやる、これだけでも不十分です。それをさらに
短縮するということは、その不十分に不十分を重ねる結果になりはしないかというふうに思います。
それともう
一つは、こういうように
選挙運動期間を
短縮しますと、先ほど申し上げましたように、それじゃ
事前運動に力を入れよう、告示以前の
選挙運動を一生懸命やろう、そのためには警察の目を多少気にしながらも潜行した
運動をやればいいんだというふうなことになりまして、
短縮した
意味が結果としてはなくなってしまうのではなかろうか。
短縮してもしなくても、結局は潜行した
選挙運動をさらに奨励する結果になってしまうのではなかろうかというふうに思っております。
それから時間の問題ですが、これは午前七時を午前八時に繰り上げるという案でございます。私たち
一般国民は大体午前七時には起きております。中には出勤途上の人たちも非常にたくさんいると思います。八時には会社に入る、あるいは八時ちょっと過ぎには会社に入ってしまうという方も多数いらっしゃることだろうと思います。そういうような
方々に対して何らかの働きかけをしようと思えば、早朝の時間はそれなりに貴重な
意味を持っているのじゃなかろうかというふうに思います。したがいまして、この時間
短縮についても、いまでさえ不十分な
選挙運動の自由が、この時間によってさらに制約を受けることになるということになるのじゃなかろうかというふうに思っております。
それから、
立会演説会の問題ですが、これについては、
立会演説会の
出席者が減っている傾向があるのかどうか私はわかりませんが、仮に減っている傾向があったとしても、
立会演説会の内容を改善すること、たとえば
質疑応答ができるようにすること、あるいは
候補者同士の討論ができるようにすること、あるいはそのようなありさまを
テレビで放映することができるようにすること、そういうように幾つかの改善を加えれば
立会演説会を非常に意義ある
選挙運動の場とすることができるのじゃなかろうかと思っております。
そういうことで、この三つの
改正点については私は
改正すべきではないのじゃないかというふうに考えております。
以上です。